考え事をしていたらまた字を間違えた。 漢字というのはどうしてこうも複雑な形をしているのだろう。溜息交じりに二重線を引くと、相良が少しだけ眉間に皺を寄せているのが目に浮かんだ。小言は言わなくても表情は解りやすいのだ。先輩だと解ってはいても、子供の姿でそんな表情をされると余計に情けない気分になる。仕方ないじゃないか、この状況で考えこむなというほうが無理な話――と言い訳をしてみても、それとこれとは話が別だ、と冷静な自分が正論を被せてくる。この冷静な自分のほうが書類を書けば良いのに、と思ってもみる。 班長が変わるというのは、平班員にとっては一大事なのだ。 皐月が班長になるのなら――自分の書いた書類など、提出したところで突き返されて書き直しを命じられてしまうのではないか、と不安になった。 班長が変わるのなら、班内異動は避けられない。だから今、班内の空気はほんの少し、浮ついている。誰がどうなるのか、班長の相棒に引き抜かれるのは誰なのか、穴を埋めるのは新人なのか他の班から異動してきた死者なのか、口に出す者も出さない者も、心のどこかで気にしている。 その人事を、あの少女が行うのだと思うと不思議な気分になった。 だから背後から声を掛けられたとき、死ぬほど――もう死んでいるけれど――驚いたのだ。 「美作」 振り返ると、当の皐月と眼が合った。 「さ、皐月?」 「来い、鍛えなおしてやる」 短い言葉にぽかんとして、ツインテールの少女を見つめる。怒っている様子ではなかった。だから余計に解らなかった。不機嫌にさせる原因ならいくらでも思いつくけれど、こんな真剣な表情を向けられる謂れはない。 たっぷり十秒間沈黙していると、皐月が業を煮やしたように溜息をついた。 「……指名されたんだよ、美作」 隣から相良の声がする。見ると相良が珍しく美作の眼を見ていた。なにかに怯えているように、こちらの眼を見ず話をすることが常だったけれど。 「指名?」 相良の言葉を繰り返す。我ながら随分と間の抜けた声だと思う。現実についていけていない。 「私の相棒になれと言った」 「へ? ……え、じゃあ相良は?」 「五班から一人移ってくるから、僕は彼女と組むことになる」 「そういうことだ」 目の前で知らない言葉が飛び交う。――谷中が抜け、皐月が班長になる。班長の相棒として、美作が指名された。複雑怪奇で単純明快な事実を理解したとき、美作は執務室で皐月と相対して座っていた。 谷中と珠洲は席を外しているらしい。居るべきはずの死人が居ないというだけで、部屋の雰囲気はこれほどまでに変わるのか、と呑気に感心した。 「驚いた顔をしてるな」 言われてようやく我に返る。真正面のソファに座った皐月は、やはり両脚を少しだけ宙に浮かせていた。面白がっているように笑っているのが意外だった。そんな顔をしていると、年相応の幼さが垣間見える。その表情に便乗して、つい、口を滑らせた。 「……なんで僕を選んだか訊いて良いのかな」 「別に深い理由はない」 あっさりと答えられて面食らう。余程妙な表情をしていたのか、こちらを見て皐月がくす、と笑った。 「言ったとおりだ、お前があんまり頼りないから鍛えなおしてやりたいと思った。……ただ」 「ただ?」 「バランスかな」 「バランス?」 鸚鵡返しばかりの自分が嫌になる。そろそろ怒られるだろうか、と小さく身構えたが、目の前の少女はいつになく 「極端な性格だっていうことは自覚してるつもりだから。感情的で考えなしの奴が隣に居てくれたほうが良い」 酷い言いようだと思ったが、不思議と腹は立たなかった。むしろ背筋を伸ばした。 「『葬儀屋』だから――ろくでもない死にかたばっかりだよ。殺された奴も、酷いトラウマ背負った奴も、事故死した奴も。そういうのはたぶん、お前の感覚のほうがちゃんと扱える」 だから、と言って、皐月は紅い眼で真正面からこちらを見据えた。引きこまれそうな、ルビーのような瞳だった。 決然と、一言。 「ついてこい」 「……大丈夫」 無意識に、呟いた。 皐月が怪訝そうに片眉を上げる。美作は苦笑した。照れ笑いのつもりだった。 「とっておきにしとけって、言われたからさ」 「……わけの解らないことを言う奴だ」 皐月が呆れたように言う。けれどその表情も、どこか面白がっているようでもあった。新しい玩具を手に入れた子供のようであり、夢見がちな少年を抱えた教師のようでもある。 彼女に鍛えなおされるのなら、――望むところだ、と思った。自分にしては随分と挑戦的な発想だった。 皐月が観察するようにこちらを見ている。しかしやがて、唇に笑みを刻んだ。どこか谷中の笑みに似ていた。自分が浮かべた笑みは、珠洲のそれに似てでもいるのだろうか。 良いだろう。それもまた、一興。 「頼んだぞ」 「宜しく、班長」 ――死者の組織は、そして小さく生まれ変わる。 ――了 |