自白剤

2 過去


 丁寧に、丁寧に、手を洗った。ついでに顔も洗った。そしてじっくりと鏡を見る。濡らしてしまえばごまかすことができるかと思ったが、眼がうっすらと赤いのはどうしようもない。たかが飼い猫一匹死んだくらいのことで泣いてしまうとは、我ながら予想外だった。
 溜息をつこうとしたが、押しこめた涙が溢れかけ慌てて堪えた。
 タオルで丁寧に顔を拭き、手を拭いた。もう一度鏡を睨みつける。眼はやはり赤い。それでも、許容範囲にしておこうか、と思った。今日は客が来るのだ。客と言っても母の友人が昼食を食べに来るだけだけれど、それでも、客は客である。客に変な顔は見せられない。小学六年生といえど、そのくらいのプライドはあった。
 深呼吸。
 鏡に向かって、紘臣は無理矢理に怒った顔を作った。
「卒業式前なんかに死んでんじゃねえ、バーカ。縁起でもないだろうが」
 芝居じみた台詞を無理矢理口にすると、少しだけ、楽になった。
 試しに笑ってみる。可愛げのない小学生が、こちらを睨みつけながら小憎らしく笑っていた。少なくとも泣いてはいない。
 ――良いことに、しよう。
 部屋に戻って、片付けをしなければならない。卒業する前に身辺整理をしておかないと、中学生の肩書が泣く。
 飼い猫が居なくなったのは、昨日だった。
 そして見つけたのは、今日だった。
 ひっそりと、「彼」は死んでいたのだ。ガレージの隅で。
 猫が姿を消した時点で、予想してしかるべきだったのかもしれない。否、紘臣とて予想していないわけではなかったのだ。ただ、自分が涙を流したことだけが予想外だった。――あ、オレ、こいつ好きだったんだな。
 声を上げずに泣きながら帰ると、両親が訳知り顔で待っていた。
 庭の隅に「彼」の墓をつくったのが、つい先程のことである。意地になって穴を掘りつづけたから、随分深いところに埋まったはずだ。きっとそのほうが、静かに眠れるだろう。
 ぼんやりとしながら、六年間使ったランドセルをひっくり返した。たかだか部屋の片付けに、身辺整理などという大仰な言葉を選んでしまったのも、もしかしたら猫のせいなのかもしれない。
 ランドセルをかきまわしながらも気持ちは凪いでいる。だがそれも、底から出てきたプリントに吹き飛ばされた。几帳面に二つ折りにされてはいるが、既に皺だらけの藁半紙に。
 一瞬沈黙して、
「しまった、忘れてた」
 思わず、呟いた。
 内容には見当がついていたが、念のため、皺を広げて確かめる。そして紙の上に視線を走らせ、ほうと息をついた。――予想通りだ。クラス委員長が手書きで作った、ポップなデザインのわりに事務的な内容のプリント。
「三月十九日、N公園(学校隣)でタイムカプセルをつくります。全員絶対参加! 来られない人は、思い出の品だけでも他の人にたのんでください。二時に手紙と品物を持って集合!」
 唐突に現実が返ってくる。
 ――危ないところだった。やはり卒業式前日の身辺整理はしておくものだ。その意味では「彼」には感謝すべきなのだろう。
 忘れていたのだ、綺麗さっぱりと。
 そういえば一ヶ月ほど前に、委員長が「卒業記念にタイムカプセルを作ろう」と言い出したのだったか。ここ数時間はそれどころではなかったのも事実だが、それ以前の時点でもきちんと記憶していたかどうか怪しい。プリントがランドセルの底で皺になっていたことから容易に知れる。
 ぐしゃり、と、藁半紙を握りつぶした。
 ――それにしても。
 八割がたは同じ中学校に通うというのに、思い出作りなどしてなにが楽しいというのだろうか。気持ちが荒んでいるせいなのか、思い出づくりという言葉がどうしようもなく胡散臭く聞こえる。そうは言っても、独りだけ参加しないというのはさすがに気がひけた。紘臣とてその程度の協調性はある。そうはいっても、二十歳の自分に宛てた手紙も書いていない。カプセルの中に入れる品物すら決めていない。
 結局忘れていたんじゃないか。頭を掻きながら、口には出さずに呟いた。
 時計を見ると、十一時半だった。二時間半あれば、いくらなんでもなんとかなるだろう。だが準備よりもむしろ、「手紙」用にと配られた便箋と封筒を捜すことのほうが難しいかもしれない。皺だらけのプリントを放りだし、とりあえず、机の引き出しから捜索を始めることにした。それが駄目ならキャビネットの中か。クロゼットか。それとも。
 ――あちこちひっくり返してようやく便箋と封筒とを見つけ、一息ついて机についたときには、既に三十分が経過していた。
 ボールペンを手に取る。さして考えることもせずに、便箋に適当に書きつけた。さっさとペンを置いて、一行にも満たない文を眺める。ある意味名文だ、と一人頷いて、次に封筒にも宛名を書く。それから便箋を丁寧に折って入れた。ふと思いついて、近くに置いてあった名札もつまんで入れておいた。思い出とやらにはちょうど良いだろう。――
 丁寧に糊付けをし、再度時計を見る。こちらは所要時間三分だった。
 妙な達成感を感じた自分はたぶん、救いようがないほど可愛げのない小学生なのだろう。社会に対して反抗期なんだよお前は、と、呆れながらいやに大人びた口調で言っていた悪友の顔をふと思い出した。だがそこまで大袈裟ではない、はずだ。たぶん。
 ――さて、「思い出の品」とやらはどうしようか。
 少し考えたが、やはり面倒になってあっさりと放棄した。だいたい、本当に思い出の詰まっているものなら、二十歳になるまで手放したままでいるということに耐えられないのではないだろうか。要らぬお節介を焼いてみるが、だからといって良いアイデアが浮かぶわけでもない。
 所在なく辺りを見回すと、あちこち散らかっている足元に、蓋が開いたままのランドセルが転がっていた。確か中には、国語と算数の教科書がまだ入っていたはずだ。それを思い浮かべると同時に、とりあえずそれで良いや、とあっさり決定する。そして、厄介な仕事がやっと片付いた、という妙な達成感をまた覚えた。――これは、いよいよ救いようがない。
 それにしても。
 算数の教科書を眺めながら思う。
 中学に入ったら、自分も「算数」ではなく「数学」を学ぶのだろうか。いつの間にオレはそんなに賢くなったんだろう。口には出さずにそう呟き、思わず独り笑った。なにがおかしいのかも解らなかったけれど。
 バッグの中に手紙と教科書とを押しこみ、ようやく一息ついた。
 そして要らぬことを――またも考える。
 明日、藤原紘臣は小学校を卒業する。けれどそれで、なにか変わるのだろうか。中学受験をしたのは少数派だ。ほとんどが、同じ公立中学校に進む。ただ人数が倍に増えて皆が同じ服を着るようになるだけの、なにも変わらない学校生活。タイムカプセルに「思い出」を封じることに、なにか意味はあるのだろうか。それでなにかが変わるのだろうか。それがなにか呼び起こすのだろうか。脳裏をよぎるのは、小さく丸まって冷たくなっていた猫の姿。
 わずか一行の手紙と教科書。
 オレは、なにを封じるつもりなんだろう。
 誰に、なにを。
 ――階段を上ってくる足音で、我に返った。振り返ると同時に、開けっ放しのドアから母が控えめに顔を出す。
「お昼にするよ。……落ち着いた?」
「あ、うん……昼メシなに?」
「スパゲティ。早くしてね、律子さんも来てるから」
 へえ、と、意味のない合いの手を入れた。
「もう来てるんだ?」
 反射的に頭に浮かんだのは、若い母親よりもその子供のほうだった。まるでそれを読んだかのように、母はにこりと笑って付け加える。
「そうそう。譲くんのことお願いね」
「……それ母さんが頼むことじゃないと思う」
「あら、あれであんたも結構頼りにされてるみたいよ。私は律子さんの代弁をしただけ」
「あ、そ。とりあえず了解」
「宜しい」
 ひらひらと手を振りながら返した気のない返事に、母はふふ、と安心したように笑って階段を下りていった。誰も見てなどいないのにわざとらしく溜息をついて、紘臣もようやく立ち上がる。子供のお守りか、と考えながらも、それをさして嫌がってもいない自分が意外でもあった。子供と付き合うのは、ある意味面倒ではない。自分も子供、だけれど。
 しかしそれにしても――なぜ、自分のような自他共に認める可愛げのない小学生が、一歳の子供に好かれるのだろうか。そういえば猫にも好かれていた。解らないというより、ここまで来ると理不尽ですらある。そう思っているのはどうやら紘臣だけではないらしく、親までもが揃って、変なこともあるものだと笑っている。もっとも律子にとっては紘臣の可愛げのなさなどどうでも良いようで、ただ、子供が年上の「お兄さん」に面倒を見てもらえている、ということが単純に嬉しいらしい。紘臣も子供は嫌いではないし、むしろ好きなほうだから、特になにも言わなかった。ただ気になるといえば、律子は無責任だ、とときどき思う。それこそ子供のお節介なのだろうけれど。
 階段を下りるにつれてミートスパゲティの匂いが濃くなり、思い出したようにくうと腹が鳴った。空腹は正直だ。家族が一匹死んだというのに。
 リビングに顔を出す。ソファの上で白い膝掛けを被って眠っている譲を尻目に――なんとなく拍子抜けした――まっすぐに、昼食の並ぶテーブルに向かった。キッチンで楽しそうに準備をしている母と隣人とに一瞬躊躇したが、既に席について新聞を広げている父と眼が合ってなぜかほっとした。反応を見るに、父のほうも同じ心境だったらしい。ずっとリビングに居たはずなのだから余計にそうだろう。
 じっと見つめていると、父が再度顔を上げた。
「なんだよ、ヒロ」
「別にー。腹減った」
 わざとらしく訝る父の言葉を、わざと子供っぽく言いながら流す。あとは沈黙だった。たぶん思い出していたのは、二人とも同じことだったのだろうと思う。つい先程の、寒い庭の片隅。
 ――まだ掘るのか?
 ――うん。
 ――もういいだろう……どこまで掘るんだ?
 ――……解んない。
 笑い声を聞いて、我に返る。母と律子とが連れ立ってキッチンから出てきていた。
「お待たせー。あ、ヒロも来たね」
「お邪魔してます、紘臣君」
「……こんにちは」
 にこりと笑う律子の表情は、いつもやたらと楽しそうな譲にそっくりだった。
「律子さん、譲くんのことは良いのかい」
 新聞をたたみながら、父はコップを並べる律子に訊いた。一瞬きょとんとして、彼女は母と顔を見合わせ、くすくす、と笑った。そういえば、隣の席の女子がよくこんな風に笑う。
 律子の視線がついと動いて、紘臣よりも向こう側を見た。
「大丈夫です、いま寝たとこなので……」
「ヒロと違って寝つきが良いからね。羨ましいわ」
 笑って自分の席に着きながらおどける母に、紘臣はむすっとしながら内心呟いた。――いつの話だよ、それ。口にしようとした途端、自分以外の全員が「いただきます」と言うのを聞いて慌てて態勢を立て直す。小学生を放っておくとは酷い大人たちだ。どうせ放っておくのなら食事中にしておいてほしい。
 どうも苦手なのだ、この手の雰囲気が。
 大人三人、子供が一人、赤ん坊が一人。譲の世話係と化してしまっているのも、一つはたぶん、この空気から逃げるためなのだろう。大人の世界も赤ん坊の世界も、紘臣には理解できないという点では確かに同じだ。同じだけれど、居心地が微妙に違う。
 和やかな食卓の会話は、それが当然であるかのごとく、紘臣の話に向かっていく。明日に迫った、紘臣の卒業式の話に。――ただし、それはあくまで「大人」から見た「紘臣」の話だ。たぶん彼らのほうでも、紘臣が猛然とスパゲティを頬張りながら発している雰囲気に気づいているのだろう。話をこちらに振らないでいてくれるのはむしろありがたかった。それでも、それなら初めからオレの話なんかするな、と思わないでもない。が、その手の我儘はウーロン茶と一緒に飲みこんだ。電車代程度には、大人にならないと。
「ごちそうさま」
「はいはい、お粗末サマ」
 早々と席を立って自分の食器を下げる紘臣に、母がのんびりとかけるお決まりの文句。一拍遅れて、律子と母とがくすくす笑ったのが聞こえた。楽しそうでなにより――オレの分まで。後ろから聞こえるのは、主に律子と母の声だ。それに時折、思い出したように父が混じる。父はまた居たたまれなくなっているのかもしれない。後ろめたい気がしないでもなかったが、ガンバレガンバレ、と心中で無責任に言い放ち、今度は紘臣が、母たちと同じ種類の笑いを漏らした。久しぶりに笑えたような気がする。
 さて、予定の時間まであとどのくらいあるか――。そんなことを考えながらリビングを横切ったとき、視界の隅で、白いものがもそもそと動いた。
 視線を送る。
 膝掛けにくるまったまま、ソファの上で危なっかしく蠢いていたのは、予想通り小さな子供だった。いつの間に目覚めていたのだろうか。それにしても、起きたばかりだというのに元気よく動いているものだ――寝起きの悪い身としては羨ましい。
 落ちそうで落ちない、微妙なバランスを保って、譲をくるみこんだ布が動いている。
 ――落ちたりしないだろうな。絡まって窒息したりしないだろうな。
 母親たる律子は、譲のことを綺麗に忘れて楽しくお喋りに興じている。それを横目に見ながら立ち止まると、それを待っていたかのように、白い布の中から小さな顔がぴょこんと覗いた。
 ぷっくりとした白い顔が、紘臣を見る。
 見つめ返す紘臣に向かって、譲は、あー、と、嬉しそうに声をあげた。
「ひぃにぃ」
「どーも」
 とりあえず、返事をする。ヒロ兄、と言いたいのだろう、たぶん。大きな声で舌足らずに呼びかけられ、自然と表情が穏やかになった。
 譲は楽しそうに笑った。そして小さな両手を広げて紘臣のほうに腕を伸ばし、
「危なッ――」
 ソファからずり落ちて、
 冷たいフローリングが、
 紘臣が手をのばして、
 譲はきょとんとしていて、
 また膝掛けに絡まって、
 ずるり、と、
 ――そのまま無事に、床の上に着地した。
 母と律子との笑い声が、止んだ。
 紘臣はたぶん、驚愕と心配と不安と空白とをごちゃまぜにした表情を貼りつけて、中途半端に腕を伸ばして硬直していた。
 なにが起こったのか解っていなかったのかもしれない。譲が、あるいは律子が。もしかしたら紘臣が。
「ひぃにぃー」
「どうしたの?」
 懸命な譲の声に、母の言葉が被さる。それでようやく紘臣も我に返った。
 振り返ると、三人の大人がじっと紘臣に注目していた。
 視線を元に戻すと、きょとんとした、けれどどこか心配そうな、無垢なまなざし。
 気まずさを覚えた。
「いや……なんでもないよ。譲くんがソファから落ちかけたけど……いや、落ちたは落ちたんだけど、この子なかなかの技術でナニゴトもなかった」
「ナニゴトもってあんた……」
「良いんですよ、江美香さん」
 ほんのわずかに眉をひそめる母に、律子が手を振りながら軽い調子で言う。でも、とそれでも遮った母はたぶん、紘臣と同じことを考えていたのだろう。
 律子は、なぜか楽しそうな笑みを浮かべて譲を見た。苦笑い、だったのかもしれなかったけれど。そうは見えなかったからたぶん同じことだった。
「家に居るときにもよく落ちるんです。確かになかなかの技術者ですよ、この子は。だから紘臣君、気にしないでね」
「あ、……はい」
 しどろもどろになりながら応えると、律子はにこり、と笑って、何事もなかったかのように席に向き直った。律子おばさん、と呼びかけようとした言葉は、なぜだか喉で引っかかってそのまま抑圧される。律子は結局、席を立つことすらしなかった。
 たぶん一瞬、その場の時間は止まったのだと思う。
 かちゃりと、思い出したように食器の音がした。それを合図に、譲が再び行動を開始する。そこまできてようやく、ぎこちない空気が緩やかに動きだした。大人たちの会話が再開され、間もなく、笑い声が聞こえはじめた。
 溜息をついた。呼吸をするのも遠慮していたのかもしれない。同時に、にぱっ、と、譲が紘臣に向かって無邪気に笑いかける。それを見てようやく、紘臣も少しだけ笑った。――のんきだなあ、こいつ。それとも自分が変に気を回しすぎているのだろうか。
 思い出したようにしゃがみこんで譲と目線を合わせると、ごそごそ動いていた譲が、やっと膝掛けの中から脱出に成功した。得意げにこちらを見上げてくる彼に、笑いながら手を叩いてみせる。
「オーケー、良くやったね」
「やったー」
 紘臣の言葉に復唱で応え、譲は危なっかしく立ち上がった。――足に引っ掛からないように、膝掛けを端に寄せてやる。小学生の小さな配慮を知ってか知らずか、小さな子供はとたとたと歩きだした。歩くスピードが速いほうがかえって危なっかしく感じるものだが、歩いているほうは、そんなことにはお構いなしだ。
 膝掛けを適当に畳んでソファの上に放り出す。同時にまた、名を呼ばれた。
「ひぃにぃー」
「ん? どした」
 見ると、小さな人指し指が窓を指している。窓の外は白く曇って、お世辞にも良い天気とは言いがたかった。そういえば、もう一時間もすれば出かけなければならないのだ。見るからに寒そうな風景に、一気に気が萎える。萎えたところで、委員長以下やる気満々のクラスメイトの計画を変えさせることは不可能なのだけれど。
「そと」
 譲が紘臣をまっすぐ見て、言った。
「外?」
 紘臣は言って、再び窓の外を見た。二度見たからといって風景が変わっているはずもなく、ただ白く曇っているだけだ。今は本当に三月なのだろうか。
 視線を戻すと、窓に近づいて、レースカーテンごとぺたりと窓に貼りついている譲の姿が見てとれた。それでようやく紘臣は、ああ、と呟いた。
「外、出たいのか?」
「そと」
 身体ごとこちらを振り返った譲は、例の笑顔でまた言った。
 思わず、肩をすくめる。
「物好きだな。外、寒いぞ?」
「たむい?」
「寒いよ。それは保証する」
 言っているだけでも鳥肌が立つような気がして、紘臣は無意識のうちに腕を擦った。三月も半ばとはいえ、今年の冬は寒さが厳しい。一時よりも随分緩んだが、まだコートが手放せなかった。明日の卒業式が思いやられる。だが、それも今更のことだろう。
 譲は、丸い眼で紘臣を見ていた。
 紘臣は――もう一度肩をすくめて、立ちあがった。とりあえず、窓でも開けてやるか。考えたことはごくごく簡単なことだったが、それを実行するには、たぶん凄まじい精神力が必要だ。
 譲の隣まで歩いていって、窓の傍に立つ。鍵に手をかけながら何気なく譲を見ると、思ったよりも小さいことに驚かされた。――オレも、こんなんだったのかなあ。
 なるべく冷気が室内に入らないように、カーテンを引いた。それを面白がっているのか、譲は自分から嬉しそうにカーテンの中へもぐりこんでいった。こういう仕草なら覚えがある。紘臣も小さい頃、カーテンにくるまって遊んで、よく母に怒られたものだった。そう思ってみると、譲に続いてカーテンと窓の隙間にもぐりこむのが妙に懐かしかった。
 見下ろすと、眼が合った。いつものように笑っている顔が共犯者じみて見えたのは、それは、紘臣の思いこみなのだろうけれど。
「っしゃ、開けるか」
「るー」
 小さく呼びかけると、譲の歓声も小さくなった。面白くなって、紘臣はふふ、と笑った。もしかしたら、こちらの笑みこそ共犯者の笑みだったのかもしれない。
 窓に手をかけて、引いた。
 冷気。
 期待に満ちあふれた表情で、譲は身を乗りだした。
 瞬間――
 どこかで、犬が激しく吠えた。

 身を乗りだした譲が眼を見開くのを、見たような気がした。
 バランスを崩すのを。
 犬が吠えている。吠え続けている。それ以外は無音だった。時間の流れが酷く遅かった。
 譲の眼が虚空を見ていた。
 ――ひぃにぃ。
 窓の真下には石段があって、サンダルが並んでいる。それが、見えていなかったのかもしれなかった。無根拠に、大丈夫だと思ったのかもしれなかった。
 だから、手のひとつも差しのべなかったのかもしれなかった。

 なにか鈍い音がした。
 それも聞かなかったのかもしれなかった。


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