自白剤

3 過去


「よく吠えるわねえ」
 のんびりと、母が言った。
「ええ、ほんとに。譲もびっくりするし、なんとかしてほしいんですけどね、あんまり強くも言えなくて――」
 苦笑交じりの律子の言葉を、紘臣は静かに窓を閉めて遮った。硝子一枚、カーテン一枚。外と中とを隔てているものは、それだけだ。
 心臓が早鐘を打っている。なにか冷たいものが、頬を伝っている。それなのに紘臣の頭の中は、奇妙なほどに静まり返っていて冷静だった。少なくとも自分では、冷静でいるつもりだった。
 棒のように突っ立っている紘臣の傍。冷たい風が斬りつける石段の上。転がっている。小さなモノ。動かない。
 どうして動かないのだろう、と、思ったのはそんなことだった。泣き叫ぶことさえせず、ただ不気味なほど静かに。どうして譲は動かずに転がっているのだろう。さっきは巧く着地したのに。着地に失敗したなら痛いだろうに。どうして泣きもしないのだろう。
 結論を避けているのかもしれなかった。
 結論なら、もうとっくに出ているのに?
 北風が痛い。
 犬の声は聞こえなくなっていた。
 冷たくなっていた猫の姿が蘇る。目の前に転がっているものが、鮮やかにそれと重なって見えた。
 バランスを崩して頭から落ちた佐伯譲の姿を。藤原紘臣は、真正面に見たのではなかったか。落ちたからこそ、譲は石段の上で、紘臣の前で。
 根拠はないが確信していた。
 ――ゆっくりと現実が、戻ってきた。
「あ」
 一文字呟いた掠れ声が、別人のものに聞こえた。強いてなにかを口にしようとしたが、言葉にならない。言うべきことなどなにも残っていない。脚が震えている。寒い。この庭は恐ろしく寒かった。風が激しく吹きつけている。自分はなぜ立っていられるのだろう。
 自分は立っているのに、譲はどうして動かないのだろう。
「譲くん」
 呼んで、うつ伏せに倒れている譲に向かって手を伸ばした。しかし伸ばした指先を冷たい風がかすめ、慌てて引っこめる。触れては――ならないような。そんな気がした。右手を、左手で包みこむ。指先に残った冷気の感触が消えない。
 酷く穢れた空気を感じた。
 転がっている譲を凝視した紘臣の呼吸は、乱れはじめていた。
 うつ伏せた譲の小さな後頭部は、なにも言わない。泣き叫ぶわけでもない。血溜まりができるわけでもない。どこかが奇妙に捻じ曲がるわけでもない。
 ソレは譲のままの姿で転がっていた。
 ――ああ、あいつと同じだ。
「嘘だ」
 かすれた小さな声で呟いた。右手を包みこんだ左手の爪が、白く偏食していた。
 ――お前が、
「違う」
 ゆるゆると首を振る。首は動いているはずなのに、視線は足許のそれに突き刺さったまま外れなかった。
 寒さが痛みに変わる。皮膚感覚が遠ざかっていく。歯がかたかたと鳴る。どうしてここはこんなに寒いのだろう。
 ――お前が。
「オレが」
 違うと絶叫したつもりが、声にさえならなかった。
 けれど言葉は止まらなかった。
 知らない。オレは知らない。なんにも悪くない。こいつが自分で言いだしたことじゃないか。オレは窓を開けてやっただけ。犬が勝手に吠えたんじゃないか。こいつが勝手に落ちたんじゃないか。さっきは巧く着地したから。オレは、手を差しのべてやらなかっただけ――なにもしていないのだ。オレは。悪くないのだ。オレのせいじゃない。こいつが勝手に。関係ない。オレはなにも知らない。悪くない。悪くないのになんでこいつはオレの目の前で犬の声なんかに驚いてバランス崩して縁側から落ちて石で頭を打って泣くことも動くことも喋ることも笑うこともなにもなにひとつしなくなってるんだ――
 ――ばれてはならない。
 真っ赤な文字で、脳裏に一言閃いた。
 風は相変わらず冷え冷えと鋭利だった。空は相変わらず、白く低く淀んでいた。
 視線は相変わらず、譲だったモノの後頭部に突き刺さっていた。
 ――ばれてはならない。
 譲がここで倒れたことは、誰にもばれてはならないのだ。紘臣はなにも悪くないのだから。すべて秘密にしなければならない。律子にも、母にも、誰にも。
 ――隠さなくちゃ。こいつを。こいつの、――。
 弾かれたように顔を上げ、視線を譲から引き抜いた。見開かれた紘臣の眼球を、乾いた風が乱暴にかすめる。しかし気にもとめなかった。一度くらいの瞬きで強迫観念は消えない。
 どこか――どこかに、これを隠さなければ。
 オレは悪くないんだから。
 せわしなく視線を走らせる。
 そして、止めた。
 庭の片隅に、物置が在る。
 いつもなら気にもとめない金属の箱が、絶対的な存在感を持って存在していた。
 鍵穴から、不用心にも小さな金属が生えていた。
 しばらくそれを見つめていた。
 ――しかし、考えることはほとんどしなかった。

 閉めきった部屋のドアが、苛立った調子でノックされた。
 紘臣は意識的にゆっくりと、立ちあがった。抱えていた膝が妙な具合に痺れている。散らばったものに躓かないように慎重に足を運んでドアを開けると、奇妙な表情をした母と、蒼ざめた律子とが立っていた。その表情の意味するところを察するよりも早く、母が口を開く。
「あんた、なにしてるの」
 ひとつは、怒りだ。
「……なに、って」
「どうしてあんた一人でこんなところに居るのよ」
 ひとつは、憔悴だ。
「江美香さん――紘臣君は、なにも」
「でも……でも! うちのヒロさえしっかりしてれば」
 残りは、不安だ。
 種類の違う不安が紘臣にも伝染する。きゅうと、どこかが縮まった。寒くもないのに鳥肌が立った。
「……なにか、あったの」
 笑わせてくれる。なにがあったのかいちばんよく知っているのは、自分のほうではないか。
 けれど震える声は、自分で思っていた以上の演技力を発揮していた。
 どうして。いま喋っているのは一体誰なのだ。
「譲くんが」
「譲が……どこにも居ないの」
 ほっとした。心中では胸を撫でおろした。
 けれど実際の紘臣は、息を呑んだ。
 その振る舞いに対して、彼は再度息を呑んだ。
「そんな」
 どうして。
 どうしてこんなに巧く振る舞ってしまうのだ。
「気がついたら居なくなってて……あちこち捜してはみたんだけど、見つからないの、キッチンもトイレもお風呂場も和室もリビングもダイニングも、江美香さんと藤原さんと一緒に捜したのに。もしかしたら紘臣君が部屋で一緒に遊んでくれてるのかなって、そう思ったんだけど」
 律子は言葉を切ると、揺れる眼で、紘臣の部屋の中を遠慮がちに見回した。けれど結果は目に見えている。それは紘臣が、いちばんよく知っていた。
 しばらく沈黙したあと、律子は、こわばった顔で俯いた。気疲れした顔。うわごとのような言葉。
「居ないの……譲が、どこにも。ねえ、紘臣君、譲はどこに行っちゃったの……」
「オレは……いや」
 自分の意思に反して自分が喋っていた。どちらの自分にしても、狼狽しているのは同じだったけれど。
「だって譲くんが一人で遊んでるから、邪魔するのも気の毒かなって思って」
 これは保身の、火事場の馬鹿力とやらか。自己防衛本能で、こんな振る舞いをしているのか。違う。
 真実を――喋っているだけだ。
「午後から学校でタイムカプセルの約束もあるし……中身のことあんまり考えてなかったから部屋でそれ考えようと思っただけで、そんな、譲くんは一人でちゃんとできるって、居なくなるなんてオレ、オレは」
 早口になる。次から次へと迸る言葉は嘘なのか。真実なのか。
 真実だ。真実であるはずだ。
 オレは、なにも悪くないのだから。
「知らない」
 だから塗り固めるのだ。
 真実で。
 母と律子が、憐れむような眼で紘臣を見ていた。そう見えた。その視線が痛かった。どうして誰も、楽にさせてくれないのだ。
「オレは悪くない」
「解った――ごめん、母さんがかっとしてた」
 打って変わった穏やかな声で、母は紘臣の言葉を遮った。穏やかというよりはただ、気を張っているのに疲れただけなのかもしれないけれど。
 ズボンのポケットに手を触れている自分に気づき、慌てて手を離した。離した手の遣り場に迷っているうちに、両手が勝手に拳を握る。いつの間にか、額には汗が浮いていた。冷や汗か。それともこれは、脂汗なのか。
 呼吸が乱れている。脈も乱れている。
 ――気づかれる。気づかれてしまう。なんとかしないと。
「紘臣」
 名を呼ばれ、弾かれるように顔を上げた。見開かれた視線の先に、同情するような母の眼があった。
 ――ごめんなさい。
 そう口走るより一瞬早く、律子が苦しそうに微笑した。視線が吸い寄せられる。
「ごめんね紘臣君、譲が、譲のこと、で」
 声が詰まった。眼が離せない。唇が震えた。喉が奇妙に詰まった。――泣くかもしれない。
「……学校のお友達と、約束があるんでしょう? 早く行って、それで、良い思い出、たくさん作って、卒業して、ね?」
 律子は泣かなかった。あの軽い無責任な表情のどこに、こんな気丈さが隠れていたというのだろう。
「でも」
「良いから」
 僅かに、律子の唇の端が動いた。解放されたような気がして、紘臣は喘ぐように一度呼吸した。重い。苦しい。吐き出してしまいたい。吐き出してはいけない。
「行って、ね?」
 ちらりと、母を盗み見る。形容しがたいこわばった微笑を浮かべた母は、黙ったままで微かに頷いた。
 感覚の消えかかっていた脚に力を入れると、がくん、と脱力するようにして一歩前進した。
 一瞬の驚愕。前のめりになった姿勢で顔を上げると、見たこともないような女の表情が二つ並んでいた。
 三つめが見えた気がした。
 ぞっ、と寒くなる。
 背後を振り返ったがなにもあるわけがなかった。ただ散らかった視界の中に、無造作に放り出したバッグが転がっているだけ。中身は手紙と教科書だ。タイムカプセルに詰めるための。詰めて封じるための。解っている。知っている。得体の知れないものなど在るわけがない。
 ポケットに手が触れる。
 それを引き剝がしてバッグをひったくった。時計を見ると、予定の二時までにはもう十五分しかなくなっていた。走れば充分に間に合うが、その前に――
「行ってきます」
 口にした自分の声はひどく陰気だった。母と律子の脇をすり抜けた身体は重かった。後ろで誰かがなにか言ったような気がしたが、意識して聞かないようにした。階段を下りるにつれて歩調が速くなる。
 ――確かめないと。
 そう、呟いたのかもしれない。呪詛のように。
 疲労した歩調が後ろから近づいてくる。追い詰めるように。
 焦る歩調は速くなる。逃げるように。
 靴を履きかえると、その足でまっすぐに庭へ行った。寒さなど微塵も感じなかった。靴越しの地面は、寒気がするほどつめたかった。せわしなく辺りを見回す。小さな勝手口。綺麗に整えられた小さな花壇。枯れた雑草が無気力に散らばる地面。隅には、作ったばかりの小さな墓。三月の半ばといっても、依然風景は冬の庭だった。
 そして恐る恐る、視線を動かす。
 物置。
 譲を呑みこんだ、冷たく死んだ金属の箱。紘臣の砦。
 心臓の音が聞こえていた。
 ゆっくりと近づく。心臓が近づいてくる。
 ポケットが重い。
 湿った拳をほどき、緩慢な動作で引き戸に手をかけた。
 ――大丈夫。開くはずがない。ちゃんと閉めた、閉めたんだから。
 遠くなりかける意識に鞭打って、ぐっと手に力をこめた。
 がたん、と鳴った。
 びくん、と震えた。
 弾かれたように手を離し、右手を左手で包みこむ。バッグをぶらさげた左腕は異様に重かった。重い腕が、小刻みに震えている。乱れる呼吸を必死で鎮める。
 ――大丈夫だ。大丈夫だから。
 引き戸が、きちんと鍵に引っかかっていることを確かめた。大丈夫。きちんと鍵はかかっている。閉めたんだから。確かめたんだから。大丈夫。左腕にぶらさがっているのは、ただの教科書。薄いわりに重いただの紙の束。
 譲なんかではないんだから。
「――紘臣君?」
 呼吸が止まった。
 振り返った。
 開け放した窓の向こうに、白い顔をした譲が立っていた。
 顔が表情を凍らせた。
「どうしたの、そんなところで……寒いでしょう」
 違う。
 これは、律子だ。
 忘れていた皮膚の感覚が戻ってくる。靴下越しに触れる地面は、感覚が無くなるほど冷たかった。うっすらと汗をかいた額に、凍てつく風が奇妙に心地良い。
 右手と左手とを素早く離して、バッグを持ち直した。
「譲くん、を」
 ほとんど反射的に口走っていた。言い訳めいた言葉は、今度はたぶん、紘臣の意思だった。
「捜してた」
 律子は僅かに目を見開き、眼の前の少年を凝視した。
 紘臣は僅かに目を伏せ、眼の前の哀れな母親を見ないようにした。心臓の音を聞かれやしないだろうか。
「庭を……捜してなさそうだったから、オレが」
「それで」
 せきこむような律子の声が割りこむ。
「あの子は、譲は、どこに」
 激しい声に身体が揺さぶられる。驚いて顔を上げると、必死の形相をした律子の顔と、抱き上げた譲の顔とが重なった。血が滲んでいたのはどちらだったか。――知らせてはいけない。この人は壊れてしまう。――知られてはいけない。自分が壊れてしまう。
 頭痛と眩暈と吐き気とを一度に呑みこんで、紘臣は無理矢理言葉を絞り出した。
「ど、どこにも……」
 律子の悲壮な表情が凍りついた。
「もの、物置まで、開けて調べたけど……駄目だった、ぜ、全然、譲くん見つからなくて」
 華奢な手で、律子は顔を覆った。十本の爪を、ラメの入ったピンクのマニキュアが覆っている。ジーンズの脚が、紘臣の目の前で崩折れる。指の間から漏れるのは、律子の声をした嗚咽だった。
「ごめんなさい」
 紘臣はそれを見下ろしている。恐怖をもって。
「ごめんなさい、私が、こんな……どこに行っちゃったの、譲、ゆず……ど、して、ごめんなさい……だから、お願い、だから……」
 ――紘臣は、踵を返して走りだした。
「帰ってきて」
 恐怖に引き攣った顔が、苦悶に歪んでいた。


  top