シンデレラの居ない家

四、小川健一


  社会人にもなれば喪服の一着も用意しておくべきだというのが、一つの常識ではある。ただそれが大学生となるといささか中途半端だ。学生という身分に甘んじてはいられるが、喪服の代わりを果たしてくれた制服はもはや着られない。二十歳を越えた成人ならまだしも、十代の大学生に喪服の必要性を説いたとして、きちんと準備ができるかどうかは本人と周囲の認識次第だ。そして結論を先送りにしているうちに、不幸にも葬式に出遭ってしまった場合――リクルートスーツでお茶を濁すというのも、学生の選択肢なのかもしれなかった。
 モノトーンの斎場に、リクルートスーツの若者が散らばっている。見かた次第で、場違いにも相応にも見える服装だった。大学院生たる純の友人か、それとも大学生たる美晴の友人か、さもなくばいずれかの先輩後輩かもしれない。年齢からいって、美晴の関係者である可能性のほうが高いように思えた。きちんと喪服を着こんだ若者は純の友人だろうし、セーラー服と学生服は梓の友人たちだろう。父母世代の大人たちが喪服姿でいるのは当たり前だが、若者の服装は意外に雄弁だった。
 モノトーンに濡れる集団から視線を外すと、独り離れて普段着のジーンズ姿が居る。出先から急に駆けつけた参列者――ではない。
 死者だ。
 自分の葬儀もまだ行われていないという状況下、恋人の兄妹の葬式に顔を出すというのはどんな気分なのだろう。そんなことを頭のどこかで思いながら、椎名は彼の横顔に声を掛けた。
「こんなところでなにしてるんだ」
 振り向いた黒縁眼鏡の向こう側で、大きく眼が見開かれた。声を掛けられることを想定していなかったのだろう。――普通なら浮いてしまうはずの喪服姿が、この場所に限っては綺麗に周りに同化する。生者に声を掛けられたのかと思っているのかもしれなかった。
 しいて軽い口調を装って尋ねる。
「死人のくせに別の死人の葬式に来るなんて、冗談みたいだな。会場間違えたか? ここはあんたの葬儀場じゃないぜ」
「……どなた、ですか」
 表情に比して落ち着いた声で、彼は問い返す。流石に表情まで落ち着き払っているということはなかったが、それとて、頓狂に驚いているというよりは、状況を呑みこみかねてこわばっているといったほうが近い。大人の驚きかただ、というのが第一印象だった。
 小さな眼が椎名を見、胡蝶を見た。
 胡蝶がその視線を捉えてにっこりと微笑み、芝居がかった台詞を口にする。
「初めまして、死者のための『葬儀屋』です――あなたがこの世に残した未練を伺いにきました」
 小川健一は、表情を変えずに胡蝶を見つめている。
 胡蝶も笑みを崩さない。椎名は無表情を貫く。相手の反応を確かめるまで、余計な動きは差し控えたい。
 聞いた言葉の感触を咀嚼しなおすように、健一が言葉を漏らした。それが最初の反応だった。
「……未練」
「葬式に顔出すなんて、いかにも未練残した死人のやりそうなことじゃねえか」
 そうだろ? 気だるげに首を傾げると、健一はすいと視線を逸らした。そして俯き加減の横顔で、少しだけ笑う。自嘲的な微笑に見えた。
「俺が死んだくせにちゃんと死んでないから、注意しにきたってところですか?」
「まあ、そんなもんだな」
 椎名が軽く流し、胡蝶は小さく首を傾げる。
「ちゃんと死んでない、って自覚はあるんですね」
「まあ、一応。……変ですよね、いつ死んでもおかしくないって覚悟してたはずなのに、いざ死んでみたら、我ながらびっくりするくらい未練たらたらだ」
 台詞は冗談めかしていたが、表情と口調は重い。だから敢えて相槌は打たなかった。
 喪服の集団は、いつの間にかホールの扉の向こう側に消えていた。観音扉の向こうから読経が聞こえる。啜り泣く声が、その隙間から聞こえてきそうな気がする。
 言葉を切った死者が、ためらいがちに視線を上げる。ホールへ入る時機を逸した彼は、取り残されたように黒服の受付係を見つめていた。もっとも中に入れたところで、焼香する手も、悔やみを述べる口も、彼には既にない。それなら外から他人事のように眺めているほうが、気持ちとしては楽なのかもしれなかった。
 ――自分はなにをしにここに来たのだろう、と、ふと考えてしまう瞬間がある。現世にしばし留まって、なにかの感慨に浸っていたい死者も居るだろう。時が来れば自らこの場を離れようと決めている死者も居るだろう。そんな魂のところにまで、「葬儀屋」はまめまめしく派遣されていく。現世にとって自分は異質な存在であるのだと再確認させること、迎えが来ていると視覚的に示して焦らせること――「葬儀屋」たる死者の存在そのものがもたらす効果というものもあるのだろうが、ときどき、自分はとんでもないお節介を焼きにきているのではないかと考えてしまう。それは椎名が、重度の面倒臭がりであるせいもあるのだろうけれど。
 眼の前の彼もまた、喪服の触媒など必要としない種類の死者なのかもしれなかった。
「どうしてここに来たんですか」
 胡蝶が、湿っぽい沈黙をそっと破って問いかけた。
 健一が胡乱な眼で彼女を見る。眼差しが嫌に平たく見えたのは、視線を遮るレンズのせいばかりではないだろう。
「どうして、って」
「自分も亡くなったばかりだというのに、わざわざ他人のお葬式にいらしたのは、どうしてですか」
 他人などと、文字通りに他人行儀の言葉を選んだのはわざとだろう。そんな小手先の技術を、胡蝶も弄するようになったらしい。――厳密な定義の問題を抜きにするなら、普通、恋人の兄妹を他人とは呼ばないものだ。
 藤倉純と梓の、葬式だった。
 兄妹二人の葬式を同時にすることになるとは、冗談にしては悪趣味すぎる運命だ。運命などという薄い言葉で片付けてしまわなければ、却って遣りきれない。
 喪服姿の藤倉美晴も、あの黒い集団の中に紛れていたのだろうか。黒服の顔など初めからよく見ていなかったし、そもそも美晴の顔が判らないので、仮にあの場に彼女が居たとしても判別はできなかっただろう。椎名に判るのは、死者の顔だけだ。眼の前に居る青年の視線を追っていれば、或いは判っていたのかもしれないが――そうまでして、生者の顔を知る気もない。死者の身でいる以上、生者の世界は既に異界だ。そういえば、女は喪服姿がいちばん美しいというが本当だろうか。斎場に来るとときどきそんな通説を思い出すが、生憎と答えはまだ出ない。
「彼女の喪服に惚れなおしにきたわけじゃねえだろ」
「ああ……良いですね、意外とそんな理由かも」
 取ってつけたような軽口に、どこか乾いた笑いが返ってくる。その表情のまま、彼はまたちらりと観音扉を見た。未練のある、横顔だ。
 死者は口を開かない。生者が死者を送る声だけが、ほんのわずかに漏れ聞こえる。しかしいくら耳を澄ましても、死者の未練は聞こえない。
 あんたが最後の一人だぜ、と、椎名は口には出さずに呼びかけた。
 ――あんたの葬式が最後だ。
 歪んだ母と娘を残し、兄妹は死んだ。兄はもはや娘の傍に居られないことに絶望し、墨色に塗りこめられながら消えた。妹は、無意識の嫉妬を自覚しないまま、不安と疲労から解放されて消えた。その家族を外側から見つめていた青年は、――彼もまた死者となり、兄妹と同じように、生者の世界に留まった。
 藤倉美晴という生者を取り巻く、彼が最後の一人だった。
 ――あんたはなにを語る気だ。
 やがて健一は、椎名の心中を読んだかのように呟いた。
「せっかくなら、独り言、聞いてもらえませんか」
「独り言?」
 問い返したのは胡蝶だった。先刻より幾分生気を取り戻したかに見える青年は――考えてみればおかしな表現だ――彼女を見て、頷いた。
「繰り言のほうが正しいかな。……死人の身体じゃ、話し相手も居ないから困るんだ」
 死者の言葉は誰にも届かない。同じ世界の住人たる、喪服の二人組を除けば。
「どうぞ。そのために来たみたいなものですからね」
 胡蝶は笑顔を返す。
 そうすることが、小川健一を現世から引き剥がすきっかけとなる。そのことを、椎名も胡蝶も、「葬儀屋」としての経験からよく知っていた。そしてそれ以上に、この状況下では死者の好奇心を満たす役割をも果たす。
 好奇心などという言葉を思い浮かべた自分を、椎名は少なからず意外に感じた。
「喋ってみれば、あんた自身も纏まるかもしれないしな」
 言って、窓の外を見る。窓というより、硝子張りの壁だった。花壇程度しかない芝生の向こうに、アスファルトの駐車場。その向こうは道路だった。乗用車や自転車や三輪車が行きかうごく自然な日常風景の中で、葬儀はひっそりと営まれている。斎場という場所柄を考えれば、葬儀をしていること自体が日常の一部というべきか。
「この歳で、癌になりました」
 冗談めかしたような口調に、椎名は青年を振り返った。
「見つかったときにはもう手遅れで。笑いましたよ。家族は泣きましたけどね」
 浮かんでいるのは苦笑いだ。その病は本題ではないのだと、昔の思い出を語るような口調が告げていた。
「俺の自覚じゃ一年ないくらいですけど、本当はもっと長かったんじゃないかな。告知するまで時間もあっただろうし……いや、どうだろう、案外すぐに知らせてきたのかもしれないですけど、とにかく癌だったんですよ。で、ずっと入院生活。変な感じですよ、昨日までぴんぴんして大学に通って、バイトもして飲み会にも行って、健全な学生生活を謳歌してたのにね。……そりゃ、最初は怖かったです。恥ずかしい話が泣きましたよ。なんで俺がこんな目に、って。ありきたりですけどね。死ぬのは怖い。でも不思議なもので、だんだん、達観というか、慣れてきました。人間怖いですね、こんな状況でも慣れてしまうらしいです」
 照れ隠しの苦笑が、ふと陰る。なるほど、ここが本題か。
「慣れてみたら、別の心配が出てきました」
「別の?」
 絶妙のタイミングで胡蝶が相槌を打つと、健一はゆるりと頷いた。苦笑のままではあったが、眉間に悩ましげな皺を一つ、刻んでいた。
「彼女が居るんですよ」
 椎名はひっそりと、胡蝶に目配せをした。その視線が胡蝶とかち合った。
「藤倉美晴って名前です。ここでお葬式をやっている兄妹の、真ん中です。彼女は生きてますけど」
 だからあながち他人の葬式ってわけじゃないんですよ、と付け加えて、健一は胡蝶に笑いかける。咄嗟のことに笑みを受け止めかねてか、彼女は曖昧な微笑でごまかした。無意識の要素が濃い分、表情操作はまだ不慣れらしい。
「彼女のことが急に気になったんですよ。美晴の今後が。……変ですよね、自分の命より、彼女の家庭のほうが気になるなんて。そういう現実逃避だったのかな」
「家庭……」
「あいつ、ちょっと変な孤立のしかたしてるんです。……血が繋がらない子供らしいんですよ」
 昼ドラみたいですよね、とおどけたように言って、彼はまた観音扉を見た。
「母親が妙に過保護で落ち着かないとか、兄妹には好かれてるけど、それにしたって不自然で、よそよそしいほうがまだ解るのに、とかって。まあ俺に言わせりゃ、あいつの兄貴はあいつのことが好きだったんじゃないかって気もするんですけどね」
 胡蝶が、戸惑ったような眼差しで椎名を見上げてきた。椎名にしたところで、想定外の指摘だった――しかし、想定外だからといって驚きには直結しない。
 あるいは同じような推測を、椎名自身が朧気ながらにしていたのかもしれなかった。それが仮に、藤倉純本人も意識していない、情報局に炙りだされる表層心理以前の問題だったとしても。
 胡蝶の眼差しに、椎名はほんのわずかに肩を竦めて返事に代えた。そもそも、藤倉純の心理はいま問題にすらならないのだ。――あそこまで取り乱すなら、藤倉美晴に普通以上の思い入れがあったっておかしくない。そうだろ?
 喪服の小さな動揺を見もせずに、健一は言葉を継いだ。
「お袋さんは監視するような眼で見てくるし、兄さんと妹には好かれてるけど、それだって特別扱いみたいな気がして辛いって。半分はあいつの考えすぎだろうって思うんですけど、親父さんが亡くなってからお袋さんの態度が変わったのは事実だし、それで兄さんがお袋さんに注意したくらいらしいですからね。……そんな中で、味方の兄妹にまで死なれたら、もう完全に孤立じゃないですか。ただでさえ、親父さんが亡くなって参ってたのに。せめて俺だけはあいつの味方でいてやりたいって思ったのに、こんな身体だ。あいつこれからどうするんだろうって、自分の生命より先にその心配ばっかりしてる」
 変ですよね、と苦笑して、彼は思い出したように椎名を見た。
「生きてたときは、死にたくない、死ぬのは怖い、ってずっと思ってたはずなのに、いざ死んでみたら、あいつどうすんだろ、って、びっくりするくらい普通のことが気になって。気になって夜も眠れないっていうか」
 言い得て妙だ、と感じた。眠るべきときにきちんと眠りに落ちられなかったがために、彼はまだ生者の世界に留まっている。
 表に出すべき感情を決めかねているような表情の青年に、椎名はふと問いかけた。
「……どうだった」
「え?」
「起きて現世に留まって、彼女を見てみて、あんたの感想はどうだった」
 仕事のためのというよりも、純粋な疑問から出た問いだった。振り切ったように晴れ晴れとしているでもなく、落胆に沈みきっているでもない。希望も絶望もなく宙吊りに、いっそ淡々としているその表情の奥を、知りたいと思った。
 ああ、と、健一は意外そうな声音で呟いた。
「そんなことまで聞いてくれるんですか」
「そんなこと、のほうを、訊いてほしかったんじゃないのか」
 試しに挑発じみた返答を投げてみると、死者は穏やかに笑ってみせた。相槌程度にしか考えていなかったが、案外図星だったのかもしれない。
「意外と冷静だなって思いましたよ」
 第一声は、ごく簡潔な描写だった。その視線は椎名と胡蝶を見ているようでいて、どこか別の場所へ拡散している。
 顔も知らない生者の姿を、彼の言葉の向こうに見た。
「もっと、身も世もなく泣くか、さもなきゃもっと呆然としてるかなって。次々に家族に死なれて、悲しくないわけがないじゃないですか。しかも、自分で言うのもなんですけど、彼女、俺が死んでるのだって知ってるはずなんですよ。……悲しんでるのは、そりゃ物凄く悲しんでましたけど……でも、普通というか、常識的というか、ね。良かった、強い娘なんだなって安心したけど」
 拡散した視線が、また観音扉に向かう。遅れてきた喪服の生者が、遠慮がちに、しかし慌ただしく隙間を開けて滑りこむ。中年の女がなにか喋っているのが聞こえたが、それもすぐに扉の向こうへ消えた。
 届くはずもない線香の匂いを想像する。死者が香水のように纏う匂いだ。
「……ちょっと、寂しかったかな」
 細い煙のような声で漏らして、死者はふいと黙りこんだ。
 接ぐべき言葉を椎名が決めるより早く、沈黙を守っていた胡蝶が呟いた。
「強いのは、あなたのほうです」
 語るべき未練を語り終えた死者が、わずか意外そうに少女を見る。
「強い……俺が?」
「この世に未練を残してしまったとはいえ、自分の存在意義をちゃんと知っているあなたは、強いひとです」
 たぶん胡蝶も椎名も、同じ人物を思い浮かべていたはずだ。自らの死を知った瞬間、理性を失うほどにその事実に絶望した青年を。突如墨色に塗りこめられた死者を。彼は自分の死を突きつけられたその瞬間、あらゆる存在意義を見失った。それに比べれば――。
 まじまじと、死者はレンズ越しに少女を見る。
「変わったことを、言うんですね……そんなもの、とっくに見失ったと思ってました」
「解りきったことばっかり言ったら、会話の醍醐味が半減じゃないですか」
 悪戯っぽく応じて、胡蝶は見た目相応の幼い笑顔を浮かべた。つられるように、健一が僅かに眼を細める。
「醍醐味、か」
 それは、妹を見るような柔らかな表情だった。
「……こんな繰り言を言う死人って、いっぱい居るんでしょうね」
 独り言じみた唐突な言葉に、胡蝶がきょとんとして瞬きを返す。微笑を苦笑に変えて、死者は照れ隠しのような明るい声を継いだ。
「会話の醍醐味、葬儀屋さんたちにはないんだろうなって思って」
「そんなことないですよー」
「繰り言っつっても千差万別だからな」
 同じような苦笑を返す胡蝶に、椎名はゆるりと口を挟む。
「醍醐味とまではいかないが、まあ退屈はしない」
 同じ未練を持っていたとしても、漏らす繰り言は驚くほど違う。――藤倉美晴をめぐる死者たちの、それは立ち位置によるものだろうか。兄として妹として、あるいは恋人という第三者として、死者はそれぞれに生者を見る。死の連鎖と見えても、死者の視線の先がたまたま一人の生者に集約してしまっただけの話だ。
 一人の死者にすぎない小川健一に、その集約は理解しえない。彼を強いと評した胡蝶の真意も、当の本人には理解できない。確実なのはただ、彼は、先に死んだ兄妹よりも客観的に生者を見ているということだけだ。少なくとも、大切な者との間に突如現れた生死の壁を目の当たりにして錯乱しない程度には。
「繰り言だって解るくらい達観してるなら、俺たちが言いたいことも解ってるな」
 水を向けた椎名の言葉に、心得たような微苦笑が返ってくる。
「死人がこの世に留まってもなんの意味もない、んですよね。解ってますよ。ちゃんと解ってます。……ただ」
 死者は眼を閉じた。
「ちょっと、美晴の顔が見たかっただけです」
 病院で死んだせいで、家族の顔は見られたけど彼女の顔を見損ねちまった。独り言のように、照れ隠しのようにそう呟いて、彼は眼を閉じたままでひっそりと笑った。
 ――あいつのことを本当に心配してたのは、俺だけだったって、思いたかったのかも……。
 それが最後の一押しだった。
 眼を閉じたままで身じろぎもせず、最後の一人も空気に溶けた。
 生者の世界であるくせに、死人のような静けさだった。
「……なんだかんだで」
 長い間黙っていた胡蝶が、ぽつりと呟いた。
「愛されてる人だったってことなのかな」
 藤倉美晴は。
 死者の未練を一手に引き受けてしまうほどに。
 長い髪を弄び、視線をパンプスの爪先に落としている姿は、自分の中の感慨を扱いかねているように見えた。
「変なの、なんだか生きてる人相手にしてるみたいだった。……あたしなんかじゃどうしようもない世界のことみたいだった」
「死人のくせに、生者を引きずってやがるんだ。生者は死者のことなんか気にも留めてないのにな」
 死者は生者に触れられないし、その逆もまた然り。互いに干渉できないというその一点において、生者と死者は共通する。対峙する生者と死者に違いがあるとすれば、死者は生者の姿を見られても、生者は死者を見られないということだ。死者は生者を見られてしまうがゆえに、視覚で容易く思い出を補完させてしまう。――だからこそ、現世から立ち去りがたくなる。けれど生者は、見えない死者を振り切って先の将来を見なければならない。――だからこそ、生者を振り返る死者の絶望はいや増す。
 生死の垣根が残酷なのは、むしろ死者にとってのものだ。
 藤倉美晴にしたところでそうだ――と思ったところで、胡蝶が椎名を見上げて苦笑してきた。
「椎名君、生きてる人に厳しいんだから」
 藤倉美晴を強いと評した健一の言葉を、納得の面持ちで聞いた自分が居る。未来を生きる生者はたぶん、死者が振り返るよりずっと[したた]かだ。愛される娘という評価こそが彼女の処世術だったと仮定して、誰が否定できるだろう。
 生者たる彼女に対する評価の辛さを認識し、椎名は少し、苦笑した。それは嫉妬なのかもしれなかったけれど。
「……そうかもな」
 生者の思いなどなにも解らない。生者の思いを[ひもと]いたとて、死者の身には残酷なだけだ。死者は死者らしく、死者の世界へ還るのが良い。そもそもそれが理だ。生死の境を越えた時点で、二度と分かり合えない異種族に成り下がるのだから。
 しかし生者も似たようなものだろうか、と、立ち止まる。
 死者の思いを露も知らず、それでいて死者の未練まで背負って、それでも生者は生きなければならないのだ。生きつづける限り、生者の周りには死が積み重なっていく。老いというのは、そうして死者を背負っていくことなのかもしれない。
 老いることのない身でありながら、死者の思いも生者の思いも溜めこんでいかなければならない「葬儀屋」とは、それではいったいなんなのだろうと――思った。思ってしまってから、それはひどく人間的な感情だと思った。
 言葉の一つも交わすことなく、椎名と胡蝶は立ち尽くしている。
 死者が送られるべき場所で、喪服の死者が思考の中に取り残されている。
 観音扉が音もなく開いた。
 ――出棺だ。


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