庭と自室とを一往復しただけであるはずなのに、ほとんど過呼吸状態に陥っていた。気がつけば、身体中じっとりと汗をかいている。いくら真冬だからといって、家中暖房が効きすぎていやしないだろうか。庭には暖房などついていないはずなのに。ここは恐ろしく暑い。汗が止まらない。 あちこちが乱れた鼓動を打っていた。心臓がどこに在るのかも判らない。 吹きつける風が冷たい。けれど身体が熱い。けれど、右手に握りしめた小さな鍵だけはいやにつめたい。 深呼吸をすると、乾いた風に噎せ返る。小刻みに歯を鳴らしながら、何度も唾を呑みこんだ。 ――確かめろ。確かめるんだ。 物置の前に、意識的に仁王立ちになった。そうでもしないと立っていられなかった。だが勇ましいのは立ち姿だけで、俯いた視線は鍵穴を捉えてすらいない。鍵も手の中に握りこんだままだった。どちらにしたところで、覚悟を決めてからにしないと、二度と視線を外せなくなるような気がする。 荒涼とした地面に視線を突き刺して、落ち着くのを待つ。無駄な努力だとは解っていたけれど。 ――吐いてしまえ、人殺し。 嵐の吹きすさぶ頭の中で絶叫しているのは、たぶん、律子の声だった。 歯軋りをした。 けれどなにも変わらなかった。 「ごめんなさい」 呟いた。 けれどなにも変わらなかった。 相変わらず身体中が熱くて、心臓はあちこちに在って、頭の中では律子が寂しそうな顔で絶叫していた。 ――確かめろ。あれが本当なのか嘘なのか。 一度固く目を閉じて、それからゆっくりと開いた。慎重に深呼吸をする。震える右の拳を、眼と地面との間に恐る恐る割りこませた。開こうとしても開かない指を、左手で一本ずつ引き剝がす。これは狂気と呼ぶべきなのかもしれない。そう思うと、なぜだか奇妙に落ち着いてきた。わずかに顔を引き攣らせて、笑った。 丁寧に広げた掌に、小さな鍵が載っている。記憶の中にあるものよりも、随分とくすんで見えた。 ――確かめろ。 ――人殺し。 自分と律子とが同時に絶叫した。鮮明に頭に浮かぶのは、八年経っても幼いままの譲の顔だった。なぜ今まで、彼の存在を忘れていたのだろう。 思いどおりに動かない左手の指で、その鍵に触れた。爪が紫色になっているのは、手がかじかんでいるからなのか。二度落として、ようやくつまみあげる。左手でつまんだそれを、慎重に、右手の指先に戻した。 たったそれだけのことに、一体どれだけの時間を費やしているのだろうか。自嘲したくても、顔は巧く動いてくれなかった。 紫色をした親指と人差し指が、つめたい鍵を恐々と摘んでいる。震えているのは、もしかしたら鍵のほうなのかもしれない。だからこんなにも、鍵と指とが触れる面積を最小限にしようとしているのではないのか。邪悪なモノにでも触れるかのように。 指先で震えている鍵から、物置の鍵穴へと視線を移動させる。ひどく、緩慢な動作だった。 古傷だらけの、鍵穴。 疼いているのは誰の古傷なのだろう。 湿ってきた左掌を、わざとらしくズボンに擦りつけた。右手もそれに倣いたかったが、鍵を摘んでいてはどうしようもない。 唾を呑みこんだ。深呼吸をした。 鍵を鍵穴へ向ける。震える手で、挿せるだろうか。開けられるだろうか。だって、この中に居るのは。あのとき、俺が中に入れたのは。この物置の中に。入れて鍵をかけて鍵までも封じたのは。 「――あら」 身体中が跳ね上がった。 振り返ると同時、からからと平和な音がして窓が開いく。二重にどきりとする。――硝子越しの声にも過剰反応する身体にとって、窓が開き、母が出てくるという出来事は刺激が強すぎた。 落ち着きかけていた心臓が、再び身体中を駆け巡る。 「その鍵……って、なに、とんでもない顔して」 きょとんとして窓枠の向こうに立っている母の姿が、いつかの律子に重なった。――見られた。反射的に思ったのは、そんなことだった。 驚愕に硬直した手は、鍵を隠すことも忘れていた。 母の言葉にはっとして、慌てて驚愕と動揺とを抑えこむ。けれど隠し損ねた動揺が顔に引っかかって、引き攣った表情になったのが解った。 「大丈夫」 声が裏返っていないかと心配したが、それはとりあえず大丈夫らしい。少なくとも、紘臣が自覚している限りでは。母が少しだけ怪訝そうに首を傾げたが、口までは開かせずに急いで言った。 「それより、母さんこそどうしたんだよ」 「ああ」 溜息のような呟きを、母は思い出したように漏らした。そして、何気なく手をあげ、人指し指で紘臣の手元を示す。――糾弾じみた所作。その指で、貫くように。指先に覚える激痛。母が浮かべていたのは、純粋な疑問でしかなかったはずなのに。 「その鍵……どこにあったの?」 卒倒しなかったのが自分でも不思議だった。 母を凝視して、紘臣は凍りついたように立ち尽くしている。吹きつける乾いた風は、あの日と同じように冷たかった。 思い出したように、何度も激しく瞬きをした。眼球がひどく乾いていた。 「どこ、って」 震える唇も乾ききっていた。鍵を摘んだままの指先が、かじかんで感覚を失っていく。 「その鍵、どこかに失くしちゃってたのよ。いつだったかは憶えてないんだけど……でもまあ、とりあえず開くことは開いたからね。鍵なんて使ってなかったから別に不自由はしなかったけど」 「開いた?」 無意識に発した声にどきりとした。別人のような強い調子だった。 一瞬の間のあとで、母が眉をひそめた。怪訝そうに。心配そうに。 「開くわよ、それは。普通にね。……ねえちょっとヒロ、あんた大丈夫?」 母の問いには答えず、紘臣は重力に引かれるように視線を落とした。くすんだ小さな鍵が目に入る。 鍵は手元に在る。正確に言うならば、八年間封じていた鍵が、いま紘臣の手元に戻ってきた。 あの日、紘臣は、確かに物置に鍵をかけた。それなのに。 ――でもまあ、とりあえず開くことは開いたからね。 眼の前の鍵穴には、あちこち滅茶苦茶についた引っ掻き傷。それはまるで、誰かがこじ開けようとしたかのような。 こじ開けた? ――別に不自由はしなかったけど。 「鍵……ずっとかかってなかったの?」 「かかってるわけないじゃないの、開くんだから。使ってるんだし」 母の口調が、微妙な苛立ちと不審、それに明確な心配を帯びていた。 「買ったときからずっと開けっ放しよ、鍵はね。挿しっ放しだったくらいだから……でもなくなっちゃったの」 「ずっと?」 紘臣の口調はうわごとに似ていた。 「ずっと。――」 肯定のイントネーションを帯びた声が返ってきた。そのあともなにか言っていたのかもしれなかったが、紘臣はなにも聞いていなかった。 ――まだ続きがあるのだ。 じわじわと、なにかが迫ってくる。覚えのある感覚だった。 汗ばんだ身体が、北風でじわじわと冷やされていく。 鍵を摘んだ右手の指が、思い出したようにまた震えはじめていた。 |