自白剤

4 過去


「藤原ぁ、どうしたんだよ、そんなカオして」
 突如視界に飛びこんできた賢作の顔に、どきりとした。普段なら大して人気のない公園の中に、同じ小学校のクラスメイトが思い思いに散らばっている。集団の中で、彼が紘臣一人をめざして駆けてきたという事実に、不必要な緊張を強いられた。
「いや、別に」
「それよかさ、お前、なに持ってきたんだよ? えらくデカいけど」
 狼狽える紘臣を気にもとめず、賢作はひょいと、紘臣のバッグに色黒の手を伸ばした。慌てて隠そうとするが既に手遅れだ。
「教科書ねえ」
 勝手に中を覗いた賢作が、感嘆とも呆れともつかない声を上げた。そもそも――そうだ。隠す必要など、どこにもないのではなかったか。中身はただの、手紙と教科書。大丈夫だ。ポケットの中まで見るはずもない。見たところで誰も、知らない。解らない。
「しかも二冊? 馬ッ鹿だなあ」
 ――馬鹿だ。そう。オレは大馬鹿者だ。
「馬鹿って……なんだよそれ」
「いや、だってタイムカプセルって四十人分のものを入れるんだぜ? 藤原一人でこんだけスペース使ってどーすんだよ。小っさいモンだよ、小っさいモン」
 訳知り顔で得意気に言う彼に、紘臣は、はあ、と気のない返事をした。しかし言われてみればその通りだと思う。準備にどれだけやる気がなかったか知れようというものだ。
「ま、持ってこねぇよりマシだけどな。オレ、お前は絶対なんにも持ってこないと思ってたんだけど。ていうか来るかどうかも疑ってたぜ」
「……そこまで言うか」
「でも当たってるだろ。やる気ないだろ、お前」
 にやにや笑いながら人指し指でこちらを指してきた賢作に、紘臣は両掌を見せて苦笑してみせた。言っていることはとりあえず当たっている。タイムカプセル計画の存在自体を、今日の今日まで忘れていたことは事実なのだから。
 ――紘臣の表情を見て、賢作は、ふと真面目な顔になった。
「どうした?」
「え?」
 落ち着いていた心臓が跳ね上がった。
 口をつぐんだ賢作が、じっと紘臣の眼を見つめてくる。太い眉の下で、敏感な眼がなにかを見ようとしていた。
 思わず視線を逸らした。反射的にポケットに手を触れる。
「藤原?」
 賢作の声が責めるように降ってくる。
「なんでもないよ」
 顔を伏せたままのこんな台詞に、どれだけの説得力があるのかは判らなかったけれど。
 視界の隅で、賢作が怪訝そうな表情をしている。心配そうな表情をしている。その表情が、紘臣の首をじわじわと絞めつける。
「なにかあったのか」
 遠慮がちに問うてくる小声の裏に、別の声を聞いた。
 吐いてしまえ。
 人殺し。
「――はいはーい、六の一、集合ー!」
 よく通る少女の声がした。
 弾かれるように顔を上げる。ちょうど賢作も同じように、吉永深雪を振り返っていた。紘臣のほうを向いているのは、後頭部だけだ。
 隙をついた、のかもしれない。
 ものを考えることもせずに、賢作の脇を通り抜けて深雪のほうへと一目散に駆けだした。彼女の周りにできかけている人だかりが、たぶん今の紘臣の救いだった。能天気な小学生の集団は、空気がいやに軽い。
 フジワラ、と、賢作の声が聞こえたような気もする。同時に後ろから迫りくるスニーカーの足音。けれど意図的に無視した。
 必要以上に息をあがらせて、紘臣も集団の中に同化した。輪の真ん中には、箱を抱えた深雪と優しい笑顔を浮かべた初老の担任教師とが立っていて、なにやら 会話を弾ませている。気づけば、この公園全体に漂っているのもどことなく興奮して浮かれた空気だった。――ねえねえ、なに持ってきた? あいつ絶対遅刻に 決まってるぜ。受かった? 凄いじゃん。昔ここで遊んだね。明日なに着てく? ほんとに寒いよねえ。先生泣くかな。昨日のテレビ見た? 今度遊びに行こ う。――
 この空気になら同化できるかもしれない、と思った。
 深雪がなにやら説明を始めている。彼女が、大きな箱を抱えたままで器用に担任教師を示す。示された彼は、透明なビニール袋の束を持っていた。――各自 持ってきた品物を袋に入れて箱に入れる、と、そういう手順なのだろう。段ボール箱のようなものかと思っていたら、小頑丈な、家具に近いような箱だった。何 年も保管するというのだからそれなりに丈夫でなければならないのだろう。そういえば何年間封印するのだったか――肝心なところを聞いていなかった。どこか で言ったのだろうか、彼女は。
 何年、封じたままでいるのだろう。
 ぼんやりと、深雪の持つ箱を見つめた。紺色だった。
 ポケットの中身がずしりと重く感じられていた。
 辺りは無音だった。
 視界には箱しか入っていなかった。
 教師が温厚に微笑みながらビニール袋を配っている。その後ろを深雪が歩いて、品物を回収していた。その間にも、あちこちで楽しそうな笑い声が上がる。深雪自身も回収のたびにお喋りに興じているので、作業はなかなか捗らないようだった。
 何年かは判らない。ただ、自分の手を離れ何年も封じたままになるというのは確かだ。誰の眼にも触れないのだ。
 視界には箱しか入っていなかった。
 誰かからビニール袋を押しつけられた。条件反射で受け取る動作をした。それがぺたりと、掌に貼りついて気持ちが悪い。
 脳裏を過ぎるのは誰かの顔だった。
 重いのはポケットの中身だった。
 早く忘れてしまいたかった。
 誰にも見つからないのだ。この箱の中身は。何年も。封じられたままで。
 なにも考えずに、バッグの中身を袋に入れた。そして丁寧すぎるほど丁寧に、袋の口を折りこんだ。
 震える意識に鞭打って、手をポケットの中に入れる。手に触れたもののつめたさにぞっとする。それをつまんで、引き出して、ビニール袋と一緒に握りしめた。
 耳元で、膝で、手で、喉で、心臓が鳴っている。呼吸が乱れるのは、正しいやりかたを忘れてしまったからなのだろうか。
 見開いた眼の閉じかただけは辛うじて思い出した。だからせわしなく、瞬きをした。
「――藤原君?」
 何度目かの瞬きのあとで目を開くと、見慣れた深雪の顔が見えた。
 叫び声をあげそうになったが、抑えつける。普通の表情の作りかたが、少しは巧くなってきただろうか。そのぶん内外の落差が余計に激しくなっているようだったけれど。
 眼鏡の薄いレンズの向こうで、深雪がにこりと明るく笑っていた。屈託ない顔だった。
「はい」
 差し出された箱の中には、透明な袋に包まれた「思い出」がいくつも転がっている。確かに小振りのものが多い、と思った。
「あ、了解」
 努めて何気なく応えながら、教科書入りの袋を持った右手を上げた。全体がじっとりと湿っていたが、掌の真ん中だけ、つめたい。
 手を開くと、中途半端にくっついたビニールが、名残惜しそうなスローモーションで離れながら箱の中へと落下していった。わずかに遅れて金属がそれに続 く。それらが共に手から離れた瞬間、奇妙な安堵と脱力とを同時に味わった。――ことり、と、小さな音。それを聞いたのは紘臣だけであるはずだった。
 なにかが麻痺していた。惰性的に見ている箱の中で、数々の思い出の陰に、小さな小さな物置の鍵がきらりと光っている。ソレは紘臣の手を離れて、遠いところにあった。
 ――終わった、と、そう思った。
 もうこれで大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫。誰にも見つからない。これで誰も傷つかない。オレも責められることはない。あの鍵さえ隠しておけば譲くんのこと は誰にもわからないんだから。誰も知らない。一晩寝たら何事もなかったかのように、当たり前のように日々が始まるんだ。オレは小学校を卒業して、中学生に なるんだ。だって、なにもなかったんだから。
 ぼんやりとしている紘臣の目の前で、深雪はなおもにこにこと笑っていた。
「まいどー。……あ、上垣君も入れて入れて」
「ん……ああ」
 隣から我に返ったような賢作の声がした。いつの間に居たのだろうか。訝るような心配するような視線がこちらを気にしていたが、焦る気力さえ失っていた。
「ありがとー。えーっと、もう入れてない人居ない? 大丈夫? 閉めるよお――」
 深雪の後姿がなにか叫んでいたが、ほとんど理解できなかった。しばらくもの言いたげな視線を送ってきていた賢作が、ふいと視線を逸らす。彼女の声も彼の視線も、やけに遠い。
 なにかが切れたような気がして、紘臣は深く深く、息をついた。目を閉じると倒れてしまいそうな放心の中だった。


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