岐路に侍る

二、野島利紗子


 着信メロディの出所を探るのに手間取った。
 たっぷり十秒間耳を澄まし、ようやく音源の位置を特定する。キャリーケースの片隅から白い携帯電話を取りあげたのは、留守番電話が作動する直前のことだった。親指で弾いて開き、画面を見もせずに通話ボタンを押した。このタイミングで電話をかけてきそうな相手など、一人しか思いつかない。
「もしもし」
「あ、もしもーし」
 聞こえたのは予想通り、のんびりとした千鶴の声だった。
「千鶴?」
「正解でーす。出ないかと思ったよ」
「ごめんごめん、携帯なかなか見つかんなくてさ」
「りさちゃんでも携帯失くすんだね」
「あんたみたいに大きなぬいぐるみ付けてないからね」
 感心したように言う千鶴に言い返すと、電話の向こうから苦笑が漏れてきた。それを聞きながら利紗子は、一つだけつけたシルバーのストラップを弄ぶ。彼女もきっと自分のようにストラップを弄っているのだろう、と思うと妙におかしくなった。――千鶴がパールピンクの携帯電話にぶら下げているのは小さなテディベアだ。ストラップにしては控えめな大きさであることは認めるが、利紗子の感覚からすれば充分に大きな「ぬいぐるみ」である。あんなものをぶら下げてよくメールを打てるものだと、半ば感心してしまう。
 電話を耳にあてたまま、片膝を立てて座りなおした。目の前には、中途半端に乱れたキャリーケースが鎮座している。携帯電話を捜すためにひっくり返してしまったせいで、せっかく整えた配置も台無しになっていた。片づけるのは面倒だが、きちんと整理しておかないと、中で荷物が散乱して見るも無残なことになる。旅行は荷造りが肝心だ。帰りに土産物を入れるスペースを確保しながら、荷物が崩れない程度の密度を保たなければならない。
 とりあえず、とばかりに、着替えをキャリーケースの片隅に寄せる。皺が寄っていないと良いが、と思いはしたが、一枚ずつ確認するのは面倒なのでやめた。
 デジタルカメラと携帯電話の充電器を詰めたポーチを突っこみながら、利紗子は問うた。
「で、どーしたのよ」
「んー、明日の予定確認しようと思っただけ」
「そんなんメールで済むでしょメールで」
「だってりさちゃんメール遅いんだもん」
「……否定はしない」
 平然と応える千鶴に今度は利紗子が苦笑する。メールはいつ見るか判らないもの、いつ見ても良いものだと思っていると、ついつい返信が先延ばしになってし まう。実際には、メールが着いた次の瞬間には読んでしまっていることがほとんどなのだけれど。読むと書くでは労力が違うというのが持論だった。
 言う程の予定でもないけどね、と濁しながら携帯電話を肩に挟む。床に転がったままのポーチをつまみ上げ、中に洗面用具を放りこんだ。クレンジングオイルと洗顔料、それから化粧水と乳液、ブラシ。基礎化粧品は重要だ。肌に合わないと困る。たまに得体の知れないアメニティが置いてあるホテルがあるが、手を出したことがなかった。そういうところに限って安いビジネスホテルである。
 シャンプーは旅館にあるもので事足りるだろうか、と思案していると、千鶴がまたのんびりと言葉を送ってきた。
「時間間違えたら困るから今日のうちに確認しとこうと思って。目覚ましの時間とかあるし」
「時間なら十時よ、十時。車で拾いに行くから家の前で待っといて」
 即答しながら、免許証はちゃんと財布に入っているだろうか、とふと不安になる。解りきっているはずの財布の中身を思い浮かべるより先に、千鶴が大袈裟に反応した。
「あ、やっぱ十時かぁ……危ない危ない」
「なにが?」
「目覚まし十時にセットしてた」
 ポーチのファスナーを閉めかけた手が止まる。瞬きをして言葉を咀嚼し、首を傾げて、――次の瞬間ぷっと吹き出した。
「十時ってあんたね」
「やっぱ電話して正解だったねー」
 あはは、と呑気な笑い声。利紗子はといえば、そもそも目覚まし時計を十時に設定するとはどういう了見かと指摘したい気持ちを苦笑いで抑えていた。指摘したところでどうなるわけでもないし、いつものことといえばいつものことである。これは真剣に、千鶴の家の前でクラクションを連打する心づもりをしなければならないかもしれない。
「もー、明日ちゃんと起きられるわけ? 十時に出てきてなかったら私一人で行くよ」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
「心配だな……」
 思わず本音が零れる。利紗子とて、千鶴がちゃんと助手席に収まっていてくれなければ困るのだ。地図を見る人間が居なくなる。カーナビは備えつけてあるが、地図がなければやはり不安だった。
「目覚まし何個かけてんの?」
「二つ」
「あと私がモーニングコールすりゃ良いわけね」
「それは心強い!」
「言ってろ大学生」
 ようやくファスナーを閉めたポーチをキャリーケースに放りこみ、隙間にタオルを詰める。三枚もあれば足りるだろう。歩きまわれば汗もかくだろうが、タオルなら旅館にもあるはずだ。そういえば、冷房対策は要るだろうか。冷房の効きすぎているような場所に行く予定はないが、冷えに悩まされるのが常のことだとやはり警戒してしまう。薄手のカーディガンを探して立ち上がりながら、ああこうして荷物が増えてしまうと心中で嘆いた。
「用ってそれだけ?」
「それだけって冷たいなぁ、もうちょっとくらい構ってよ」
「こっちは荷造り中なのよ」
「それはりさちゃんが遅い」
「……ごめんなさい」
 素直に謝ってみると、千鶴が楽しそうに笑った。
「まあそんなことだから、さっさと荷造りして寝とかないと、居眠り運転とかぞっとしないし……それに」
 放っておけばまた長電話に発展してしまいそうだ。もっとも、それは千鶴ではなく利紗子の問題だが。
「なによー」
 千鶴が電話の向こうで口を尖らせている。利紗子は電話を持ちかえ、クロゼットを開け、たっぷりと余裕を含ませた口調で返した。
「心配しなくても喋る時間ならたっぷりあるわ。車の中だってそうだし、温泉の夜は長いしね」
「ほほう」
「酒のつまみにがっつり近況聞いてやるから覚悟しときなさいよ」
「近況?」
 惚けた返答のあとで、ふと千鶴が黙りこむ。誰も見てなどいなかったが、利紗子はわざとらしく含み笑いをした。女子大生が二人で旅行ともなれば、話題に事欠くことはない。アルバイトのこと、就職先のこと、卒業論文の進捗状況――それに夜の話題など決まっている。
「近況って卒論の?」
「酒入った状態で卒論語ってどーすんのよ」
 空惚ける千鶴に突っこみを入れ、更にわざとらしく含み笑いを返す。
「飲まないとやってらんないよー卒論なんて。院試もあるのにわけ解んない」
「解った解った、そっちも存分に訊いたげよう」
「頼んでないってば」
「遠慮は無用です」
 軽やかに言い、薄手のカーディガンを一枚引き出す。カットソー生地ならかさばらないし、色も黒だから合わせやすいだろう。軽く畳んでキャリーケースに入れてから、羽織りものは手持ちのバッグに入れるべきだろうと思いなおした。
 むー、と、千鶴が唸っている。たぶん、ふわふわのショートヘアを手で[]きながら。それが癖なのだ。
 ささやかな優越感を味わいながら、利紗子は話題を変えた。あまり苛めても気の毒だ。
「頑張って卒論終わらせて、春休みには卒業旅行しないとだからね」
「海外逃亡だね」
 千鶴がほっとしたように応じた。
「無論です」
 ライトグレーのバッグにカーディガンを入れ、大仰な口調で相槌を打つ。
「いっそ温泉浸かりながら逃亡計画練ろうか」
「なんという温泉旅行。……でも悪くないな」
 千鶴が笑っている。利紗子も笑った。
 中学時代からの友人、大学も同じという縁だったが、大学を卒業するにあたって遂に進路が別れてしまった。利紗子は商社から内定を受けたが、千鶴は来月に大学院受験を控えて勉強中の身だ。おかげで、毎年恒例の夏休み旅行も、千鶴のスケジュールを考慮して近場の温泉旅行と相成ったのである。だがそれも、来年春の卒業旅行の準備とすれば悪いものではない。喋る時間がたっぷりあるということは良いことだ。結局旅行の醍醐味とは、修学旅行時代から変わらず、消灯後のお喋りなのだから。
「浴衣着ながらヨーロッパのこと考えるんだよ」
「無節操。まさに日本人」
「どこ行こうかー。イタリアフランスあたりかなぁ。ヨーロッパ一周とか」
「王道だな。私としてはトルコも捨てがたいけど」
「飛ぶなぁ。でも良いかも」
「……ま、それこそ明日すれば良い話か」
 電話をまた持ちかえて、利紗子はバッグのファスナーを閉めた。時計を見る。滅茶苦茶に遅い時間というわけではないが、明日に備えて早寝はしておきたい。体力は温存しておくに限るのだ。頑丈と体力が取り柄だったが、それでも高校時代のようにはいかない。――こんなことを言うと、まだ若いだろうと怒られそうだけれど。否、怒ってほしいけれど。
「続きは明日ってことで」
「うん了解ー」
 今度はあっさりと、千鶴も引き下がる。彼女も寝るのだろう。千鶴こそ早寝をしてもらわなければ困るのだ。本当に十時などに起きられたら堪ったものではない。
「じゃまた明日。……解ってるわね、十時よ十時」
「だいじょーぶでーす」
「宜しい。――おやすみ」
「おやすみー」
 無意味に片手を振りながら電話を切る。携帯電話を傍らに放り出してから、利紗子はキャリーケースの蓋を閉めた。


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