隣のデスクは三台ぶち抜きで空席になっていた。向かい側もずらりと空席。班室内に、これだけ人が居なくなることは珍しかった。否、人が少ないことはあっても、一列に自分一人しか居ないという状況は滅多に起こるものではない。ある意味壮観だ。不必要な孤独感が煽られる。 読み終えた書類から顔を上げ、甲斐はしばしその光景を眺めていた。 そしてゆっくりと考える。 普通、「葬儀屋」は相棒と二人一組で行動するものだ。それなら、班室に居る人数が奇数であるということ自体がそもそもおかしいのである。自分一人きりがこの場に残っているということ自体が。そんな回り道をして、ようやく状況を理解する。――この列に自分一人しか居ないのは、要するに、今の自分に相棒が居ないからだ。論理のひとつも使っていかないと、正常に頭を働かせられる自信がなかった。 当たり前のように居た相棒が、ふつりと居なくなってしまった。 ――要するにそれだけのことじゃないか。 ――なにをそんなに呆けてるんだ。 空中に、視線と胡乱な思考を漂わせる。厳密に言えば、彼女は唐突に消えたのではない。彼女はきちんと「余命」を告げられて、仕事を引き継ぐ時間も別れを惜しむ時間も充分に与えられた上で輪廻に還ったのだ。それを短いと感じ、拒絶し、最後の別れにさえ背を向けたのは他ならぬ甲斐である。 ――自業自得だ。 ――受け入れられなかったのだ。 自嘲と言い訳が重なった。 今なら解る。受け入れがたい現実を、子供のように拒絶したのだ。ただそれだけの話だ。あのときには、ただ眼の前が暗くなるような絶望感しかなかったから解らなかったのだけれど。 ――蒔絵。 別れを告げたら二度と会えなくなるような気がした。飄々としたあの笑顔が二度と見られなくなるような気がした。二度と会えないのだということが自分にこれほどの衝撃を与えるのだと、その瞬間まで気がつかなかった。失って初めて解るなどといった陳腐な言葉が、自分にぴったり当てはまってしまうことに当惑した。失うものなどもうなにもない、身一つの死人だと思っていたのに。 中学生でもあるまいに、そんな青臭い感慨に囚われるなど馬鹿馬鹿しい。 鼻で嗤ってみても、塞いだ気持ちが元に戻るわけではなかった。 ――だから苦し紛れに、隣席の書類に手を伸ばした。 それは、出勤の間際に青葉がデスクの上に残していった書類だった。眼の遣り場、思考の避難所としては、仕事の書類が最適だ。普段であれば、他人の抱える案件に首を突っこむようなマナー違反は犯さないが、そうでもしないことには気を散らせそうにない。書類を無造作に放置する青葉が悪いのだ、と責任転嫁をしてもみるが、それもまた、普段らしからぬ思考展開だった。 書類に没頭することで、罪悪感からも逃避した。――記されていたのは、女子大生の魂だった。 自分の運転する車が事故を起こしたせいで、友人が死んだことを悔やむ――そんな魂。自分が死んでいるにも関わらず、他人の心配をして、自分を責めさいなみながら現世に留まっている。傍から見ればある意味美しい状態なのかもしれないが、本人はどうしようもなく苦しいのだろうと想像する。自分ではどうしようもないことに限って、喉を掻きむしりたくなるほどの気持ちにさせられるものだから。 助手席に乗っていたという友人はどこへ逝くのだろう、と考えた。なにも未練を残さず現世に留まらなかったということは、彼女は輪廻に還ったのだろうか。それともあるいは、運悪く「葬儀屋」に捕えられたのだろうか。そして友人のことなど綺麗に忘れて、生死の番人として仕えることになるのだろうか。 椅子が軋んで我に返る。 そしてぼんやりと、人気のないデスク周りを眺めていた。 ふと腕時計に眼を遣ると、約束の時間まで二分に迫っていた。一枚きりの紙切れではあったが、なんとか暇潰しには事足りたらしい。書類を放置した青葉に小さく感謝しながら、書類を元通りに友人のデスクに戻す。裏返しておくことは忘れなかった。 立ち上がって椅子をデスクの下に押しこみながら、これでこの一列は綺麗に全滅だ、と思った。そんな連想しかできない自分に、くたびれた苦笑を浮かべる。自分ではもう随分と平常心を取り戻せた気でいたのだが、そう巧くは行かないものらしい。 意識して背筋を伸ばした。 ネクタイの結び目を整え、ジャケットの襟元を引っ張って伸ばす。よし、と小さく呟いて、甲斐はようやく一歩を踏み出した。向かう先は、三十分前に内線を寄越した上司の部屋だった。 班室を横切りながら、班室全体を見ればそれほど人口密度が低いわけではないということに気づいた。あまり狭い視野で物事を見てはならないという教訓だろうか。広い眼で、――そう、広い眼で捉えなければならない。 「広い眼、ね」 執務室の扉をノックする前に、小さく呟いた。執務室に近い同僚が訝しげな視線を向けてきた気がしたが、それを拒絶するように扉を叩く。 「はい」 「甲斐です」 「どうぞ」 お決まりの短いやりとり。この声は狭霧だろうか、と予想しながらドアノブを握ると同時、当の狭霧が扉を開けた。――少しだけ眼を見開いた上司が身体を傾ける。前のめりになった甲斐を避けたのだろう。バランスを崩しながらも思考回路は平衡を保っているらしいと可笑しくなる。 顔を上げると、狭霧が黒いファイルを抱えて苦笑していた。 「ごめんね」 なぜこの上司は謝るのだろう、と不思議に思う。そこでようやく、自分が彼女の通り道を塞いでいることに気がついた。甲斐が扉の真正面に立っていては、狭霧は部屋から出ることができない――。 「……ああ、すみません」 一歩退いて、彼女が通れるだけの空間をつくる。ほんの少し身体を動かせば良いだけなのに、酷く緩慢な動作になった。 「ありがと」 狭霧はにこりと笑う。軽い会釈とともに、ショートカットの隙間で銀色が煌めいた。ピアスだろうか。狭霧の横顔が軽やかに通りすぎ、後ろ姿が班室のデスクの中に交ざりこむ。誰かに話しかけている。こんなに離れてしまえば、あのピアスの銀色も見えやしない。 「甲斐」 別の声で呼ばれて振り返った。 扉の真正面に、ローテーブル。それを挟んで左右にソファ。その右側に、常磐が脚を組んで座っていた。蝋人形が座っているようだ。しかし人形に見据えられるというのも不気味な経験である。そもそも人形には、見据えるなどという芸当ができるだけの眼力があるものなのだろうか。それだけの眼力を携えてしまった人形。 人形が、不意に苦笑を浮かべた。華奢な手がすいと上がって、指がまっすぐに甲斐を指す。否、正確には、甲斐が陰に隠れている扉を。 「……あ」 間の抜けた一文字を漏らすと、慌てて執務室の中に入り、慎重に扉を閉めた。望遠鏡を逆方向に覗いているかのように、世界が遠ざかる。――自分の居場所たる班室が扉の向こうに消えていくのを、酷く心細く感じる。 ばたん、という音が頭の中で響いた。室温が少し下がったような気がした。 「座ってください」 声に引きつけられて、臙脂色のソファに腰かける。彼の正面を避けて斜向かいを選んだのは、ささやかな保身だったのかもしれない。真正面に座っていたら、あちら側に引きこまれてしまいそうだ。それでも顔を上げると、喪服の蝋人形と嫌でも眼が合った。――否、違う、常磐だ。これは上司だ。 「……あの」 「僕の周りではよく人が死にます」 唐突に、常磐は口を開いた。快い響きとは裏腹な、物騒な台詞。適切な返答が思い浮かばず狼狽した。存在し、口を開くだけでこんな非現実的な状況を作りだしてしまうとは、やはりこの上司は只者ではないらしい。やはり人工物か。そんなことは解りきっていたのに。――無関係な思考が緩衝剤のように隙間を埋める。つまるところは返答に窮しているのだと、理性が気づく。単に処理能力の低さを自覚しただけなのだ。冷静に考えれば、上司を相手に随分と失礼なことばかりを考えている。 甲斐は上司の白い顔を見つめている。 常磐はなにも言わない。端正な顔は歪みもしない。 「……死ぬ、んですか」 「ええ」 間の空いた鸚鵡返しに、常磐は鷹揚な頷きを返してきた。 「こんな仕事ですからね、ただでさえ死人ばかりだというのに」 「はあ」 「短い期間ですが、僕の部下だけで二人死んでいます」 「そうですか」 唇の端で笑う人形に、ないほうがまだ良いような相槌を打つ。落ち着かない。気がつけば、組んだ両指がきちんと揃えた両膝の上で蠢いていた。手の甲を十本の指が這い回る感覚。 ――二人。 そのうちの一人は蒔絵だろう。 ――短い期間に。 それはどういう意味で言っているのだろう。祝辞なのか弔辞なのか。そもそもこの上司にとって、部下の死はどのような意味を持っているのだろう。 ――俺にとっては? 祝意か弔意か。 否――。否定した矢先に、常磐が微笑んだ。 「けれどそれは、新しい出会いが多く訪れるということでもありますね」 整いすぎた表情にまた言葉を失った。能面でも人形面でもなく、血の通った人間の表情であったから尚のこと。芝居がかってもいない生身の表情であるなら尚更に。なぜそんなことに驚かなくてはならないのだろう。 ――出会い? そんな温もりのある言葉を彼から聞こうとは思ってもみなかった。偏見だろうか。 口は微かに動いたが、思考が消えているせいかなんの言葉も出てこなかった。 常磐がこちらを見ている。唇の端にまた困ったような苦笑が覗く。そんなに酷い表情をしているだろうか。 「あちらに逝くのかこちらに来るのか……或いは、巡り巡ってまた出会うのか。生死の番人がそんな岐路に立ちあうというのも、粋なものではありませんか」 ぱたん、と、頭の奥でまた音がした。 瞼の裏には、常磐の複雑で穏やかな微笑が貼りついていた。 振り返る。ソファの背凭れの向こうには、執務室ではなく廊下に通じる二枚目の扉がある。入ってきた側とは別の扉を振り返ったのはなぜだろう。 ――嗚呼。 ――常磐さんが出ていったんだ。 参っているな、と思った。思考回路の話だ。認識が現実に追いついていかない。 なぜ出ていったのだろう。なにも言わずに。自分が聞いていなかっただけだろうか。そもそも自分はなんのために執務室に呼ばれたのだったか。なんのために、ここに座っているのだろう。部屋の主たる常磐は、なぜ部下などにこの場所を任せて出ていってしまったのだろう。――認識を順に手繰り寄せる。タイミングは合わずとも現実には辿りつけるだろう。 ソファに身体を飲みこまれそうだ。座り心地は悪くないのだが落ち着かない。自分にはもっと安っぽい椅子のほうが似合っている。例えば班室のスチールチェアのような。こんな場所に座っていては、臙脂色の中にずぶりと沈みこんで跡形もなく消え去ってしまいそうだ。いっそそうなってしまえば、良いのに。 頭蓋の内側でコール音がする。――内線だ、と唐突に思い出した。 内線がかかってきたのだ。スピーカーの奥に聞こえたのは常磐の声だ。あれは――あれはなにを告げる連絡だっただろう。常磐の声は、受話器の向こうでなにを言っていただろう。 ――三十分後です。 時間。 ――相棒が来ますから、迎えにきてください。名前は、 三十分前に聞いた上司の命令を、無言でなぞった。甲斐の声で常磐の言葉を再生し終えてようやく、自分がこの場所に居る意味を思い出す。 ――相棒を迎えにきたのだ。 蒔絵は死んだ。輪廻に還っていった。だから甲斐一人が、このグレーゾーンに取り残された。けれど二人一組になっての行動が原則である以上、甲斐はただの余り者だ。余り者には、新しく相棒がつけられる。それがこの場の掟だ。――そういえば自分も、初めて「葬儀屋」として目を覚ましたのはこの部屋の中ではなかったか。そこで蒔絵が出迎えてくれたのだ。眼鏡を外して笑われたのはこの場所だ。ではきっとあのときも、狭霧と常磐は蒔絵一人に部屋を任せて扉から出ていったのだろう。初めての対面は、こうして、相棒以外の死者を隔離して行われるのだ。 あのときの自分も、誰かの代わりとしてここに遣わされたのだろう。そんなごく当たり前の事実を思った。 そのとき蒔絵はなにを考えていたのだろう。 甲斐以前に自分の相棒であった誰かの思い出に浸っていたのだろうか。彼か、あるいは彼女かの死を祝していたのだろうか。あるいは悼んでいたのだろうか。甲斐と同じように。 「……違うな」 無意識に呟いていた。予想外にはっきりとした声が耳に届き、思わず辺りを見回した。誰も居ないことを今更のように確かめてから、気を鎮めるように、左胸に手を置く。いくら耳を澄ましても鼓動など聞こえるはずもないが、そうして集中できる先があるというのは良いことだ。 眼を閉じた。閉じると少しだけ、自分の気持ちに近づけそうな気がした。 ――祝意でも弔意でもないのだ。 再確認した。 そうだ。ただ単に、自分の中に閉じているだけである。 蒔絵の死を祝す。蒔絵の死を悼む。違うのだ。甲斐はただ、彼女の面影を抱いて鍵をかけてしまっただけだ。自分の前から消え、手の届かないところに行ってしまった彼女を胸の中に仕舞いこんでいるだけだ。 胸に当てた指に力をこめた。 ――あちらに逝くのかこちらに来るのか……或いは、巡り巡ってまた出会うのか。 常磐の言葉が蘇る。そういえば似たような言葉を最近聞いた気がする、と、意識のどこかがゆるりと反応した。あれは。誰の声だっただろうか。 ――そーやって魂は巡るんだ。 素っ気ない一言。誰も彼もが黒衣の職場で、彼だけがいやに白い。否、白いのは単に黒衣を 斑鳩か、と思った。 出勤直前だ。椅子を律儀にデスクの下に仕舞いながら、誰にともなく彼はその台詞を口にした。思い出す言葉に脈絡がない。斑鳩は確かに脈絡のない言動をするが、それでもなにがしかの文脈は存在して然るべきだ。その言葉のもう少し前は。 ――二人して死んでも逝き先は別だなんてね。 それは青葉だ。書類に眼を落として、なんとも言えない表情でそう言っている。ああ、そこに続くのだったか。――そーやって魂は巡るんだ。 青葉がきょとんとして斑鳩を見る。そうしていると野球部の高校生のようだ。斑鳩が眠そうな眼をこちらに向けた。そうだ。そのとき確かに、斑鳩は甲斐を一瞥した。 ――どういうこと? ――同じ車に乗ってようが、人が別なんだから死ぬときの気持ちは別々に決まってる。罪悪感で死にそうになったかもしれねえ、意外とあっさり受け入れたかもしれねえ、気持ちが違えば逝き先だって違う。人が違えば運も違う。運が違えば結果も違う。理由なんかないんだよ、そーやって巡ってるんだから……。 何事もなかったかのように、斑鳩は青葉に向けて淡々と喋った。青葉が首を傾げる。そんな動作も無視して、斑鳩は勝手に喋っている。 ――そういうもんだ。 投げやりな一言で長広舌を締めくくったとき、また彼は甲斐を見た。青葉も斑鳩の視線に気づいたのかこちらを見た。四つの眼から逃れるように、甲斐は慌てて顔を伏せた。なぜか罪悪感があった。 ――行くぞ。 ――あ、ちょ、斑鳩。 そして青葉は、あの書類をデスクの上に残して出勤していったのだ――交通事故を起こして死んだ女子大生の書類を。 「巡ってる」 甲斐は臙脂のソファの上で、膝を揃えたまま口を開いた。声帯が震えている。死人のくせに生きている。 常磐も斑鳩も、なぜそんな意味深な言葉ばかりを投げかけてくるのだろう。もっと内側に籠りたかったのに。祝意も弔意も関係なく、ただ無意識の内側へ籠ってしまいたかったのに。どうしてそんな、意味深な言葉を投げて意識を外に向けさせようとするのだ。自分以外のことを考えさせようとするのだ。なぜ。どうして。構わないでほしいだけなのに。 ――まだ外側があるのだ。 甲斐は、はたと気がついた。 生か死か、現世か輪廻か。そんな二択など意味をなさない岐路こそが、己のフィールドではなかったか。 己の内に籠る死者を外側に連れだすことが、己の職務ではなかったか。 ――嗚呼。 動き出す。淀んでいた水が、流れを自覚したように。 そろそろと顔を上げる。眼の前にはローテーブルがあって、その向こうにもう一つ、臙脂色のソファが置いてある。そのソファの横に、 甲斐はそれを見ている。 淡く光る粒子がぼんやりと人の形を成していく。ちょうど、仕事から帰る同僚を迎えるときの光景に似ていた。もっともその場合は、スピードがもう少し速い。眼の前の靄は、身体の組み立てかたが解らないかのように、ひどくゆったりとした動作で形を成していた。なだらかな曲線を眺めながら、また女性か、と推測する。あながち外れてはいないだろう。あれは――あの直線はタイトスカートの裾だ。 自分もこうして「葬儀屋」としての生を受けた、のだと思うと妙な気分になった。そして彼女は――この過程を逆回しにしながら輪廻に溶けていったのだろう。 甲斐はその間に凝然と立ち尽くしている。 書類に起こされた女子大生のように、回り道をしながら輪廻に戻る者。ここに現れつつある彼女のように、強引に立ち止まらされて「葬儀屋」となる者。後者であっても単なる回り道には相違ないか。二つの岐路は、いずれ輪廻という大きな流れに溶けあうのだ。 黒いジャケットにタイトスカート。白いブラウスと黒いネクタイ。 「……撫子」 告げられていた彼女の名を思い出して、甲斐はようやく立ち上がった。生前の名前など知らない。なぜ死んだのかなど興味がない。自殺でも病でも事故でも関係がない。この空間にこうして現れた瞬間、彼女は花の名前の「葬儀屋」となる。 ふわふわとした短い髪。眠っているかのような穏やかな表情。瞼の裏には多分、血のように紅い眼が潜んでいる。目の覚める直前だというのに、なぜ彼女はこんなにも穏やかな顔をしているのだろう。寝起きなど、不機嫌になるものだと相場が決まっているのだが。 そこまでつらつらと考えて、意図的に思考を止めた。 ――やめよう。 考えても無駄だ。 受け入れなければならないのだから。そのように、なるべくしてなってしまったのだから。 死を受けいれろと説教する「葬儀屋」が、輪廻の流れひとつ受けいれられないとは笑わせる。 ――流れているだけじゃないか。 内に籠もって淀んでばかりはいられない。自分の外側にも大きな流れがあって、それに沿って全てが進んでいく。たったそれだけのことだ。 眼の前で、淡い立ち姿が次第に輪郭を濃くしてゆく。撫子。その名を告げられたとき、常磐に見せられた書類には彼女の写真が貼ってあった。眼こそ開いていないが、今ここに現れつつあるのは間違いなくその彼女だった。 彼女は流れに乗って、ここに辿りついた。 新たな生を受けた「葬儀屋」を迎えるのは、甲斐の役目だ。 そうやって割り切ることもまた――相棒を喪った死者の務めなのだろう。 蒔絵に惹かれたのは、そのさっぱりとした性質に憧れたからだったのだろうと、そのときふと思い至った。 ――目の前で、撫子が眠たげに眼を開いた。 彼女の眼の焦点が合うのを待って、甲斐はふっと微笑みかける。 「……初めまして」 またどこかで会えるかもしれない。自分らしくもない呟きが本心であったことを、彼は漠然と理解していた。 ――了
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