シンデレラの居ない家

三、藤倉梓


 ゆっくりと眼を開いたとき最初に見えたのは、頓狂な顔をして背中を壁にへばりつけている少女の姿だった。なんの前触れもなく現れた同類に怯えて後ずさりを続けた結果、逃げ場を失くしてしまった被食者の顔だ。
 彼女には構わず、とりあえず視線だけで周りを確認する。黄色いカーテン、チェック柄のシーツがかかったベッド、数学の参考書が出しっぱなしのデスク、CDで埋まった本棚、フローリングに転がる三つのぬいぐるみ、フェルトで作ったバスケットボールがついた鞄。少女の生活が詰まった六畳間。
 その私空間を侵して、二人の死者は唐突に現れたらしかった。
 改めて、眼の前の少女を見る。――なるほど、この反応が正常だ。
「……だ、誰?」
 藤倉梓がようやく、精神力を振り絞ってか細い声を出した。
「そんなに怖がらないで、ね?」
 胡蝶が慌てて言う。椎名が先に口を開いてしまうことを危惧したのかもしれない。だとすれば心外だ。心配しなくても、この場は彼女のほうが適任だということくらいは解っている。苦手な種類の死者に、わざわざ進んで口を挟もうという気もなかった。――少女は苦手だ。未だに扱いかたがわからない。
「だ、だって」
 梓はなおも狼狽を隠さない。それはそうだろう、独りで自室に閉じこもっているはずが、喪服の死者が二人も現れた――それも、扉を開けるという正攻法ではなく、どこからともなく靄のように形作られたとあれば。止めがこの紅い瞳だ。三百六十度、どこから見ても正真正銘の不審者だろう、としいて諧謔[かいぎゃく]的に捉え、椎名はほんの短い暇潰しをした。
「だって……そんな、突然」
「死人って、わりとなんでもアリなんだから。ね? そんなに驚くことでもないよ」
 言葉さえ巧く見つからない死者に向かって、胡蝶は直球を投げた。藤倉梓が自らの死を理解している以上、こちらも「死」の側の人間として接するほうが得策だ。こちらが死者だと明かすことは、暗に、相手が死者であると断定することをも意味する。――死者だというその一点において、少女もこちらも対等だ。
 梓が瞬きをする。
 そして気が抜けたように、ぺたりと座りこんだ。
 壁から背中を、喪服の死者から視線を離さないままで。
「……死人」
「そう、死人」
 胡蝶は背中の後ろで両手を組んで、姉のように微笑んだ。
「あなたも、そうでしょう?」
 当惑した眼が胡蝶を見、それからそろりと椎名を見る。椎名を見るときだけ、その眼に微かな怯えが混ざったのは気のせいだろうか。――反応が兄そっくりだ、とどうでも良いことを思う。特徴だった鷲鼻こそ持っていないが、丸みのある優しげな雰囲気と顔立ちは、藤倉純そのものである。
「……死神、ですか?」
 椎名にとってはごくありふれた一言を、梓は恐る恐る発してきた。黒髪紅眼の「葬儀屋」に出会った魂が、ある一定以上の割合で口にする疑問。死んだ後に出会う不審者は全て死神であると、生者はどこかで教わってきたのだろうか。
「どうして?」
「だって」
 答えた胡蝶を上目遣いに見て、あたしはここに居ちゃいけないんでしょう、と、梓は囁くように言った。ユウレイは、この世に居ちゃいけないんでしょう?
 胡蝶はおもむろにしゃがみこんで、少女と視線の高さを合わせた。それもまた、兄のときと同じ動作だ。
「ここに居ちゃいけない、ってことが解ってるなら、どうしてこんなところに居るの?」
 一言ずつを柔らかに、但しはっきりと口にする。声音の制御にはある程度の技術が必要だ。同じ言葉を椎名が遣えば、少女は余計に縮み上がって怯えたに違いない。詰問ではなく純粋な質問と受け取られるように話すのは、存外に難しいものだ。
 制服の肩からこわばりが消えていた。
「……気に、なって」
「気になる? お兄さんのこと?」
「ううん……お姉ちゃん」
 かぶりを振って、梓は不安げに胡蝶を見上げた。言葉の続きを繋げる代わりに、短い問いを発する。
「お兄ちゃんは死んだの」
 端的な問いは、彼女の理解の範囲を明瞭に表していた。――自分の死は理解しているが、兄の死は知らない。
 理に適った問いだ、と思った。兄妹揃って交通事故に遭ったものの、兄が即死した一方で、梓は事故直後からたっぷりと時間をかけて生死の境を彷徨い続け、唐突に死の淵に転落したのだ。兄の事情など知る由もない。
 一瞬だけ、胡蝶の視線が椎名に向いた。椎名は無表情に見返す。頷くこともしなかった。
 胡蝶は再び梓を見る。
 梓は彼女の返事を待っている。
 胡蝶はゆっくりと、頷いた。
 梓は俯いた。
 そうか、と、力なく呟く。驚きではなく、自分の予想が当たってしまっていたことへの落胆に見えた。
「じゃあ……お姉ちゃんとお母さんが二人っきりになるんだね」
 ――まただ。この少女もまた、母と娘を語る。
「それが、心配事、なの?」
 梓は上目遣いに胡蝶を見て、こくりと頷いた。胡蝶は姉の顔をして、少女の奥にまた一歩踏みこむ。
「二人っきりだと、どうして心配なの?」
 梓はすぐには答えなかった。落ち着かない様子で制服のリボンを直し、髪に手を遣り、そろりと椎名を見て――やはりこちらを見る眼は怯えている――やがて再び胡蝶を見た。
「お姉ちゃんは、あたしの本当のお姉ちゃんじゃないんです」
 知っている。
 けれど、胡蝶と椎名がその事実を知っているということを、彼女は知らない。
 知らない振りを決めこんで、喪服の死者は黙ったままで少女の声を聞く。いつしか少女は眼を伏せて、フローリングの木目ばかりを見つめていた。
「だから、お母さんの本当の子供でもないんです。……だから、お母さんはお姉ちゃんが気になるのかなって。お父さんが死んじゃうまで、そんなこと、全然なかったのに。なんだかお母さんが、ぎくしゃくしてる感じで……」
 純粋な血の繋がりにおいて、藤倉美晴は孤立した。
 だからといって、なにが変わるというわけではないはずだった。けれど母の眼だけは、その孤立を敏感に嗅ぎとってしまった。
「……変な感じ。お兄ちゃんがお母さんに、注意っていうか、そのことを言ったりしたんですけど、あんまり効果がないっていうか……でもあたし、それってむしろ逆効果じゃないかなって気もして」
 兄が彼女を[かば]っても、母は余計に彼女への視線を濃くするだけだ。妹の眼はちゃんとそれを見ていた。その状況が[いびつ]だと、ちゃんと見抜いていた。
 そして母の血を引く子供たちが斃れ、残された母娘は赤の他人同士となる。
 静かに歪んだ家の中で、最後の良心が欠けた。
「お姉さんって、どんな人?」
 空気を変えようとしてか胡蝶が問うと、梓は一度瞬きをして、うーん、と唸った。たっぷり十秒考える間、表情が少し和らいだように見えた。
「……いつもニコニコしてて、優しくって……あと、数学が得意」
 わざとしたような幼い物言い。顔に浮かべた微苦笑は、身内を褒めることへの照れ笑いだろうか。それなら美晴は間違いなく、梓の「姉」であったのだろう。
「お姉さんのこと、大好きだったんだね」
 胡蝶が笑う。返事は、うーん、という曖昧な唸り声だけだったが、それは肯定以外の何物でもなかった。
 藤倉美晴という、この先も出会うことなどないだろう生者を思った。
 誰からも愛されたがゆえに、彼女は死者の未練となりえてしまった。自分の知らない場所で。孤立する彼女を護れないことに、自分の死以上の衝撃を受けた兄が居たということを、生者は知る由もない。
「別になんにも悪いことしてないのに……お姉ちゃんが可哀想」
 呟きは、結局元の位置へと舞い戻る。
 その言葉を、椎名はおもむろに拾い上げた。
「あんたが心配してるのは誰なんだ?」
 はっとしたように、梓が顔を上げる。丸い眼が、胡蝶の肩越しに椎名を見る。
 椎名は彼女を見もせずに、わざと視線を逸らした。凝視は逆効果だ。梓はたぶん、椎名を凝視しているのだろうけれど。
「あんたがここに残っても、姉さんが救われるわけじゃないんだぜ。恩返ししたいなら方法が間違ってる」
 間違っているどころか、梓が生者でなくなった今、正しい方法は既に無い。だがそれを、わざわざ口にする必要はない。
 ぐずぐずと一所[ひとところ]に留まるくらいなら、初めから直球を投げて済ませるべきだ。
 梓はどんな表情をしているのだろう。気のないような表情を取り繕い、フローリングに転がったぬいぐるみを眺めながら想像する。唇を引き結んでいるのか、眉間に皺を寄せているのか、あるいは眼を見開いているのか。少なくともこのぬいぐるみのような、あどけない能天気さは持っていないだろう。熊も、兎も、黒猫も、そんな複雑な表情は作れないものだ。
 返事はない。
 まだ言葉が要るだろうか。死者を引き剥がすのに必要な言葉の量を計算しはじめた矢先、当の彼女が独り言のように言った。
「解って、ます」
 タイミングを計って梓を見た。彼女はまた俯いていた。たぶんその眼は、フローリングではなく自分の中を見つめている。
 あるいは母の中を。
「ただ、二人っきりにさせちゃダメだって、そう思って。生きてたってなにができるわけでもなかったのに、死んだら余計になにもできないのに、でも、気がついたら帰ってきちゃった」
 姉と母の住むこの家に。
 兄が帰ってきたように。
 呆れるほどよく似た兄妹だ、と思った。後先考えず家に舞い戻ってきたは良いが、未練を残したはずの家族の顔を見る踏ん切りさえつかず、兄は家に入りかね、妹は自室に閉じこもった。なにもできないことが解っていて、それでも現世に留まらずにはいられなかった中途半端な思い。
 ――それは罪悪感なのだろうか。
「還る場所は、ここじゃないんだよ」
 ひび割れてぐらついたその隙間に入りこむように、語りかけた。その声音は彼女の十八番だ。
 梓が不安げに彼女を見上げる。頼るべき者を、とうに見失った眼だった。そんな眼をしていては、容易く喪服の死者に付けこまれるというのに。――その眼を作らせるように、揺さぶりをかけるのは椎名の仕事だ。
 労わるように、慈しむように、胡蝶が梓に言葉をかける。
「もう還ろう、ね?」
 これ以上ここに居ても、疲れて苦しくなるだけだから。
 その言葉が死者に沁みていく。
 座りこんだまま、梓は赤子のように眼を閉じた――その輪郭がついと透ける。
 呆気ないほど簡単に、藤倉梓は、輪廻に溶けて消えた。
 誰も居ない六畳間には、二人の死者と、三つのぬいぐるみだけが残された。
 たぶん彼女も本当は、現世に留まることに意味などないということを、ちゃんと解っていたのだろう。必要なのは、輪廻へ還る一押しだけだった。この上なく楽な仕事だ。生者をめぐる人間関係を除けば。
 否。生者をめぐる人間関係を理解してこそ、楽な仕事になるというべきか。
 胡蝶はまだ、壁に向かってしゃがみこんでいる。立ち上がる素振りも見せないまま、彼女は独り言のように呟いた。
「あの子、自分の本心解ってたのかな」
 ――本心。
 班室で眼を通した書類を思い返す。たぶん同じものを、彼女も思い浮かべているはずだ。
 藤倉梓の残した未練は、姉の心配などという聖母的なものではなかったはずだ。生死の掟を破ってまで現世に留まろうとするには、そんな理由では弱すぎる。人間はもっと、利己的な生き物だから。
 脳裏に、書類の明朝体がよぎる。それは「嫉妬」の二文字だった。
 どんなに歪んだ形であれ、母の視線が姉にばかり向いていたことに――少女は少し、ほんの少しだけ、嫉妬してしまった。義姉は、少女を実の妹のように可愛がってくれた一方で、実の娘以上に母の関心を引いていた。
 姉が心配だという気持ちは嘘ではなかった。
 けれどそれ以上に、母の気を惹きたいという気持ちを抱えていた。
 姉に会うのも母に会うのも、心のどこかで避けていたのだろう。だから、現世に留まりながらも自室を離れようとしなかった。
 それが、彼女の現世滞在理由であったはずだ。
 情報局の暴き出す事実は絶対だ。にも関わらず、書類に書き起こされた深層心理は、梓の口からは一つも語られなかった。
 それで良かったのだと、思う。未練を自覚することなく輪廻に戻れるのなら、ある意味いちばん穏便で幸せだ。自分の澱に向き合うことは、時として酷い苦しみや絶望を伴うものだから。現世に留まる死者にとっても、それを突きつける死者にとっても。
 それでも輪廻に還さねばならないから、澱を突きつけもする。――その手間が省けたというなら、こちらこそ儲けものだ。
 妹の未練が嫉妬なら、情報局にさえ暴かれなかった兄の未練とはなんだっただろう。ふと、済んだ仕事を思い返す。恐らくは彼女と同じように、三途の川越しに美晴の姿を見つめていたであろう兄は。妹と引き離された事実に絶望して影と化すほどに、濃密な未練を残していた青年は。
 過去の仕事を再考するなど、自分らしくもない。
 けれど、去っていった死者を咀嚼することでしか、状況把握はできないのだろう。藤倉梓自身が自分の未練を理解していようといまいと、彼女の未練は疑う余地のないデータとして存在しつづけている。主観になど意味はない。
 ――あの子、自分の本心解ってたのかな。
 梓の居た場所を見つめつづけている胡蝶の後姿に、椎名はぼそりと呟いた。
「同じことさ」


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