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3.相良


 部屋の扉は開いていた。
 窓も開いている。レースカーテンを、風が控えめに膨らませる。小さな部屋だ。部屋の隅に据えられた電子ピアノのせいで、余計に小さく見える。ただ狭い印象はなかった。たぶんこれで、彼女の世界は充分完結しているのだろう。
 デスクに寄りかかって所在なげに佇む若い女性の存在を、相良[さがら]は入口から確認した。辺見瑠璃子。死者の名前を、もう一度思い返す。
 振り返ると、同じように所在なげな顔をした相棒と眼が合う。仕事場に来てまでそんな顔をされても困るのだけれど。
「居た?」
 人差し指を唇にあてて制し、ゆっくりと頷く。慌てて表情を引き締めた美作[みまさか]の襟元に視線を落として、相良は小さく囁いた。
「行って」
「え?」
「きみからだよ。打ち合わせ、しただろ」
  美作が紅い眼をぱちぱちと瞬かせ、自分の鼻先を指さす。ちらりと眼を見てからまた頷くと、美作は相良の肩越しに室内を見てから、覚悟したようにひょろりと立ち上がった。――大丈夫だろうか、と一抹の不安が掠めたが、だからといって任せないわけにはいかない。相棒が室内に入ったことを確かめてから、相良は入口に佇んだ。
 頼りなげな後姿が、辛うじて一言を発した。
「あの」
 死者が顔を上げる。ごく自然な所作だ、というのが第一印象だった。迷っても壊れてもいない。その意味でいえば、確かに大したことのない案件だった。
  澄んだ眼が美作を見、わずか相良に移って揺れる。施錠されているはずの家の中に、ごく当たり前のように現れた紅い眼と喪服の同類。その存在に言及すべきか否か迷っている――そんな、常識的な眼差しだった。その手前に、美作の困ったような横顔が見える。心配だというなら彼のほうだ。こんな平和な案件なら、しくじりようがないはずだけれど。相棒の視線が一瞬こちらに動いたが見ないふりをした。
「……あの」
 次に口を開いたのは瑠璃子だった。
「わたしを迎えにきたのならちょっと待ってもらえませんか」
「え」
  美作が焦ったような一文字を漏らす。焦るほどのこともないだろう――打ち合わせたとおりの展開だ。相良の不安が届いたか否か、唐突に美作の表情が落ち着いた。執務室での会話を、思い出したのかもしれない。そうだ、なにも難しいことは要らない。ただ約束を一つ交わせば良いだけなのだ、今日は。
「……どうして、ですか」
「結婚式なんです」
 知っている。浦部朋。小学校からの幼馴染だ。幼馴染と大学の同級生が結婚するその式で、瑠璃子は余興のピアノを弾くはずだった。けれど、式の招待状が届くと同時に発覚した病は、瑠璃子を式まで生かしてはくれなかった。
 それだけの、話。
 電子ピアノは綺麗に磨きあげられている。この黒い機械にも、たぶんそのうち埃が積もる。
 瑠璃子は困ったように美作を見ている。怯えたように、あるいは縋るように。そんな眼を向けられては美作のほうが怯んでしまうだろう、と相良はむしろそちらを心配した。
「ええと、……ピアノ、弾けないですよ。スピーチも」
「できなかったら、駄目なんですか」
 たどたどしい美作の言葉に、瑠璃子が真正面から問いを重ねた。
「ピアノやスピーチができなかったら、式に出ちゃいけないんですか」
 初めて、死者の顔が歪んだ。痛みを堪えるような顔だった。
「あと一週間なんです。一週間だけ、待って。ちゃんとお祝い、させてほしいんです。届かなくっても自己満足でも良いから、ちゃんとあの子の結婚、お祝いしたいんです」
「そ……それは、大丈夫、ですっ」
「辺見さんがちゃんとそれを見届けると、約束してくれるなら」
 衝き動かされたように熱を帯びた美作の言葉に、相良は短く付け加えた。我に返ったような眼で、瑠璃子が相良を見る。びくりと振り向いたのは美作だった。
 相良は動かない。ただ、見上げている。こんな――小学生のような少年の言うことでも、今なら届くはずだ。冷静な一般人相手では、子供の姿は分が悪い。但し、揺らいだ死者の不意を突くには有効だ。
 瑠璃子は身動ぎもしない。
「結婚式を最後まできちんと見届けて、そのあとは僕たちについてきてくれると約束してくれますか」
 余計な未練を付け加えることはしないと――誓うことはできるか。
 瑠璃子はじっと、相良を見た。相良も瑠璃子を見た。
 死者が、口を開く。
「……解りました」
「ありがとうございます」
  ぺこりと、相良は頭を下げた。顔を上げると瑠璃子が拍子抜けしたような顔をしている。帰る前に微笑んでおいたほうが良いのだろう、とは解っていたが、巧く笑う勇気がなかったのでそのままにした。知らない人間と話をするのは苦手なのだ。本当は、知っている人間と話をするのも怖いくらいなのだけれど。
「ではまた来週、お迎えに来ます」
 最後にまた軽く会釈。そしてそのまま、相良は[きびす]を返した。慌てた足音が背中に続く。美作のものだろう。相棒がなにかを言ってくる前に、相良は眼を閉じた。瞼の裏に班室のデスクを描く。そして呼ぶ。
「美作」
「ご、ごめん」
 叱るつもりはないし、まして怒っているわけもないのだけれど。
「『大丈夫』って言葉はさ、もっととっておきにしといたほうが良いと思うんだ」
 それだけぼそりと告げて、相良は意識を班室に飛ばす。


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