部屋の扉は開いていた。 窓も開いている。レースカーテンを、風が控えめに膨らませる。小さな部屋だ。部屋の隅に据えられた電子ピアノのせいで、余計に小さく見える。ただ狭い印象はなかった。たぶんこれで、彼女の世界は充分完結しているのだろう。 デスクに寄りかかって所在なげに佇む若い女性の存在を、 振り返ると、同じように所在なげな顔をした相棒と眼が合う。仕事場に来てまでそんな顔をされても困るのだけれど。 「居た?」 人差し指を唇にあてて制し、ゆっくりと頷く。慌てて表情を引き締めた 「行って」 「え?」 「きみからだよ。打ち合わせ、しただろ」 美作が紅い眼をぱちぱちと瞬かせ、自分の鼻先を指さす。ちらりと眼を見てからまた頷くと、美作は相良の肩越しに室内を見てから、覚悟したようにひょろりと立ち上がった。――大丈夫だろうか、と一抹の不安が掠めたが、だからといって任せないわけにはいかない。相棒が室内に入ったことを確かめてから、相良は入口に佇んだ。 頼りなげな後姿が、辛うじて一言を発した。 「あの」 死者が顔を上げる。ごく自然な所作だ、というのが第一印象だった。迷っても壊れてもいない。その意味でいえば、確かに大したことのない案件だった。 澄んだ眼が美作を見、わずか相良に移って揺れる。施錠されているはずの家の中に、ごく当たり前のように現れた紅い眼と喪服の同類。その存在に言及すべきか否か迷っている――そんな、常識的な眼差しだった。その手前に、美作の困ったような横顔が見える。心配だというなら彼のほうだ。こんな平和な案件なら、しくじりようがないはずだけれど。相棒の視線が一瞬こちらに動いたが見ないふりをした。 「……あの」 次に口を開いたのは瑠璃子だった。 「わたしを迎えにきたのならちょっと待ってもらえませんか」 「え」 美作が焦ったような一文字を漏らす。焦るほどのこともないだろう――打ち合わせたとおりの展開だ。相良の不安が届いたか否か、唐突に美作の表情が落ち着いた。執務室での会話を、思い出したのかもしれない。そうだ、なにも難しいことは要らない。ただ約束を一つ交わせば良いだけなのだ、今日は。 「……どうして、ですか」 「結婚式なんです」 知っている。浦部朋。小学校からの幼馴染だ。幼馴染と大学の同級生が結婚するその式で、瑠璃子は余興のピアノを弾くはずだった。けれど、式の招待状が届くと同時に発覚した病は、瑠璃子を式まで生かしてはくれなかった。 それだけの、話。 電子ピアノは綺麗に磨きあげられている。この黒い機械にも、たぶんそのうち埃が積もる。 瑠璃子は困ったように美作を見ている。怯えたように、あるいは縋るように。そんな眼を向けられては美作のほうが怯んでしまうだろう、と相良はむしろそちらを心配した。 「ええと、……ピアノ、弾けないですよ。スピーチも」 「できなかったら、駄目なんですか」 たどたどしい美作の言葉に、瑠璃子が真正面から問いを重ねた。 「ピアノやスピーチができなかったら、式に出ちゃいけないんですか」 初めて、死者の顔が歪んだ。痛みを堪えるような顔だった。 「あと一週間なんです。一週間だけ、待って。ちゃんとお祝い、させてほしいんです。届かなくっても自己満足でも良いから、ちゃんとあの子の結婚、お祝いしたいんです」 「そ……それは、大丈夫、ですっ」 「辺見さんがちゃんとそれを見届けると、約束してくれるなら」 衝き動かされたように熱を帯びた美作の言葉に、相良は短く付け加えた。我に返ったような眼で、瑠璃子が相良を見る。びくりと振り向いたのは美作だった。 相良は動かない。ただ、見上げている。こんな――小学生のような少年の言うことでも、今なら届くはずだ。冷静な一般人相手では、子供の姿は分が悪い。但し、揺らいだ死者の不意を突くには有効だ。 瑠璃子は身動ぎもしない。 「結婚式を最後まできちんと見届けて、そのあとは僕たちについてきてくれると約束してくれますか」 余計な未練を付け加えることはしないと――誓うことはできるか。 瑠璃子はじっと、相良を見た。相良も瑠璃子を見た。 死者が、口を開く。 「……解りました」 「ありがとうございます」 ぺこりと、相良は頭を下げた。顔を上げると瑠璃子が拍子抜けしたような顔をしている。帰る前に微笑んでおいたほうが良いのだろう、とは解っていたが、巧く笑う勇気がなかったのでそのままにした。知らない人間と話をするのは苦手なのだ。本当は、知っている人間と話をするのも怖いくらいなのだけれど。 「ではまた来週、お迎えに来ます」 最後にまた軽く会釈。そしてそのまま、相良は 「美作」 「ご、ごめん」 叱るつもりはないし、まして怒っているわけもないのだけれど。 「『大丈夫』って言葉はさ、もっととっておきにしといたほうが良いと思うんだ」 それだけぼそりと告げて、相良は意識を班室に飛ばす。 |