岐路に侍る

一、甲斐


「あたし、死ぬことになったの」
 唐突な言葉に顔を上げると、蒔絵がごく当たり前のように自分のデスクの椅子を引いて、ぽすんと腰かけたところだった。見慣れた相棒の横顔。丸い眼と、するりとまとまったショートボブ。たった今聞いた気がした不穏な台詞は、どう考えても似合わないいつも通りの表情だった。
 なにか反応しようと思ってみたが、口から漏れたのは間の抜けた一文字だけだった。
「……は?」
「は、ってまた随分なご挨拶ね」
 蒔絵の顔がこちらを向いて苦笑する。からかうようなその笑いかたも見慣れたものだ。ともに仕事をする中で、何度も眼にしてきた表情。それなら尚のこと、先程の言葉は空耳ではないのか。いつも通りの日常には、およそ相応しくない言葉だった。
「死ぬことになった、って、そう言ったのよ」
 ――密やかな甲斐の願いを、噛んで含めるような蒔絵の言葉が打ち砕いた。
 甲斐は反射的に自分のデスクを見た。しかし整頓されたそこに眼のやり場はない。ノートを片づけてしまったことを、甲斐は今更ながらに悔いた。作業中のノートを開いたままにしておいていれば、眼のやり場にも思考の逸らし場にも困らなかったものを。辛うじて主の存在を主張するペン立てに、仕方なく意識を集中させる。群青色のボールペンとシャープペンシル。銀色のシャープペンシル。赤ボールペンと黄色の蛍光マーカー。小脇に置いたトレーの上にはゼムクリップが散らばっていて、その上に角のなくなった消しゴムが転がっている。裏紙を再利用したメモ用紙。デスクマットの下には、随分前に配られた資料が挟みっぱなしだ。たぶん蒔絵も触れたことのある、甲斐の私物。
「……縁起でもないこと言うなよ」
「冗談じゃこんなこと言わないわ」
 蛍光マーカーを睨んだまま絞りだした言葉もあっさりと否定される。どこまで俺を否定するんだと苛立ったが、そんな反応が大人気ないということくらいは充分に承知していた。甲斐の心中を見透かしたかのように、黒いスーツに包まれた肩が、視界の片隅で小さく動く。たぶん蒔絵が肩を竦めたのだろう。仕方ないわね、という苦笑までが眼に浮かんだ。必死で眼を逸らしているようでいて、きちんと彼女の動作を把握している自分が束の間嫌になる。
 観念して隣のデスクに視線を戻すと、蒔絵が書類を広げているのが見えた。写真と明朝体で構成された、甲斐と蒔絵の商売道具。蒔絵の白い手が、十部の書類を綺麗にデスク上に広げていく。甲斐はそれを見ている。眺めている。仕事の書類を受けとると、そうしてデスクを埋めるのが彼女の常だった。預かった人全員の顔を把握するための習慣だと、いつかそう言って照れ隠しのように笑っていた。そのときの表情がひどく眩しかった。
 いつもと同じ手つきで紙を扱う蒔絵を見ながら――先程上司が内線で、彼女一人だけを執務室に呼び出したことを思い返す。
 頭の中にコール音が蘇る。条件反射で受話器を掴んだ。
 ――もしもし。
 ――甲斐ですか。
 ――そうです。常磐さんですか?
 ――ええ。ちょっと蒔絵に代わってくださいませんか。
 受話器の向こうから聞こえた上司の声を反芻してみても、不穏な宣告の予兆は見出せなかった。いくら思い返してみても、ただの穏やかな声、いつもの業務連絡にしか聞こえない。周りの人間は平気な顔をして自分を裏切っていくのではないかと、唐突に不安に駆られた。
 無意識も意識もざわついている。
 思案顔で書類を広げ終わってから、蒔絵は思い出したように甲斐を見た。アーモンド型の紅い眼に射られどきりとする。
「さっき常磐さんに呼ばれてね」
「知ってる」
 短く応えるのが精一杯だった。鼓動などしていないはずの心臓が、いやに拍数を上げているような気がする。特に意味もなく、襟元に手をやった。ネクタイの結び目を持ち、軽く引っぱって形を整える。
「そーいう相槌するから話が進まないんだってば」
 弟でも諭すような口調で言って、蒔絵はくすりと笑う。屈託のない笑みが微かな疲労を滲ませていることに、甲斐はふと気がついた。
 軽く床を蹴り、椅子を回して身体ごと蒔絵のほうを向く。相棒の顔を真正面に据えて、甲斐は覚悟を決めて問うた。
「……常磐さん、なんて?」
「寿命だって」
 ――寿命?
「誰の」
「あたしのに決まってるでしょ」
 冗談めかしてまた肩を竦める蒔絵が、不意に遠く感じられた。
 ――死。
「あたしはもともと寿命が短い人間だったみたいね。確かにここに来てそれなりに経つけど、まさかこんなに早いと思ってみなかった。そんなに寿命が残ってないならわざわざ『葬儀屋』になんてしなけりゃ良いのにさ。これ誰に文句言ったら良いんだろうね?」
 大袈裟な苦笑を浮かべて蒔絵が喋る。笑うべきところだったのかもしれなかったがそれどころではなかった。――死。――蒔絵が死ぬ。蒔絵が。自分の相棒が。その言葉ばかりが、暗い耳の奥で何度も響く。意識を引きもどそうと、とにかく思考に逃避する。
「常磐さんだって狭霧さんだって、あたしより先輩だけどまだまだ働くみたいなのになー」
 確かに――この職場でのキャリアは、甲斐よりも蒔絵のほうが長い。そもそも、甲斐が初めてここに来たとき、相棒として彼を出迎えたのが彼女だった。眼鏡のレンズ越しに見た事実をどうしても信用できずにいきなり眼鏡を外したことを、未だに物笑いの種にされる。振り返ってみれば自分の行いが奇矯であったことは間違いないのだが、そうでもなければ信じられなかっただろう。あのときの自分にとって確かだったのは、目の前で笑い転げている「先輩」――蒔絵の存在だけだったのだから。
 そう、蒔絵は「先輩」だった。もうすっかり忘れた気になっていたその事実を、突然目の前に突きつけられた気がした。一般的に言って、死とは長く生きた者から先に訪れる。この世界で、蒔絵は甲斐よりも長い生を生きている。よって、――三段論法のその先を、甲斐は本能的に拒絶した。
 蒔絵はゆるやかに笑みを消した。心なしか陰った表情のまま、視線を膝に落とす。タイトスカートから、きちんと揃えた丸い膝が覗いている。そこからも眼を逸らし、結局甲斐の視線はデスクの上の蛍光マーカーに戻っていった。
 同僚の集う班室の中で、二人の空気だけが淀んでいる。
 話題とは裏腹に蒔絵の表情が明るかった理由に、ようやく思い至る。だが、今更それを知ってどうなるというのか。それに少なくとも、甲斐はこの場の空気を元に戻すことに関して最も不適任の人間だ。
 天井の蛍光灯が微かにちらついている。
 諦めて、思うままを呟いた。少なくとも沈黙よりは良いだろう。
「……死人のくせに死ぬんだな」
「今更なによ」
 蒔絵がまた苦笑する。それを見ると少し安心する。甲斐はようやく、少しだけ笑みを作った。さまざまな意味において自嘲的な笑みだった。
 ――甲斐は死者である。そして、蒔絵もまた死者である。
 死んでなお現世を彷徨いつづける魂に語りかけ、彼らの未練を断つことで現世から引き離す。そんな仕事を、行っていた。生死の掟と境界を守る、いわば番人だ。業務は地味で報われないくせに大義名分ばかりが大仰だと、同僚の誰かがぼやいていたことがある。それには同感だった。蒔絵は、この仕事だって報われないことはないわよと笑っていたけれど。
 しかし、いくら大義名分を背負ってはいても、所詮は死者であることには変わりない。死者でありながら、戻るべき輪廻にも戻れず、ずるずると魂の形を保っている半端者――それが、「葬儀屋」という存在だった。
 死者の処理は死者がするという原則自体は理に適っているようだが、よく考えてみれば、「葬儀屋」も、「葬儀屋」が仕事で対峙する魂たちも、半端者であるという点は同じである。にも関わらず、黒いスーツと黒いネクタイを身につけ、紅い眼をしているというだけで、彼らは他の死者とは区別されてしまう。それはある意味強烈な不条理だった。大人がコップを倒せば笑い話で済むが、子供が同じことをすれば烈火のごとく怒られてしまうのと同じ。
 生死の掟を守るという大義名分の下に、「葬儀屋」は密やかに集う。その担い手は不慮の事故で死んだ者であり、彼らは持ちえたはずの余命を使って職務を行う――生前の記憶を消されてまで。
 甲斐は「葬儀屋」である。
 多分に漏れず、彼もまた、生前の記憶を持たずに生かされている死者であった。
「死んだらどうなるんだろうな」
「さあ。今度こそちゃんと死んで、輪廻に戻って、それでしばらくしてから誰かの子供になって生まれてくるんじゃないかな」
 存外大きくなった独り言に、独り言めかした律儀な答えが返ってきた。
「輪廻か」
 蒔絵の言葉を繰り返して、甲斐は彼女のデスクに視線をやった。現世を彷徨う死者が、一人ひとり書類に起こされて彼女のデスクの上に敷きつめられている。名前と写真と死亡日と、そして死の情報、彼らの持つ未練。死者にかかれば、プライバシーなどあってないようなものらしい。
 同じように中途半端な状態でいるくせに、自分たちが書類に起こされることはない。それが、彼らと自分たちとの差異。それでも、還る場所は同じだ。同じ輪廻に還って、そして――蒔絵の言うように、ゆっくりと次の生を待つのだろう。
 無作為に選ばれ番人を務めさせられている、喪服の死者。
 自分たちは幸福なのだろうか。それとも不幸なのだろうか。
「そろそろ死にたいと思ってたところよ」
 蒔絵の言葉に驚いて顔を上げる。視界に入ってきたのは相棒の横顔。彼女もまた、デスクを埋めた死者の書類に視線を落としていた。
「死にたいってお前」
「身体が」
 一言だけで言葉を切って、蒔絵は視線を斜め上に上げた。ゆっくりと瞬きをし、宙を眺めたままで微笑する。
「……魂が摩耗する感じがしてね」
 その微笑はどこか寂しげで、けれど濃厚な疲労を漂わせていた。
 ――彼女は、誰なのだろう。自分の知らない表情ばかりをくるくると示す彼女は。蒔絵の表情が読めない。いちばん長く共に居たはずの相棒の言葉に、甲斐は強い衝撃を受けていた。ただそれを悟らせてなるまいと、ささやかな自意識だけで自我を保っている。最低限の言葉を発するだけで、その震えを悟らせまいとしている。
「いつ?」
「来週」
 蒔絵の答えに再び絶句する。――そんな、それでは短すぎる。
 なぜ。
 なぜ蒔絵なんだ。
 なぜ自分の相棒なのだ。
 疑問符ばかりが点滅する脳裏に、咄嗟に上司の顔が浮かんだ。いつもの穏やかな微笑で、彼は蒔絵を連れていってしまうというのか。
「……それで?」
「どうするのか、って?」
 沈黙を恐れて絞りだした言葉の先を、蒔絵が攫っていった。肯定する代わりに甲斐は笑みを返す。引きつった微笑になっていないか、それだけが心配だった。
「どうするもこうするもないわ」
 演技であれと願いたくなるほど達観しきった表情で、蒔絵は天井を仰ぎながら椅子に背を預けた。耳慣れているはずの軋みが、今日はいやに煩く響く。
 無防備な白い喉を、甲斐は見ている。蛍光灯に透ける黒い髪を。
 俺は一体なにをそんなにも狼狽しているのだろうと、冷静な自分がふと呟いた。
「受けいれるわよ。それしかないもの。自分の死ぐらい受けいれられなきゃ、今まで捌いてきた人たちに申し訳なさすぎるしね……それに」
 蒔絵の眼が甲斐に戻ってくる。まただ。また同じ眼をしている。
 そんな眼をしないでくれ。
「――言ったでしょう、死にたいって思ってたって」
 死者の書類がデスクの上から虚空を見あげていた。


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