CASTING FILE

5.珠洲


 相棒が身辺整理をしている。
 一種の異動なのだからてっきり身の回りのものをまとめて持っていくのかと思っていたが、そうでもないらしい。持っていくためではなく置いていくために、不要なものを捨てていく。
 デスクの周りを動き回る猫背を、珠洲はソファの背凭れを片腕で抱えて眺めている。身体を捻る姿勢は快適とは言いがたかったが、素直に座ると谷中に背を向ける姿勢になってしまう以上、こうしているより他に策はなかった。
 小柄で痩せ形、薄くなりかけた髪は短く切りそろえている。特徴だけ列挙してみると冴えない中年男にすぎないのに、実際に仕事をしてみると、不思議なほど安心感のある班長だった。
「なーんかやだなぁ、まるで死ぬみたいじゃない」
「可笑しなことを言う奴だな」
 口を尖らせると、谷中の横顔がいつもの苦笑を見せた。
「別にまだ死にゃしねえし、もう死んでるっちゃ死んでる」
「それはそうだけどね」
「異動ってのはそんなもんさ」
 妙な重みの言葉で応じて、谷中はマーカーの試し書きをする。インクが掠れたそれを、躊躇なく気軽にごみ箱へ放った。
「自分の目の前からは居なくなって、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。でもそいつは間違いなくまだ存在してる。ときどきそいつの名前が書かれた書類が回ってきて、あああいつはまだ元気でやってるんだな、って思う。異動ってのはそんなもんなんだよ」
「……おじさんがそういうこと言うと妙に説得力あるよね」
「喧しいわ、お前も良い歳して」
 くく、と喉にかかったような声で笑う。珠洲は谷中から眼を、逸らした。背凭れに顎を乗せる。異動くらいでぴいぴい泣くほど若くはないし、そもそも別に寂しいわけでも悲しいわけでもないのだが、そうはいってもただの異動とはわけが違う。どう見送って良いのか決めかねているのもまた事実だった。昇進なのだから、素直に祝えば良いのだけれど。
 だから話を変えた。
「さっちゃん、人事決めたって?」
「おう」
 突然の話題にも動じることなく応じたのは、さすがに班長の器というべきか。
「教えてはくれないんだよね」
「そりゃな、新班長直々に通知があるだろうよ。楽しみだ」
 先程、この執務室に皐月がやってきた。だから珠洲は席を外した。珠洲の意思でというより、そうするのが自然だと思ったからだ。旧班長と新班長との会話に、旧班長の相棒など横槍でしかない。珠洲の意思だけを言うのならば、ぜひとも同席して一から十まで聞いていたかったのだけれど。
 抽斗の奥から、皺になった書類が次から次へと出てくる。初めは一枚ずつ広げて中身を確認していたが、それにも飽きたのかそのまま屑紙入れの段ボールに直行させられていく。
「着々と準備が整ってくんだね。異動、いつだっけ?」
「もう一週間切ったな。……あとは現場のお前たちの活躍どころだよ。お前いつも言ってんだろ、生きてる奴らがどうにかしてくれる、ってさ」
 言った。
 よく言う。
 そして、口に出して言わないだけで、どの「葬儀屋」も同じように考えているのではないだろうか、と思っている。
 死者は所詮死者であって、生者に置いていかれる存在でしかない。前を向いて歩いていく生者の背中を、指をくわえて見ていることしかできない。
 だから、後のことは生者に任せればそれで良い。死者の役目はただ、居ろと言われた場所から動かないことだ。下手に動いて生者の足を引っ張らないことだ。そういう意味で、生者がとても眩しい。そして、期待してもいる。この先のことを変えていける生者たちに。
 珠洲は、小さく口を尖らせた。
「死なないって言った傍からそれ?」
「は?」
「生きてる人たちを私たちに重ねるなら、貴方は死者のほうってことでしょ」
 相棒の表情を観察する。たぶんその眼差しにも気づいているのだろう。谷中は、――困ったように笑ってみせた。
「まぁ、ものの例えだよ。……なんだよ、今日は妙に絡むじゃねえか」
「居なくなった後は居なくなったでけろっとしてるだろうから、今のうちに絡んどかなきゃと思ってさ」
「けろっと?」
「私が」
 自分の性質なら解っているつもりだ。きっと珠洲は、谷中が居なくなってもなにも変わらないだろう。何事もなく、新しい相棒との関係を築いていく。谷中は過去の人になるが、珠洲が見るのはいつだって、生者が担う未来のほうだ。これから変わっていくことのほうがよほど興味深いし面白い。そういう意味では、仮に谷中が昇進するのではなく死ぬのであっても、また単なる異動で相棒が変わるだけであっても、珠洲の反応は変わらないのだろう。
 だから、いずれにしても。
 相棒が今現在、この場所にいるうちに話をしておかないと。
「……そりゃお前らしい話だ」
 珠洲の思いを読み取ったかのように、谷中がくしゃりと苦笑した。いつだってそんな笑いばかり浮かべているけれど、ここ最近はその頻度が急に上がった気がする。
「ま、お前もサポートしたってくれや。皐月にも、お前くらいお気楽なところがあって良いと思うからな」
「褒めてるんだよね?」
「そりゃな」
 間髪入れず答えると、さて、と呟いてぱんぱんと小気味良く手を叩く。太い、こもったような音だった。中年男の手の音だ。ぼんやりと眺める珠洲を見て、――にやり、不敵に笑う。
「脚だった俺も、現場に手出しできない頭の側に移っちまうんだ。頼りにしてるぜ、相棒」
「当然」
 珠洲は応えて親指を立てる。内心おかしくて堪らなかったけれど、わざと真顔を向けていた。


 top