自白剤

1 現在


 嫌味なほどに晴れわたった、どこか平面的な空だった。
 住宅街の上に広がる空を、ぼんやりと眺めながらぼんやりと歩く。しかし真正面から冷たい風に襲われ、紘臣[ひろおみ]は慌ててコートの襟を掻きあわせた。いくら晴れてい るといっても、真冬であることには変わりない。暦の上ではもう春らしいが、冬将軍殿はいつまで居座るつもりなのだろうか――馬鹿なことを考えると、寒さが余計に身に沁みる。冷たい風に冴えた意識が、欠点をつけられたレポートのことを思い出させてさらにげんなりとした。真面目にやらないと、今度こそ単位が危ないかもしれない。その自覚はないではなかったが、今ひとつ危機感には乏しかった。白い溜息をついたのは、ただ倦怠感のせいだ。
 きゅっ、と首を縮めて曲がり角を曲がる。あと三十秒も歩けば、暖かい家に着けるのだ。熱いコーヒーでも飲みたい。自然と歩みも速くなる。
 そして何気なく顔を上げ、
 ――目を、瞬かせた。
 目の前に居座る、直方体の大きな影に。
 無意識のうちに、歩みを止める。視界に入ったそれの正体を見極められるようになるまでには、更に数秒を要した。
「あ」
 呟きが漏れる。
 ――トラック、だ。
 引越社の、巨大なトラック。
 自宅の前に――否、そんなはずはない。隣家だ。隣家の前に、それはしっかりと陣取っていた。運搬作業はもう終わったのか、それともまだ始まっていないのか、とにかく辺りはしんとしている。
 木枯らし。
 紘臣は更に首を縮め、意識的にトラックから視線を逸らした。脳裏に、いつもどこか悲しそうな顔をしている隣人夫妻の顔が鮮明に浮かぶ。消え入りそうな微笑まで、くっきりと。
 無意識のうちに駆け出していた。家の前まで辿り着くや否や、体当たりのように門扉を開ける。手袋を外してポケットを探り、小さな庭を大股で突っきり、かじかんだ手で鍵をドアに挿しこんで回し、細く開けた隙間から中に滑りこむ。暖かい空気に包まれてようやく――つめていた息を吐き出した。そして同時にふ、と苦笑する。馬鹿じゃないか、俺。
 一呼吸おく。
 それでようやく落ち着いた。
 洗面所で丁寧に手を洗った。丁寧にというよりはむしろ、徹底的に。そして丹念に手を拭いてから、ひょいとリビングに顔を出す。ソファに座ってなにかを読んでいる母親に、声をかけた。
「ただいま」
「ん、お帰り。早かったね?」
「最後休講だった。……金欠だから大して遊べないし」
 言うと、母はからりと笑った。冗談を言ったつもりはなかったのだが、つられるようにして曖昧に笑う。「大学生」とは「万年金欠」の代名詞になりうるというのが持論だった。アルバイト代の振り込みは、生憎とまだしばらく先だ。
 ふと、母が広げているものが気になった。冊子だろうか。立ち位置を変えて覗きこんでみても、写っている写真がなんなのかはよく判らなかった。箱――にしか、見えない。
「なに見てんの?」
 得体の知れないモノを買われてはかなわない、と思ったのかもしれない。いつもより声の調子がきついな、と、言ってしまってから後悔した。
 振り返った母はきょとんとして、手にした薄いカタログを示した。
「これ? 物置だけど」
「……物置?」
 鸚鵡返し。
 そうそう、と、母は溜息交じりにカタログに視線を落とした。
「どうも最近ガタがきててね。まだいけるかと思ったんだけど……どうもね、危なくって。でも踏ん切りはまだつかなくって」
「やめとけよ」
 無意識のうちに口にした言葉に、母が驚いたように顔を上げた。声が――大きい。思わず息を止めたが既に遅かった。やりすぎたか。高々物置ひとつ。別に、得体の知れないものでもないというのに。
 急に鼓動が速くなって、手で胸を押さえた。
 母がこちらを見て瞬きをしている。
 ひどく、気まずさを覚えた。
 手を、放す。
「……やめとけって。ただの箱じゃん」
 結局呟いたのは、先程の繰り返しだった。ただの箱はただの箱のまま、放置しておくに限る。
「そうかな」
 母は、釈然としない表情でカタログに視線を落とした。なんだかんだ言っても結局は買い替えたいのかもしれない。ただの、箱なのに。
「――ところで母さん、佐伯さんとこ引越し?」
 話題を変えようと絞り出した言葉の内容に、再度息を止めた。
「そうそう、昨日挨拶に見えてね」
 母は手を止め、再度紘臣を見た。いつもどおりののんびりした表情。今度は、確かにいつもどおりだ。
「急だったから私もびっくりしたんだけど。朝から作業してたみたいね、そういえば」
「……ああ、家の前にでかいトラック停まっててびっくりした」
「そう」
 ふ、と。
「……律子さんも居なくなると、寂しくなるね」
 母は、寂しそうに微笑した。そして思い出したようにカレンダーを見る。かすかに、頷いたのが見えた。なにかに納得したかのように。
 紘臣は黙っていた。一時の動揺が嘘のようだった。
 ――物心ついた頃から、隣家の住人は佐伯夫妻だった。妻の律子は確か母より随分若かったはずだが、傍から見れば同い年も同然だった。そして、彼女は母よりもずっと寂しそうな顔をしていた。母とはかなり親しくしていたが、並ぶと余計にそう見えたのだ。少女のように笑っていた顔もいくつか浮かびはするのだが、今ではすっかり霞んでしまっている気がする。夫のほうはあまり見かけたことがなかったが、ときどき見かける姿は溌剌として、――否。どうなのだろう。やはり、寂しそうな笑いかたをするひとだった。少なくとも紘臣には、そう見えた。
 寂しそうに笑う佐伯夫妻から眼を逸らしつづけていたのは、子供心に、なにか痛々しいものを感じていたからなのかもしれない。子供と呼ばれる時期を過ぎた今になっても、彼らを直視することができずにいる。それもまた罪悪感を助長して、結局は堂々巡りになってしまうのだ。
「あ、そうそう」
 思い出したような声で、紘臣は我に返った。母がこちらを見ている。
「小包来てたよ。部屋の前に置いといたけど」
「小包?」
「そうそう。吉永深雪さん、だったかな」
「よしなが? ……どっかで聞いた名前だな」
 当たり前のように呟きながら、ふと思う。――なんで差出人まで憶えてるんだ。それとなく母の顔色を窺ってみると、妙に愉しそうな顔をしていた。野次馬の顔だ。中学生のとき初めてバレンタインチョコレートを貰ってきたときと、同じ顔。所謂義理チョコだと言い訳のように告げても、いやに嬉しそうだった。薄々感じてはいたがやはりこういう母なのだ、と悟ったのは、たぶんあのときが最初だっただろう。あるいは諦めたのは。
 溜息をつくのも疲れた。
「……解った、見とくよ」
「頑張ってね」
 よく解らない晴れやかな笑顔と言葉とを背中で受けながら、紘臣はリビングに背を向けた。荷物が重く感じるのは気のせいだろうか。
 そして階段を上る。
 背を向けたリビングで母がひとつ、哀しげな溜息をついた。それを聞いたのかもしれないし、聞かなかったのかもしれない。
 それにしても、だ。
 吉永深雪――誰だっただろうか。
 よしながみゆき。聞き覚えがある。吉永深雪。字は浮かぶ。知ってはいるのだろう。小包が届く。知りあいなのだろう。けれど顔は浮かばない。ましてや自分との関係などさっぱり思い出せない。けれど、自分が彼女を知っているということは知っている。正確には、辛うじて憶えている。不毛な思考をぐるぐると巡らせながら部屋の前に辿りついてようやく、無防備に開け放たれた部屋の前に居座る小包を見つけた。
 取り上げてみると、小包と言うより分厚い封筒だった。小ぢんまりとした女の字で書かれた「藤原紘臣様」の文字が違和感を誘う。自分の名が、こんな筆跡で書かれることなどまずないのだ。返すと同じ字で、「吉永深雪」と書いてある。こちらのほうがよほどしっくりとくる。
 字面をしげしげと眺め、
 ――生真面目そうな眼鏡とショートカット――大人しそうな見た目に反して男子児童顔負けの気の強さを誇ったあの少女――
「委員長?」
 脳裏を過ぎった少女の顔には、確かに見覚えがあった。
 過ぎった像を手放さないように注意しながら急いで部屋に入り、荷物を放り出すと、コートを脱ぐのも忘れて鋏を取った。封を切り、中に手を突っこんで引き出す。
 目に飛びこんできた文字は、「新しい算数」だった。
 ――教科書?
「なんだ?」
 呟いて、たっぷり五秒間、沈黙した。
 手の上には、透明なビニール袋に入った教科書が二冊。一冊が算数だということは、その下敷きになっているもう一冊は国語だろう。確か、そうだったはずだ。
 曖昧な確信を抱いたまま、袋入りの教科書をひとまず机の上に置く。改めて封筒をひっくり返すと、薄い封筒が一枚舞って足元に落ちた。次いで、こん、と、かすかな音。見下ろすと、事務的で無愛想な茶封筒が落ちていた。今度は手紙らしい。そしてその脇に、小さな鍵。
 茶封筒のほうに、深雪の字で同じく「藤原紘臣様」と書かれているのを認め、とりあえず鍵は無視してそちらを手に取った。
 中に入っていたのは、白地に罫線だけが赤い、シンプルな便箋だった。

 藤原紘臣様
 こんにちは、N小学校六年一組卒業生の吉永深雪です。八年ぶりですがお元気ですか? 藤原君は、夏も冬も「涼しい」顔をしていたイメージがあるのですが……今年は寒いので、さすがの藤原君も寒がっているかなと馬鹿な話をしている今日この頃です。
 さて、本題。去る一月三十日、恩師津村先生をお招きして、クラスの同窓会を開きました。招待状はお送りしましたが、藤原君が来られず残念です。(上垣君が相当つまらながってたよ?)でも、二十歳の新成人が小学生のノリで盛り上がり、なかなかの見もので楽しい会になりました。
 さて、招待状でもお話ししましたが、卒業するときにつくったタイムカプセルを、その時に開封しました。というわけで、藤原君の分の「思い出の品」と「自分への手紙」をお送りします。教科書と、あと多分、なにかの鍵だと思います。鍵には名札がついてなかったので、誰のものか判らなかったのですが、件の上垣君が「藤原のだ」と教えてくれたので同封します。
 用件のみで失礼しました。寒いですが風邪に気をつけてくださいね。
 それでは。
同窓会幹事 吉永深雪
 追伸――次の同窓会には来てくれると嬉しいです。

 思い出した。
 そうかそういうことか、と、紘臣は口に出さずに呟いた。そういえば十二月の頭にも、深雪から葉書が届いていたような気がする。あのときは自分でポストから取ったので、母に面白がられずに済んだのだと、そんなどうでも良いことまで思い出した。確かにそれは、同窓会の報せだったように思う。面倒だったので参加しなかったのだが、それにしても――葉書のことを忘れていただけならまだしも、吉永深雪の名まで忘れているとは、我ながらなかなかの記憶力だと思う。
 頭を少し掻き、今度は口に出す。――そう、タイムカプセルだ。
 卒業室の前日、校庭にクラス全員が集まって作ったタイムカプセル。二十歳になったら開けようと誓ったお決まりのものだ。しかし存在すら忘れていた。今に至ってすら、それを作った前後のことさえ思い出せない。ただ、作ったということは確かだ。それはなんとか憶えているし、現に目の前に品物がある。軽い胸騒ぎも、感じている。
 改めて、机上のビニール袋を見た。かすかに黄ばんだ白い表紙が、ある種の郷愁のようなものを感じさせる、と言えないこともなかった。袋を破いて中身を出し、試しに算数の教科書をぱらぱらとめくってみる。しかし何ページも繰らないうちに、苦笑していた。教科書の使いかたからして相変わらずだ。あちこち生真面目にマーカーの線が引いてあるが、紘臣はちゃんと憶えている。それは引いただけの線だ。そのくせ章末問題だけはいやにしっかりやりこんであって、八年たっても小綺麗なままの教科書の、その部分だけがよれていた。国語もたぶん似たようなものだろうが、章末問題などないからよく判らないかもしれない。ただただ綺麗なだけだろう。
 国語の教科書にも手を伸ばしかけたが、途中で手を止める。二冊の教科書の間に、白い封筒が挟まっていた。深雪のものとは違うらしい。
 汚いというより雑な字で、宛名が書かれていた。お決まりの「藤原紘臣様」だ。但し上に「二十歳の」とついている。雑な字であるにも関わらず、生真面目に「歳」の字を使っているあたり、我ながら可愛げがない。もっとも、あっても気味が悪いだけだけれど。
 封を切ると、横書きの便箋が一枚入っていた。しかしほとんど真っ白に近い。

 ハイケイ、二十歳のオレ。
 がんばれ。

 おまけのように、白い名札が入っていた。白地に黒で「藤原」とだけ書かれた、これもこれで素っ気ない無愛想な名札。小学校では全員が同じものをつけていたのだから、無愛想さに関しては、紘臣の性格とは関係がないはずなのだが。
 空いているほうの手で名札を摘みあげてしげしげと眺め、もう一度手紙を眺める。――そして思わず、吹きだした。
 何気なく足の位置を動かした途端、足の裏に鈍い痛みが走った。
「つっ」
 顔をしかめて見下ろすと、小さな鍵が落ちていた。小さな、華奢な、役に立つのか立たないのか判らないような鍵。それが、深雪からの郵便に同封されていたものだと気づくまでに数秒を要した。
 思い出したように摘みあげた。
 ――鍵には名札がついてなかったので、誰のものか判らなかったのですが、件の上垣君が「藤原のだよ」と教えてくれたので同封します。
 深雪の手紙の一文が過ぎったが、ためつすがめつ眺めても、自分のものであるとは思えなかった。
 厄介なものを押しつけられた、と思う。処理のしようがないではないか。
 いい加減なこと言いやがって、アイツ覚えてろよ――。思ってはみるものの、頭に浮かぶ悪友の顔は、中学の制服を着ているものまでが限界だった。高校も大学も違う。記憶の中の上垣賢作の顔は子供以外の何者でもなく、いまひとつ迫力に欠ける。その子供の顔をしばらくあれこれとこねまわしてみたが、どうにも無意味らしかった。
 溜息をついてみたが、不思議と不快ではなかった。
 懐かしい、などという感情に浸るような柄ではなかったはずだが、半ば強制的に、八年前に連れ出されてしまったかのような感がある。そしてそれを妙に心地良いと感じていることも、また事実だった。自分もなかなか捨てたもんじゃない、と、またどうでも良いところに感心する。終始にやついているような気がして、どうも自分でも気味が悪かった。
 気味悪いついでに――そうだ。懐かしさに便乗して、卒業アルバムでも見てみようか。
 そんな連想が働いた自分自身に再び苦笑した。ここまで来たら、もうとことん思い出の魔力とやらに侵されてしまったほうが良いのかもしれない。「らしくない」ことは、まとめて済ませてしまうに限る。昔の写真を教科書と並べて見たら、きっと面白いだろう。賢作の現在の顔を想像する手掛かりになると良いのだが。
 いやに弾んだ気分だった。いつもとは違う思考回路が機能しているらしい。アルバムはどこに仕舞っただろうか。場所が思い出せない。が、物置に入っているような気がする。
 ――善は急げ、だ。
 部屋を出ようとして、ふと気づく。まだコートを着たままだ。バッグも床の上に放り出してある。
 立ち止まって、しばし沈黙した。
 二十歳の新成人が小学生のノリで――深雪からの手紙の一節が掠めた。
 しばらく棒立ちする。やがて、苦笑して肩をすくめた。――なんだ、俺もか。

 コートを脱ぎ荷物を片づけてから階段を下りると、先程と同じように母が座っていた。ただ、物置のカタログはどこかに消えていた。代わりに洗濯物を畳みはじめているらしい。
 眼が合うと同時に先手を打ち、問わず語りに語りだす。訊かれてから答えるほうがよほど面倒だった。
「タイムカプセルだったよ。ほら、小学生のとき作ったやつ。吉永が同窓会の幹事だって」
「あら、わざわざ送ってきてくれたの?」
 母が眼を丸くしている。
「ああ……行かなかっただろ、俺」
「いや、それは知らないけど。でもあんたってそういう子だわ」
 母はまたからりと笑い、紘臣はまた曖昧に笑った。そのまま黙って部屋を横切り、窓を開ける。外気に触れた瞬間、外に出るのをためらったが、ほとんど意地になってサンダルをつっかけた。外に出るや否や後ろ手に窓を閉めたのは、母への配慮というよりは無意識の動作だった。
 身震い。
 溜息をつくと、目の前が一瞬白く煙った。
 コートなしでは寒さが一層厳しく感じられる。コートを部屋で脱いできたのは、もしかしたら馬鹿だったのかもしれない。もっとも馬鹿だと言うならば、柄にもなく思い出とやらに誘われて、ふらふらと小学校の卒業アルバムなど捜そうとしている、この行為そのものがある意味相当に愚かしい。
 良いじゃないか、たまにはとことん柄でもないことをしてやろう――。半ばは言い訳をし、半ばは開き直りながら物置の引き戸に手をかけようとして、
 止めた。
 二枚の引き戸が交差する鍵穴に、引っ掻き傷がついている。ついている位置は、鍵穴を中心としてはいるがあちこち滅茶苦茶だ。それはまるで、こじ開けようとでもしたかのような。
 それにしても随分古い。
 ――こんなものあっただろうか?
 考えかけたが、ふと気づいてやめた。そもそも紘臣は、ほとんど物置に近づかない。その必要もない。否。避けていた、のか?
 ――それならなぜ、物置にアルバムを捜しに来たのだろう。
 小学校のアルバム。
 アルバムを物置に入れた、ということは知識として知っている。より正確に言うのなら、アルバムが物置に入っている、ということは。しかし、入れたときの記憶がないのだ。入れたのは、封じたのは、誰だっただろう。どこで聞いたのだろう、そんな話を。
 物置の買い替え。過剰反応。タイムカプセル。胸騒ぎ。小学六年生。
 なにか妙だ、と、本能的に思った。
 古傷のついた鍵穴をじっと見つめる。小さな、黒い、細長い、穴。
 北風が痛い。
 ――あれも、寒い日のことだった。
 ある一瞬、なにかが脳裏を過ぎった。
 ――あれは、風の強い日のことだった。

 激しい頭痛と酷い眩暈に襲われて、息を止めた。

 咄嗟に一歩退く。
 勝手に見開かれた眼が、意志とは無関係に物置を見つめている。視線を引き剥がそうとしても無駄だった。なにかを言おうとすると、歯がかたかたと鳴った。寒さのせいか。そうであってほしかった。
 あれは、――あれは、俺が?
 冷や汗。
 冷たい。風が冷たい。
 ――知らない。
 そんな。
 ソンナコトハ無カッタハズダ。
 身体が心臓になったかのような。
 ――あれは、
 冷たい風が鋭く斬りつける。
 反射的に踵を返す。窓を乱暴に開け放ち、そして家の中を転げるように走った。
「――ヒロ?」
 母の声が聞こえない。
 目指しているのは、頭の中にあるのは、自室の机。
 封筒の中の、あの小さな鍵。


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