gradation

fin


 冷たい風が頬を撫でるのに気がついて、私は思わず布団を頭からかぶりなおした。しかし布団の中にもぐりこむと同時にベッドから滑り落ち――結果、冷えきったカーペットの上に墜落する羽目になる。
「寒ッ……」
 思わずうめいた。どうやらずいぶんと端に寄って寝ていたらしい。寝相が悪いのは私なのだから、自業自得といえば確かにその通りである。
 転落の痛みよりも寒さのほうがつらい。布団を半分背負ったままでしばらくじっとしていたが、冷たい風に耐えられなくなってようやく身を起こした。枕もとの目覚まし時計に目をやると、いくら平日とはいえ起きるには早すぎる時間だった。――あと三十分は寝られる。布団と自分とをベッドの上に戻そうと起き上がると、また冷たい風が吹きぬけた。
 一度身震いして風の吹くほうを見る。――見て、一瞬思考回路が凍結した。
 ――うわ、信じらんない。窓開けて寝てたの?
 唖然とする私を嘲笑うかのように、窓にかけたピンク色のカーテンが風に揺れる。寝癖だらけの髪も余計に乱される。乾燥した冷たい風は、少々強く吹きつけるだけで皮膚が切れそうに痛かった。マンションの八階ともなると、地上よりも風が冷たく強いような気がする。確かめたこともないけれど。
 布団ごと転落した私は、ぼさぼさの頭のままで窓際まで這っていく。我ながら朝から惨めなことだ。二度寝の誘惑はまだしぶとく残っていたが、この調子ではちゃんと起きてしまったほうがかえってすっきりするかもしれない。熱いカフェオレでも飲みたい気分だった。
 窓際まで這ってようやく立ち上がり、思いきり顔をしかめながら窓を閉める。それでようやく安心した。――悔しいが、これで完全に目が覚めた。ここまで寒いと寝ている場合ではないような気がしてしまう。まさか凍死はしないだろうけれど。
 目が覚めた、と思った傍からあくびが出る。
 目をこすりながら、私は滅茶苦茶になったベッドを整えた。まだほんのりと温かいそこに腰掛け、しばしぼんやりとする。朝からぼんやりとする時間があるというのもなかなか贅沢なことだ。早起きも悪くない。
 ぶるっ、と一度身震いする。パジャマ一枚ではやはり寒い。
 ヒーターでもつけようかな、と思ったそのとき、――開け放したドアのあたりで黒いものがうごめいた。反射的に視線をそちらに動かすと、なんということもない、愛猫のカンナが部屋の前にうずくまっているというだけのことだった。
 拍子抜けして、思わず笑った。
「おはよ、カンナ」
 声をかけると、聞こえたのだろうか、カンナは敏感に反応して顔を上げ、私を見た。眼が合い、しばらく中途半端に沈黙してから、「彼女」はにゃあと間延びした声をあげた。そして、遠慮なく部屋の中に入ってくる。
 私の足元で立ち止まり、「彼女」はまた私を見上げた。猫と眼が合う、というのもなんだか妙な気分になる。
「どーしたの、カンナ。私だって早起きくらいするんだよ」
 朝いちばんに話しかけた相手が猫というのもかなり妙だ。猫相手に会話しながら一人でそんなことを思った。
 カンナは――不意に、私から視線を逸らした。
 なんだか面白くなって、私はカンナを見つめていた。
 やがて「彼女」はくるりと顔だけで器用に部屋の中を振り返った。そしてしばらくそのままでいたが――不意に、ひらりとベッドの上に飛び乗った。
「あ、ちょっと……」
 慌てて言うがもう遅い。カンナは当たり前のように私のベッドの上を横断し、壁際で小さく丸くなった。完全に眠る体勢である。よく、母の膝の上でそうするような。
「ちょっと、布団汚れるじゃん」
 思わず、私はカンナを抱き上げた。冷えきった空気の中、「彼女」の身体はほんのりと温かくてなんだか気持ちが良い。
 どこか抗議するように、カンナはにゃあとまた鳴いた。けれど丸くなることさえできればどこでも良いのか、やがて私の腕の中で小さく丸くなる。ペットは飼い主に似るというのは本当らしい――母の顔を思い浮かべながら思った。
 ふと、先程カンナが丸くなりかけていた場所を見る。
 ――ひどく端に寄って寝ていた私。開けっ放しの窓。それから、カンナが丸くなった場所。
 なにかとても大切なことを忘れているような気がしたけれど、それがなんなのかはわからなかった。
 冷たい風が窓を鳴らす。
 それでふと我に返ると、私はカンナを抱いたまま、ヒーターをつけようと立ちあがった。

《了》


  top