岐路に侍る

四、深江千鶴


 利紗子の姿を探すのに手間取った。
 手洗いの出口というのは人が多いのが難点だ。ソフトクリームを売る屋台が近くにあるせいで、余計に混雑している。ただ名物というだけあって、ここのソフトクリームは濃厚で美味しかった。その味を知ってしまった今となっては、不満といえば混雑そのものではなく屋台の設置位置である。名物なのだから人が集まることは解りきっているのに、手洗いから駐車場までの動線上に屋台を配置するほうが悪いのだ。
 降りるインターチェンジを考えると微妙な位置のサービスエリアだったが、利紗子に頼んで寄ってもらって良かった、と改めて満足した。できれば帰路にももう一度寄りたいものだが、高速道路に入っていきなりサービスエリアに入るというのも忙しないだろうか。それなら売店でなにか土産物を買っておきたい――否、目的地に着く前から荷物が増えるのは頂けない。
 あれこれと余計なことまで考えているところに、肩を叩かれた。
 振り返ったところで、人差し指が頬に突き刺さる。
 きょとんとしていると、眼の前で利紗子がしたり顔で笑っていた。
「なにぼーっとしてんの」
 言われてようやく、千鶴は苦笑した。
「そんなとこに居たの」
「あんた、私のほう見たのに完全に素通りしてたよ」
 呆れたように利紗子が笑っている。その顔を見て思い出した。利紗子はいつも長い髪をポニーテールにしているが、今日に限ってダウンスタイルにしている――。人混みの中で、無意識にポニーテールを探していたから見つからなかったのだろう。そういえば出発直後、ハンドルを握る彼女に訊いてみたはずだ。
 ――今日は髪下ろしてるんだね。
 ――結ぶと邪魔だからねー、ちゃんと[もた]れられなくて。
 なるほど尻尾などつけていたら頭の座り心地が悪くて仕方ないだろうと、妙に納得したことを思い出す。
「ごめんごめん」
 ワンテンポ遅れて応じると、利紗子は悪戯っぽく笑った。もしかしたら、千鶴の視線が彼女を素通りしてしまった理由に気づいているのかも知れない。
「じゃ、行きますか」
「うん」
 応えると同時に、千鶴は駐車場へと歩みを向けた。そこに利紗子がついてくる。方向音痴のドライバーに代わって車の位置を特定するのは、大抵千鶴の役目だった。――駐車場に降りたってから、売店に寄りたいと言い損ねたことに気がついたが、わざわざ主張するほどのこともあるまいと密やかに苦笑する。
「あとどれくらいかかるかな?」
 振り返って尋ねると、一時間くらいかな、と即答が返ってきた。
「降りるのは次のインターだからそこまではすぐだけど、旅館まではまだしばらく」
「山道だっけ」
「そうそう。酔い止め飲まなくて大丈夫?」
「平気平気」
 茶化す利紗子に、笑顔で掌を振りアピールした。昔は酷かった車酔いも、大学に入ってからご無沙汰している。
 車に辿りついたところで、利紗子と前後を交代した。利紗子が軽快に鍵を開けたのを確認してから、千鶴も助手席に滑りこむ。いつもと同じパターンだった。待ちあわせ十分前には家の前に利紗子の車が停まっていたのも、高速道路に乗るなりチョコレートの袋を開けたのも、いつもの旅のパターンだ。
「あっつぅ」
 立ちこめる熱気に利紗子が悲鳴を上げる。チョコレートを手持ちのバッグに移しておいたのは正解だった。真夏の車内にチョコレートを放置するなど、正気の沙汰ではない。
 キーを回し、二人同時に勢いよくシートベルトを締めた。吹き出す冷風が心地良い。
「っしゃ、そしたらあとちょっとですよっ、と」
「着いたらまずなにしようか」
「決まってるでしょ、まずお昼よ」
 ドライバーが断言してキーを回す。エンジン音。一拍遅れて、勢いのある音楽が流れはじめた。知らない曲だったが、利紗子のお気に入りなのだろう。たまにはハイテンポの音楽に乗ってみるのも良いものだ。うろ覚えのメロディを口ずさみながらベルトを締めると、かちゃりと音がするのとほとんど同時に車が滑りだした。
「ガイドブック、見てみたけどまだ絞ってなかったよね?」
 利紗子が横顔で言う。千鶴は頷いて、バッグからガイドブックを取り出した。昼食を摂る店をまだ決めかねていたのだ。旅行前から何度も読み返されたそれは、ページの隅を折り曲げられ、蛍光ペンで線が引かれ、更に書きこみまでされており既に満身創痍の感があった。
「イタリアンか和食かどっちにしようか、ってとこで止まってたと思うよ」
「いかにも和風な山の中でイタリアン食べるのも面白いよね」
 本を開くと、温泉街に点在するレストランや料亭の写真が飛びこんできた。ちなみに今日の夕食は、旅館で山の幸に舌鼓を打つ予定である。――考えるだけで空腹になる。チョコレートはまだ残っていただろうか。否、あまり食べると太ってしまう。温泉まんじゅうだって食べなければいけないのに。
 髪に手を遣っていることに気がついて、その手をガイドブックに戻した。
「夜は和食なんだから、昼はイタリアンが良いかもね。パスタセット千三百円、ピザセット千五百円、豪勢にいくならランチコース二千円……ちょっと高いけど贅沢にいくのもアリかと」
「よし、決まり」
「即決だ」
 千鶴が笑うと、利紗子も笑った。
「ハンドル握ると多少豪快になるもんでね」
「安全運転ーっ」
「あ、あの軽自動車[ケイ]抜かして良いかな?」
「……私の話聞いてる?」
 正面を見たまま、利紗子は笑顔で左の親指を立ててみせた。それからミラーに視線を遣り、軽くハンドルを切る。シルバーの軽自動車が後ろに流れていくのを見ながら、千鶴は苦笑交じりにガイドブックを閉じた。あまりページを睨んでいると今度こそ酔ってしまうかもしれない。
 汗が引いてきた。ようやく冷房が効いてきたらしい。
 顔を上げると先行車のナンバープレートが目に入って、思わず声を上げた。
「あ、前の車五〇〇〇番」
「ほんとだー。お金払って取ったのかな」
「面白い番号ってあるよね、語呂合わせできそうなやつとか」
「りさちゃん得意だったよね」
 言うと、利紗子はまた得意げに親指を立てた。高校時代、世界史は利紗子の得意科目だった。語呂合わせを思いついてはクラスメイトに広めていたことを思い出す。千鶴も世話になった、と言いたいところだが、千鶴の選択科目は日本史だった。それが大学に入って英文学を専攻してしまうというのだから、我ながら一貫性がない。
「なんだっけ、トルコのなんとか」
「トルコの人喰いに行こう、一九一二年、第一次バルカン戦争。あートルコ行きたい」
 底抜けに明るい口調で答えて友人は唸った。
「扱いが酷いわりにこだわるんだね」
「扱いの酷さは語呂の都合上」
 利紗子は平然としている。その扱いの酷さが強烈なインパクトを残していることは否定できない。語呂合わせなどインパクト勝負だろう。もっとも世界史選択の人間に言わせれば、第一次バルカン戦争の年号はそれほど重要項目ではないらしいが。
「イスタンブールとか見どころ満載だよ。トプカプ宮殿見たい」
 利紗子が力説したところに――ピンポン、と軽快な電子音がして、カーナビが指示を出してきた。次の出口で降りろということらしい。利紗子の家は家族揃って酷い方向音痴なので、カーナビがなければどこにも行けないと真顔で主張されたことがある。地図は読めるのに方向音痴だというのも妙なものだと思うが、往路で右に曲がった角を復路でも右に曲がる姿を見ていると、それも致し方ないかと納得させられてしまう。
 利紗子はカーナビに視線を遣り、それから千鶴を見た。脇見運転、と注意するより先にちろりと舌を出す。
「降りまーすよーっ」
 妙なリズムで宣言し、利紗子がハンドルを切る。
「りょーかーい」
 間延びした声で応えると同時に、カーブの重力がゆっくりとのしかかる。
「高速降りたばっかりだとまだまだ都会に見えるのに、温泉旅館があるって変な感じだよねえ」
「旅館に対する偏見じゃないの」
「そうかなぁ。こう、おっきい露天風呂が都会のど真ん中にあったら嫌じゃん」
 手を広げて主張してみるが、脇見運転禁止の運転者にジェスチャーが通じるはずもないのでやめた。否、通じてしまうかもしれないので自粛した。――当の利紗子は、身ぶりが通じているのかいないのか、呑気にからからと笑っている。
「森のど真ん中でも嫌だよ私は」
 言いながら彼女はハンドルを切った。カーブを描きながら車がするすると降りていく。高速道路の出口に入ると、いつも洗濯機の水流に流されているような気分になった。
「それに、都会に見えるったって、道路が整備されてるってだけじゃん、高速の出口って。田舎のほうが道路綺麗だったりするよ」
「そのギャップで余計田舎に見えるという」
「まさに我らが地元。……あ、千鶴、お財布出しといて」
「りょーかい」
「ETCだったら便利なのにねー。うちの親父さん頑固なんだもん。私自分で車買うときは絶対ETCつけてやるんだ」
「カーナビとどっちかって言われたら?」
 通行券と紙幣を手渡しながら茶々を入れると、受けとる左手が一瞬ためらうように動きを止めた。視線がちらりと斜めに上がる。ETC専用表示でも見ているのかもしれない。
「……カーナビかな」
 呟いてから苦笑して、利紗子は二枚の紙片を受け取った。
 無事に支払いを済ませ、開いたゲートを潜る。正面に現れた青い看板を見上げて、利紗子は進路を左にとった。
「車、買うの?」
「どーかな。そのうち欲しいなとは思うんだけど」
「何色が良いとか」
「んー、無難に紺とかかな」
「え、意外。絶対黄緑とかライトブルーとか目立つ色にすると思ったのに」
「……どーいうイメージ持たれてんの私」
「それでいて赤にはしない」
「ちょっと、質問してんでしょー」
 口を尖らせる利紗子を意識的に無視して、うんうんと一人頷く。利紗子に真っ赤な車は似合わないけれど、空色の車を乗り回す姿なら思い浮かべられる。小回りの利く小さい車だ。もっとも利紗子の馬力なら、小型車といわずトラックくらいは軽く運転できそうだけれど。
 辺りの景色は、いつの間にか市街地に変わっていた。日差しが眩しい。半袖短パンの小学生が勢いよく自転車をこいでいる。アスファルトの照り返しもあるからさぞ暑いだろう。こちらは優雅な車旅行、冷房つきである。
 ささやかな優越を感じながら、利紗子に感謝する。やはり運転免許は取っておくべきだろうか。千鶴はまだしばらく学生の身分でいられるから、この二年のうちに取っておいたほうが良いのかもしれない。ただ、自分に運転が向いていないであろうということは薄々感づいていた。運転手に必要な要素のうちで身についていることといえば、方向音痴でないことくらいしか挙げられなかった。
 とりあえず卒論書くのが先だ、その前にお昼食べるのが先だ、と問題を放棄したそのとき、十字路に差し掛かった。三つ先まで青信号だ。前を走る車もない。これは景気が良い。
 一つめの青信号を通り過ぎかけたとき、視界の左側にトラックが見えた。小熊が軽快なポーズを決めた運送屋のマーク。何気なく眺めていて、――おかしい。スピードが落ちない。
 総毛立った。
「りさちゃん」
 誰かが息をのむ。口をぱかりと開けた。嫌だ、こんな間抜け顔。
「くるまが」
 トラックの運転手と眼が合った気がした。線の細いおとなしそうな男性。トラックは似合わない。もっといかつい中年男のほうが似合いそうなのに。偏見だろうか。くわえ煙草で首からタオルでもかけていればなお良い。その寝惚け[まなこ]が不意に見開かれた。
「あぶない」
 バックミラーの中で利紗子の顔が歪んだ。タイヤが甲高く軋む。耳障りなブレーキ音。ハンドルを右に。駄目だ。真横にライト。馬鹿にしたような小熊の笑顔。運転席に座る男の零れそうな両眼とハンドルを握りしめた白い関節を見上げる。指の先まで硬直した。反射的に目を固く閉じた。両肩が強張る。きっと一瞬後には粉々に砕け散って潰れて歪んで捻じ曲がって折れて千切れて壊れてぼろ雑巾のように投げ出されていくのだ。ああどうせ思い描くのなら近未来の地獄絵図より大好きな人の顔が良かった。
「千鶴!」
 ブレーキ音と利紗子の叫びが爆発して、圧倒的な衝撃を合図に全てが暗転した。
 あの売店でお土産を買っておけば良かったと、最期に思ったのはそんなことだった。


  top