シンデレラの居ない家

幕間


  普段はまるで無関係とばかりに部下を放置しているくせに、こちらに面倒事を持ち掛けてきたときにばかり、突如嬉々としてこまめに連絡を入れてくるようになる。常磐とはそういう男だった。それは裏返せば、普段は部下の働きに任せているが、難しい仕事のときには面倒を見てくれるという美徳になるのかもしれないが、しいてそう捉えてみたところで、受ける印象が変わるわけではない。さすがに「嬉々として」というのは穿った描写なのだろうが――椎名に言わせれば、それこそ人徳のなせる業といったところだった。それにしても、班長とはそれほど暇な役職なのだろうか。
 内線が鳴り、受話器を取るまでの間に、椎名はそんなことを考えていた。班内の異端者たる椎名に掛かってくる内線など、鳴った時点で相手が知れている。
 常磐のほうでもそれを承知しているのか、こちらが名乗るより早く口を開いてきた。
「戻ったようですね」
「戻ってなきゃ電話取れねえだろうが」
 名乗りも誰何[すいか]もせずに、椎名は毒づく。受話器の向こうで、常磐が小さく笑ったのが聞こえた。
「ごもっともです。それで、首尾は」
「問題ない。楽すぎたくらいだ」
「言いますね」
 また軽い笑いが聞こえる。椎名も付き合い程度に笑っておいた。それにしてもこの上司は、椎名が現世から帰ったタイミングをどうして知ったのだろう。班室に監視カメラでもつけているのだろうか。意味もなく背後が気になったが、振りかえる代わりに背凭れに身を預けて脚を組んだ。
「楽なのは、誰が、ですかね」
「あのガキだけだよ。生きてる奴らは面倒なだけだ」
 突き放すような口調こそが、自分の本心なのだと思った。
 死者の思いは単純だ。本来存在するべきでない者が現世に留まっている以上、そこには必ず理由がある。そして大抵の場合、その理由とは単純化できる。愛情にしても怨恨にしても後悔にしても。
 だが生者は違う。彼らが生きるのに大義名分は必要ないのだ。それがゆえに、彼らは大量の思いを抱えている。
 そしてその思いに、死者は介入できない。
「生者が面倒なのは最初から解っていたことでしょう。そこに進んで首を突っこんだのは貴方です」
「解ってるよ」
 だが唆したのはあんただろう、という反論は呑みこんだ。それを言ってどうなるというわけでもなかったし、椎名が自らこの仕事を請けたという指摘は事実だ。だからこそ、常磐もからかうような声音でそれを言うのだろうが。
 思考が曖昧なままだ。結論もなにもないまま、とりとめのない感想じみたものばかりを遊ばせている。
 強引に、事務的な話に引き戻した。
「あんた、そんな世間話で電話かけてきたわけじゃないだろう」
「ええ、最後の仕事を伝えに」
 最後という言葉を、ごく当然のように口にする。――藤倉美晴にまつわる、最後の死者。心当たりは一人しか居なかったが、即答するのはためらった。代わりに、感慨めいた独り言を漏らす。
「……あいつも死んだんだな」
「ええ」
 自分の言葉は予想外に重く、常磐の返答は想定通り涼やかだった。
 小川健一。
 藤倉美晴の恋人にして、死の淵に立たされていた青年。名前以外はなにも知らない彼が、最後の一人だった。なにも知らないといっても、それがごく当然の帰結なのだから仕方あるまい。そもそも死者が生者の情報に接することはできないし、その必要もないのだから。情報局員にはそのアクセス権限があるというが、管理局員の身でありながら、わざわざ情報局員に頼んでまで面倒事に首を突っこむつもりもなかった。生者であった者の名を、死者たる椎名が知っているという事態のほうが異常なのだ。
 かつて生者であった青年は、今や死者となり、書類の明朝体に姿を変えて、こちらの手の届く領域に飛びこんできたことになる。正常な手続きに基づいて。
「情報局から書類が上がってきました。できればすぐに取りに来ていただけるとありがたいのですが」
「解った」
 必要最小限の言葉だけで応えて、すぐに受話器を置いた。耳にこびりついた声音を、客観的に心地良いものだと判断してしまう自分が嫌になった。この嫌悪ぶりはもはや病的かもしれない。
 病的というなら、藤倉美晴に与えられた星回りこそ病的なのかもしれなかったけれど。
「椎名君はさ」
 椎名が受話器を置くのを待っていたかのようなタイミングで、胡蝶が声をかけてきた。考えてみれば、電話を切った瞬間には大抵彼女が声を掛けてくる。
「なんだかんだで、結構巧いことやってるよね」
 相棒を見る。椎名の予想に反して、彼女はこちらを見つめるでもなく、両手で顎を包むようにしてぼんやりと頬杖をついていた。
「……あんたには文脈ってものがないのか」
「だから、常磐さんと巧くやってるなって」
「は?」
 問い返してから、馬鹿に頓狂な声をあげた自分に驚いた。いま鏡を見たら、さぞ間抜けな顔をしているだろう。
 胡蝶はこちらを見もしない。
「常磐さんと喋ってるといっつも機嫌悪そうだけど、でも、なんだかんだでお互いちゃんと解ってる感じがする」
 呆気にとられたまま、辛うじて真顔を取り戻した。
「……ぞっとしないことを真顔で言うな」
「別に冗談とかじゃないよ」
 心ここに在らずといった調子で応えてから、胡蝶はふいと思い出したようにこちらを向いた。眼だけを椎名に向けて、その実上の空であることには間違いない――それは思索の面差しだった。
 椎名は無言で続きを促した。
「藤倉美晴さんと、そのお母さんのこと、考えてたの」
 そんなこと、わざわざ言われなくても解っている。
「……血が繋がってなくても家族だったんだから、そんなふうに巧く解りあえたら良かったのになって思っただけ」
 椎名は、胡蝶から視線を逸らした。
 その感慨に応えうるだけの言葉を持ってしまいそうな自分が怖くもあった。


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