自白剤

6 過去


 心中がそのまま、外の荒れ模様に投射されていた。
 風が吹きつけ、窓が大袈裟なほどに鳴る。雨も雷もないのが不思議なほどだった。
 紘臣は自室のベッドで、布団をかぶって震えている。こんな夜中まで眼が冴えていることなど、今までなかったのに。枕元の時計をちらりと見ると、ぼんやりと光る針が午前三時二分を指していた。
 今、この時間に至るまでに一体なにが起こったのか、全くと言って良いほど把握していなかった。できなかった、のほうが正しいのかもしれない。できていたらたぶん、こんな無茶な心理状態になど陥っていなかっただろう。
 叩きつける風が、むやみやたらに不安感を煽る。窓の鳴る音が布団越しにも耳を刺してくる。けれど、開けているはずの眼に入るのは暗闇ばかりだった。
 理解できていたのは、たったひとつだけ。
 ――とんでもないことをしてしまったのだ、と。
 ただそれだけだった。
 駆け巡るのは、意味を持たせることも放棄した記憶の断片。声。涙。足音。放心した律子。[なだ]める母。駆け回る父。ぐるぐる廻る顔。雑然とした物置の中、荷物の奥に沈んでいった顔。必死になって草に擦りつけて落とした、サンダルの隅についた赤黒い染み。閉じたはずの瞼と物置の扉の向こうから確かにこちらをじっと睨みつけていた視線。
 なぜあんな行動をとってしまったのだろう。
 頭に舞うのは遅すぎた正気だった。
 舞うというには勢いが強すぎた。家の外の嵐も、紘臣の中の嵐も。
 ――見つかってしまう。
 そう思ったから隠したのだ。死んでしまった譲は戻らない。だからこそ、見つかってはいけないから。見つかれば律子は悲しむ。そして紘臣は苦しむ。だから隠されなければならなかったのだ。けれど。
 ――ねえ、紘臣君、譲はどこに行っちゃったの……。
 嘘だった。隠されたがゆえに、律子はいま悲しんでいる。譲の両親は、必死になって幼い息子を捜している。警察に通報しようか、と、父が小声で言っているのをどこかで聞いた。
 ――見つかるべきなんだろうか。
 激しく揺れた。けれど聞かなかったふりをして、部屋に閉じこもった。鍵は既に手を離れた。もう誰にも見つからない。誰も悲しまずに済む。そのはずだった。そう信じていた。けれど暗雲は消えなかった。消えるどころか余計に増した。手に入れた放心は、平穏ではなかったということなのか。それはただの、嵐の前兆にすぎなかったのか。けれど。
 ――見つかってはいけない。
 見つかってはいけないのだ。見つかったらみんなが悲しむ。だから。
 ――けれどもし、警察の人が来たら。
 見つかるかもしれない。見つけたらみんなが悲しむのに。でも見つけるかもしれない。警察は、捜しものの、プロフェッショナルだから。だから見つけるかもしれない。
 ――見つけて、指摘するかもしれない。
 布団をはねのけて、紘臣は勢いよく身体を起こした。
 すっぽりと布団をかぶっていたはずの身体が、不気味な寒気に震えている。見開いた眼は黒い虚を彷徨っていた。こんなに寒いのに、汗が止まらない。肩からずり落ちかけている布団は、時期にあるまじき湿気を含んでいた。
 ――藤原紘臣は人殺しだと。
「駄目だ」
 反射的に呟いた。その声が存外に大きいのに驚いて、不必要に身体を震わせた。誰か起きやしなかっただろうか。母さんか、父さんか。耳を澄ませてみたが、異様に鋭い聴覚にも聞こえるのは風の音ばかりだった。
 パジャマの袖で額を拭う。腕はそのまま、力なく垂れさがった。今の自分は、自分の意思でベッドの上に座りこんでいるのだろうか。それとも立ち上がる気力が無いだけなのか。
 風が鳴る。木が鳴る。窓が鳴る。
 暗闇に浮かびあがっているのは、ほんとうに自分の部屋なのだろうか。凝視しようにも、どこを見れば良いのかすら判らなかった。辺りが酷く不安定になっていた。
 ――ひぃにぃ、ゆず、殺した。
 譲の声が聴こえる。
 活動を拒否していた脳が、のろのろと起動しはじめる。
「オレじゃない」
 悪いのは紘臣ではない。悪いのは吠えた犬。落ちた譲。足元の石段。そして、事故に気付かなかった律子や母や父。
 けれど浮かぶのは、紘臣を糾弾する白い眼ばかりだった。紘臣を[なじ]る罵声ばかりだった。傷つき悲しんでいる眼はどこに在るのだろう。紘臣の護ろうとした眼はどこにあるのだろう。どうして誰も、譲のことを悲しまずに紘臣を糾弾するのだろう。真っ白な眼。お前が悪い。お前が悪い。譲が死んだのは全てお前のせいなのだ。
 ――もしバレたら、この眼は、この声は、全部現実になる。
 ひときわ強く、窓ががたんと鳴った。なにかが飛んできて硝子に当たったのかもしれない。けれどもう震えなかった。震える余裕も失くしていた。
 ――あんなところに入れたら。
 物置の荷物の奥に、譲を必死で押しこめた。荒い息と大袈裟な鼓動。掲げた小さな身体は異様に重かった。閉じられた瞼は見ないようにした。見ればその瞼が開いて、こちらを見つめかえすのではないかと思ったから。
 積まれた荷物で譲の身体を隠した。その姿が二度と見えないようにした。そして鍵までかけた。そうすれば見つからないと思ったから。鍵を閉めるや否や、紘臣は一目散に駆けだして部屋に閉じこもった。着ていた服はじっとりと湿りはじめていた。それでも、どこかでほっとしていたのかもしれない。もう大丈夫だと。
 ――でも。
 隠しおおせるはずがないのだ。
 あんな華奢な鍵など、すぐに壊すことができるだろう。それでなくても、ある日突然物置が施錠されていたら、誰だって不審に思うに違いない。警察官がやってくる可能性とて、無いとは言い切れない。
 むしろ、高い。
 嵐よりもはっきりと、血の気の引く音が聞こえた。
 人殺し。
 その声はもっとはっきりと聞こえた。
 ばれてはいけないのに。
 ――どうにかしなくちゃ。
 風が騒ぐ。紘臣は思い出したように、緩慢な動作で窓のほうを見やった。仄かに浮かび上がって見えるカーテンが、小刻みに揺れている。怖くない、と言えばきっと嘘になる。嵐が怖いのか、闇が怖いのか、それとも他のことが怖いのか。それは、判らなかったけれど。
 ――どうにかしなくちゃいけない。
 熱に浮かされたように、ふらふらとベッドから降りた。足が触れた床は、ぞっとするほど冷たい。けれども構わなかった。そんなことなど感じていなかった。たぶん上着を着たのも、足を忍ばせたのも、階段から下りたのも、どこからともなくドライバーと懐中電灯を抜き取ったのも、全部無意識の動作だったのだと思う。

 予想以上の荒天だった。
 窓を開けた瞬間に突風でリビングが荒れたような気がして、一度目は慌てて閉めた。けれど思ったほどには荒れていないことに安心し、二度目は慎重に、決死の覚悟で開けた。そして素早く閉めた。
 だが次の瞬間には、庭に出たことを後悔していた。
 月のない闇夜に、暴風の音ばかりが満ちる。反射的に目を閉じた。切ったばかりの短い髪が、滅茶苦茶に乱される。暗闇の中で鳴るのは物置。斬りつける北風。つめたい。痛い。目を開けるにも覚悟が必要だった。
 このまま開けずにいたら、なにもかも消えてしまうだろうか。
 頭に浮かんだ考えは、振り払ってしまうにはあまりにも惜しい、甘い希望だった。
 きゅっと唇を結び、右手のドライバーと懐中電灯を握りしめる。恐る恐る目を開けると、顔が勝手に歪んだしかめ面を作った。あちこちを勢い良く飛び交っている枯葉が、頬をかすめて飛んでいった。
 ――やらなくちゃいけない。今しかない。
 膝に力が入らないのは、これは、風の冷たさのせいなのだろうか。余計なことを考えそうになる頭に鞭打って、意図的に淡々と考えようとした。反比例して跳ね上がっていく鼓動は意図的に無視した。
 なんとかして、物置の鍵を開けるのだ。開けなければならない。そして譲を、どこかに移動させなければならない。誰にも見つからない場所に。どこに、ということを考えるのはとりあえず保留にした。そんなことは後から考えれば良い。今はただ、単調作業が欲しかった。なにも考えなくて良い単調作業が。思考の暴走を思考で埋められるほどに、自分の思考力に自信があるはずもなかったから。
 物置の前に、紘臣は[ひざまず]いた。膝の触れた地面は流氷のようだった。
 静かに懐中電灯を足元に置いた。風に飛ばされて勝手に転がったそれが、物置にぶつかって止まる。けれどそんなことは気にしていなかった。
 ドライバーを鍵穴にあてがう。かじかんだ手が震えて、なかなか鍵穴に入らない。ドライバーを鍵穴に挿しこむ。たったそれしきの作業に、没頭した。やっとのことで入れたドライバーを、とにかく滅茶苦茶に動かす。こじ開けようと。どこかでなにかが外れないかと。途中で何度も抜けた。何度も入れなおした。同じことを何度繰り返しても、手の震えは止まらなかった。
 外れているのは、紘臣の中のなにかなのかもしれなかった。
 髪を振り乱して物置の前に跪いて、鍵穴を凝視して作業に没頭している紘臣のほうこそ、なにかが外れているのかもしれなかった。
 ――かちゃり。
 息を呑んだ。
 音のかすかさとは対照的に、手に伝わってきたのは確かすぎるほどの感触だった。
 風がひときわ強くなる。恐る恐るドライバーを地面に置くと、風に吹かれたそれはどこかに転がっていった。けれど気にも留めなかった。否、留めていたとしても、たぶん拾えなかっただろう。手の震えが強すぎて。
 風が紘臣を殴っていた。足元が覚束なかった。手は不快に湿って、風が吹くたびにすうすうと冷たくなる。
 はっ、はっ、はっ、はっ、
 掻き消されても良いはずの呼吸音が、しつこく聴覚を満たしている。目の閉じかたが、わからなくなっていた。
 ひゅう、と、口笛のような風が吹いた。
 唾を飲む。そんなことでさえ巧くいかず、何度も試みなければならなかった。
 ――そしてゆっくりと、物置の引き戸に、右手をかけた。
 辺りは漆黒の闇。物の怪が跳梁するかのごとく、風の音ばかりが聞こえている。
 どくん、どくん、どくん、どくん、
 眼が乾く。ぱちり、と、機械人形のような瞬きをした。
 あちこちで音がしている。風の音か。木の音か。窓の音か。それとも、それとも。
 紛れてくれるかもしれない。この風に、自分の存在自体が。そう思うとなぜかほんの少しだけ楽になって、右手が不自然に軽くなった。もしかしたら、不自然に笑ったのかもしれない。
 なにかが外れたように脱力した右手で、紘臣は、物置を開けた。
 暗くてなにも見えない。
 手探りで懐中電灯を手に取り、スイッチを入れた。眩しさに思わず顔をしかめたが、意地でも目は閉じなかった。
 ごたごたした荷物が描く強烈なコントラストの奥に、ひとつ、黒い影がぼうと浮かんでいる。
 心臓が縮まった。
 ――譲だ。
 風が吹いている。たぶん、暴風だ。
 思わず灯りを消した。震える手は、消すと同時に懐中電灯を取り落とした。
 両手が自由になる。反射的に物置の中に身体を入れて、両腕を伸ばした。昼間にしたのと同じ方向、同じ角度。たった一度したきりなのに身体に染み付いて取れない動作。吐き気か反吐か嫌悪か、それとも、恐怖か。
 氷のように冷たいものに手が触れた。
 一瞬呼吸ができなくなった。
 反射的に引っこめる。指先に残った感触は、今まで触れたこともないような異質なものだった。握り締めた拳ががたがたと震えている。――厭だ。厭だ厭だ嫌だいやだイヤダ。
 寒い。ここは寒すぎる。
 必死になって自分自身を鎮めながら、紘臣は再び物置の中に上半身を入れた。パジャマはぐっしょりと濡れている。刃物のような風に吹かれて身体全体が麻痺しそうだった。
 絶叫しそうになるのをこらえて、ソレを抱いた。固く目を閉じ、首を物置から九十度背ける。視覚は闇。聴覚は嵐。触覚からしか伝わらない感覚。
 冷たくて、ぐにゃりとして、それでいて、重くて硬かった。
 この世のものじゃない、と思った。
 がたがたと、物置の荷物が不気味な音をたてる。風が搔き消してはくれないだろうか。できるならば、この腕の中の感覚も。
 どれくらい経ったのか判らない。
 やっとのことで腕を引き出した。
 そして恐る恐る、眼を開けた。

 譲と眼が合った。

 ひッ、と小さく絶叫した。
 同時に、腕の中から小さな身体が落下する。なにか音がしたような気がしたが、風に紛れて判らなかった。判るのはただ、地面に叩きつけられてもソレがぴくりとも動かないということ。そして、
 あのときには閉じていたはずの瞼が、開いているということ。
 ――生きてたんだ。
 反射的に理解した瞬間、喉の奥から苦いものが一気にこみ上げた。
 ――吐いちゃだめだ。
 理性の叫び声が聞こえる。けれど聞いている暇はなかった。
 譲だったモノから顔を背け、しゃがみこんでものも考えずに吐いた。吹きすさぶ風の中、紘臣は確かに、自分の泣き声を聞いた。
 口の中が恐ろしく苦い。
 殺しきれない泣き声が聞こえる。
 ――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、
 自分がなにをしたのかがようやく解りはじめていた。
 ――生きていたのだ。
 石段に頭を打ち付けたあのとき、佐伯譲はまだ生きていたのだ。ただ、気を失っていただけだったのだ。それを死んでいるものと勝手に思いこんで、紘臣は物置に押しこんだのだ。石段で受けた衝撃がどの程度のものであったのかは判らない。致命傷だったのかもしれない。けれど少なくとも、即死ではなかったのだ。物置でなく救急車にでも入れていたら、あるいは。
 つまりは、そういう、ことだったのだ。
 ――オレだ。
 苦い呼吸が喉に引っ掛かる。だらだらと口に流れこむ涙は塩辛かった。
 ――オレが。
 譲の顔。律子の顔。譲の父の顔。母の顔。父の顔。消えることもなく次々に浮かんだ。一様に穏やかな笑顔だった。
 ――ごめんなさい。
 懺悔した瞬間、笑顔は無表情に変わった。そして口々に言った。殺された返して譲をなにもしていない出ていけ返してそんな子に育てた覚えはじわじわと苦しんであんたのせいでお前なんか返して譲を返して私の子供をあんたが殺した私の子供を私に返してよ――
 僕は藤原紘臣に殺されました。
「ごめんなさい」
 吐きだした言葉は風に揉まれて飛ばされていった。
 誰になにを言うべきなのだろう。自分の親か。譲の親か。
 それとも、警察か。
 警察に捕まったら、裁判になって、牢屋に入れられて、出られなくなるのだという。もしかしたら死刑になるかもしれない。殺されるのかもしれない。
 ――厭だ。そんなのは厭だ。
 けれど現実に、紘臣の横には紘臣に殺された譲が転がっている。曇った眼で、それを見た。辺りは闇に包まれているはずなのに、その姿だけがいやにはっきりと見える気がした。
 ――ばれてはいけないのだ。
 随分前にも、同じことを考えたような気がする。そのときも、多分必死だったのだろう。けれど今ほど切羽詰まってはいなかったはずだ。今ほど恐れ[おのの]いてはいなかったはずだ。
 けれど。
 そうだ。ばれてはいけないと考えたからこそ、わざわざ暴風の夜に独りでこんなところに来て、封印した物置をこじ開けたのではなかったか。譲をどこかに移そうと考えたのではなかったか。状況はなにも変わっていないのだ。
 ただ、譲がこちらを睨んでいるだけだ。
 ただ、譲の顔が歪んでいるだけだ。
 ただ、譲の服が乱れているだけだ。
 ただ、それだけ。
 呼吸が喉に引っ掛かる。泣き声の名残だろう。構わずにゆっくりと、深呼吸をした。深呼吸は苦かった。夜は相変わらず暗い。風は相変わらず激しく吹いていて、譲の細い髪を激しく乱していた。
 目元と口元をわざと乱暴に拭ってゆっくりと立ちあがる。
 乱暴な風が紘臣を打ちすえる。無表情にこわばった顔はたぶん、醜く歪んでいたのだと思う。こんな顔で謝ったところで、誰が赦してくれるだろうか?
 否、赦されなくても――構わないのだ。
 ただ、見つからなければ良いのだ。
 見つからなければ、誰にも責められることはないのだから。
 あちこちで自分を宥めすかして説得しながら、打開策を探る。頭を限界まで使っていたのかもしれない。そうでもしないと、余った部分で余計なことを考えてしまいそうで。自分の理屈の無理に気づいてしまいそうで。
 視界の隅に転がっている暗闇を、意識的に無視した。けれど、無視しきれるはずもなかった。無視しようとすればするほど、譲だったモノは暗い存在感を増した。
 吐瀉物の臭いがする。
 ――片づけなければ。
 考えたのはそんな、ひどく事務的な言葉だった。吐瀉物と譲だったモノを同様に扱うことをごく自然に考えていた自分に引っ掛かりを覚えたが、嫌悪感や罪悪感は覚えなかった。三月とは思えないほどの冷えに、なにかが凍てついて麻痺していたのかもしれない。そうでもないと、とっくにどこかおかしくなっていただろうから。
 すっかり闇に慣れた眼で、紘臣はゆっくりと物置に近づいた。そして表情を硬直させたまま、中に眼を凝らす。どこかにスコップでもないだろうか。あるはずだ。猫の墓を掘ったスコップが。猫と一緒に埋めれば譲も寂しくないだろう。猫の墓に一緒に埋めれば、土が掘り返されていたって怪しまれたりはしないだろう。あそこなら土が柔らかくて、掘りやすいだろう。あんなに深く、掘ったのだから。泣き出しそうになるのをこらえて、ひたすら掘った穴。大好きな単調作業の成果――そこに。吐瀉物はとりあえずトイレにでも捨てられないだろうか。それとも埋めたほうが。あとは適当に土が分解してくれるだろう。だから、きっと大丈夫だ。だから。
 埋めてしまおう。
 埋葬してしまおう。
 誰にも見つからないように、暗い土の中へ。
 あとは適当に土が分解してくれるだろう。
 すう、
 と、背が寒くなった。――考えの内容よりも、そんなことを思いついた自分自身に。
 風がひゅうひゅうと鳴っている。月のない夜は暗かった。黄泉のように寒い夜。申し訳程度に点いている遠くの街灯だけが、今の紘臣の唯一の光源だった。
 いま何時だろう。
 早く、早く片付けないと。
 朝になってしまう。明るくなってしまう。誰かが来てしまう。
 理性が急かす。そんなもの、とうの昔に吹っ飛んだとばかり思っていたのに。
 身体はなかなか動かなかった。なにをすれば良いのかは判り切ったことだ。幸い、物置の横にスコップが立てかけてあるのが目についた。それを取って、土を掘れば良いのだ。どれだけ掘れば良いのかは判らないが、とにかく掘れば良い。猫の居るところまで。あんなにも望んだ単純作業じゃないか。
 やれ。
 やるんだ。
 暴風が冷たい。疾風が急かす。
 譲はずっと、微動だにせず転がっていた。強風になぶられる細い髪だけが、奇妙に活き活きと動いている。たぶん紘臣よりも、ずっと。
 きゅっと唇を結んだ。ごくりと唾を呑んだ。ひゅうと空虚な深呼吸をした。
 小刻みに震えながら、機械人形のような動作で、足元の譲だったモノを見やった。開いたまま固まっている小さな眼は、虚ろに空を見つめている。――そうだ。オレを睨んでいるわけではない。そんなはずが、ないのだ。見ることなんか、できるものか。
 冷え切った手を、緩慢な動作でスコップに伸ばした。
 意識的に譲を排除しながら、紘臣は、猫の墓標の横にそれを突き立てた。

 ――眼が、覚めた。
 まだ覚醒しきっていない頭を、半ば機械的に窓へと向ける。カーテンを透かして光が見えた。前に見たときには辺りは真っ暗だった――すると、どうやらきちんと朝がやってきたらしい。無理にでも、眠ることはできたようだった。耳を澄ましても、暴風の音は聞こえない。やってきてくれたのは、ありがたいことに、嘘のように平和な朝だった。
 霧がかかった頭が、徐々に晴れてくる。それと一緒になって押し寄せてきた寒気を、紘臣は慌てて押しこめた。昨日よりは幾分暖かくなったとはいえ、朝の空気は冷たい。空気の冷えが背中の寒気を誘発する。ぶるりと一度、大袈裟に身体を震わせた。
 思い出しては、いけない。もう終わったのだ。全部土の下だ。
 しつこい思考を振り払うかのように、勢いよく布団をはねのけた。乱れた布団と呼吸とを整えることすらせずにベッドから下りる。勢いに任せて箪笥からジーンズでも引っ張り出そうとしてようやく、ハンガーに掛かっているものに眼がとまった。
 シャツとスラックスと、ブレザー。
 見慣れない服の前でたっぷり十秒沈黙して、あ、と呟いた。
「卒業式……」
 続けた自分の声は、言葉にそぐわないほど暗かった。
 N小学校卒業式。今日が、その日だった。
 すっかり忘れていた。昨日の今頃には、確かに憶えていたはずなのに。この日のために、きちんと揃った礼の仕方や、大きな声での合唱を準備したのではなかったか。この日がやってくるからこそ、タイムカプセルを作ることになったのではなかったか。昨日の今頃には思考の一角を確実に占めていたはずの言葉は、いつの間にか、紘臣の中から綺麗さっぱり抜け落ちてしまっているようだった。
 ――当たり前だ。
 力なく、紘臣は笑った。顔が引き攣っただけかもしれないけれど。それでも、笑えたということにしておきたかった。
 ともすれば、思考が厭な方向にばかり向きそうになる。それを必死で抑えつけながら、正装に手を伸ばした。綺麗に洗い清めたはずの手なのに、自分のものではないように感じられてしまう。きちんとこの場所に立っていないと、もしかしたら発狂してしまうかもしれない。冗談のつもりで思い浮かべた言葉は、予想外に深刻な空気を帯びていた。
 一歩一歩床を踏みしめながら、とりあえず洗面所に行って顔を洗った。冷たい水で無理矢理眠気を払いのけ、来たときと同じ足取りで部屋に戻る。正装の前に立つと、そのまま半歩たりとも足の位置を変えないように、床を踏みしめたままで慎重に着替えた。足に力を入れて、他のなにかをなんとか排そうと努めていた。
 ――落ちつけ。落ちつけ。落ちつけ。落ちつけ。落ちつけ。落ちつけ。落ちつけ。落ちつけ。落ちつけ。落ちつけ。
 着慣れないシャツとスラックスだけを身につけ、一度深呼吸をした。鏡でも見て自分の顔を確かめたかったが、生憎とそんな洒落たものは部屋にない。洗面所まで引き返すのも面倒だったので、代わりに自分の頬を一度だけ叩いた。
 そして恐る恐る、歩きだした。足元が少しふらつく。リビングへ続く階段が、いやに遠い。いつもなら聞こえていなかったはずのかすかな床の軋みが、いちいち耳につく。
 いつもどおり、トーストとコーヒーの匂いがした。
 いつもと違って卵の匂いもした。
「おはよう、卒業生」
 ぼんやりとしたままテーブルにつくと、馬鹿に明るい母の声がした。隣では父がいつもどおり新聞を読んでいる。目に入った活字に心臓が跳ね上がった。――殺害。
「もうちょっと早いかと思ったんだけど、いつもどおりに起きてきたんだね?」
 母が、紘臣の目の前にトーストとスクランブルエッグの載った皿と、マグカップを置いた。いつもならトーストとコーヒーしか出てこないのに、なにをそんなにも張り切っているのだろう、とどこか遠くで思う。なんで母はこんなに元気なのだろう。
 卵が湯気を立てている。ぐちゃぐちゃにかきまぜられた卵。
 吐き気を覚えた。
「ヒロが卒業とはなあ。早いもんだ」
 新聞紙の向こうで、父も呟いた。どことなくぎこちなかった。――なにかを、隠そうとしているかのように。
 なにを隠そうとしているのだろう?
 白く煙った頭でそんなことを思いながら、機械的にトーストに手を伸ばした。自分のものではないような声が、小さく、いただきます、と呟いた。
「うん、晴れて良かったわ」
 母が大きく頷いている。そして窓の外を、見た。
「どうなるかと思った――昨日は、風が強かったから」
 手が止まった。
「凄い音だったね。ヒロ、ちゃんと眠れた?」
 ――音を立てていたのは、オレだ。
 突然、手が震えはじめた。
 感覚の消え去った手から、口をつけてもいないトーストが落下する。
「ヒロ……紘臣?」
 驚いたような母の声。
 震える手に、土の感触が戻ってくる。ひたひたと押し寄せる、つめたい言葉。見開かれた譲の眼。――聞こえていた。聞こえていたのだ。消えてなんかいなかった。あの暴風に搔き消されたわけではなかったのだ。オレが物置を開けて、譲くんを外に出して、土を掘って、埋めて、あいつと一緒に、それが、あの音が、全部聞こえていたのだ。それだけじゃないんだ。譲くんが居なくなったのも全部オレのせいなんだって解ってるんだ。聞いたから、音が聞こえたから、オレがなにをしているかわかったから、父さんも母さんも、知っているのだ。律子おばさんも知っているのだ。知っていて知らないふりを――
 寒い。ここは、寒すぎる。
 譲は冷たい土の中に埋められたのだ。紘臣の手で。泥まみれの紘臣の手で。血眼になった紘臣の眼が見ている中で。あの暴風の夜に。誤って転落して気絶した譲は、紘臣の手で生命まで絶たれた。暗くて狭い物置の中で、眼を見開いて息絶えた。それを、埋めたのだ。紘臣が。猫の傍に。なかったことにしようと思って。
 ――なるはずなどないのに。
 なんでそんなことが解っていなかったのだろう?
 どうして今日になるまで気づかなかったのだろう?
 着慣れないシャツとスラックスの中で、紘臣の身体はがたがたと震えていた。
 コーヒーの不透明な液面が小刻みに揺れている。それがぐるぐると廻って見えた。
「紘臣、ちょっと、どうしたの!」
 母の叫ぶ声が突き刺さる。責めたてる。
「――ごめんなさい、ごめんなさい」
 うわごとのように繰り返す自分の声を、ずっと遠くで聞いていた。凝視したコーヒーの液面に、誰かの顔が映りこむ。あれは――あれは、あれは、
 身体が乱れた鼓動を打っている。自分の呼吸が耳元で聞こえる。
 ぷつりとなにかが切れて、
 強い眩暈を覚えて、
 ぐらりと視界が揺れた。
「紘臣――!」
 誰かが絶叫するのが見えた。世界が回転する。床が急速に近くなって、肩と頭に鈍い衝撃を感じた。頭が、痛い。熱い。
 現実が急速に遠ざかる。
 最後に譲の死顔が見えて、
 それが猫の姿と重なって、
 サイレンの音を聞いたような気がして、
 ――あ、捕まるんだ、オレ。
 それきり意識が途絶えた。

 ――……みは。紘臣は。
 ――精神性の、
 ――過労……思われ……
 ――……猫、
 ――隣の……居なくなって。
 ――ストレス……
 ――……罪悪感が、
 ――強い精神的疲労。
 ――……大丈夫……んですか、
 ――記憶が……
 ――刺激……ないで……
 ――隠して?
 ――……譲くん……
 ――アルバムを、
 ――卒業……そっと……
 ――物置に。
 ――忘れたままで居させてあげてください。


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