シンデレラの居ない家

五、生者


「頼むからもうちょっとまともな現れかたをしてくれないか」
 背後を振り返って、椎名はうんざりとぼやいた。口にしてしまってから、我ながら随分と下手に出てしまったものだと思う。まともに現れろ、だとか、むしろ現れるな、という言いかたをしなかったのは、単に疲れているせいなのだろうか。
「どんな現れかたをしても、貴方にまともだと評してはいただけなさそうですが」
 皺ひとつない喪服姿で、常磐が佇んでいる。観察するような両眼は、揺るぎもせず椎名を見つめていた。
 回転椅子を回して後ろを向いた。常磐と真正面から対峙するためというより、単に胴体を捻るのが面倒だったからだ。
「班長直々になんの用だよ」
 棘をまぶした言葉を無視して、常磐の眼が胡蝶に移る。突然の事態に戸惑ったように、胡蝶が三度瞬きをした。透かし見るような眼差しは、椎名に向けるのと同じものだ。――胡蝶は緊張したように固まっている。たぶん彼女は、この種の眼を見慣れていないはずだ。椎名にとっては、見慣れた眼差しだったけれど。
 視線が椎名に返ってきたとき、常磐は柔和な上司の顔をしていた。
「どんな顔をしているかと思いまして」
「……顔?」
「生者嫌いの貴方に、生者の色濃い仕事を振った手前ですからね」
 生者嫌い。
 子供嫌いに似ているなと、ひどくどうでも良いことを思った。自分もかつては生者だったくせに、そんな時代のことなど綺麗に忘れて生者を厭うのだ。
 見下ろす上司から視線を外して、椎名は殺風景なデスクを見た。三枚の書類が無造作に散らばっている。貼られた写真は三枚とも、顔の一部を覆われることもなく揃って虚空を見上げていた。
「請けたのはこっちだよ」
「おや、珍しく殊勝ですね」
 言葉ほどには驚いていないような口調で、常磐が応じた。一方の胡蝶はこちらを見て、かくかくと痙攣したような頷きを繰り返している。忙しない驚きかただが、彼女らしいといえば彼女らしいだろうか。
 常磐からも胡蝶からも、逃げるように眼を逸らした。
「別に。本当のことだ」
「まあ、確かに落ち着いた顔はしていますね」
「残念だったな」
「どういう意味です。……貴女はいかがでした」
 椎名の皮肉もあっさりと流し、常磐は胡蝶に問いかける。唐突な問いは荷が重いだろうと懸念したが、案に相違して、彼女はごくありふれた反応を返してきた。彼女もまた、常磐の常磐たる部分に慣れつつあるのかもしれない。
 うーん、と唸って、胡蝶はたっぷり十秒考えこんでいる。
「……変な感じでした」
「変、とは」
「自分で触れないものを、無理矢理動かそうとしてる感じで……巧く言えないですけど」
 同じ舞台に立つ死者でありながら、手を触れられない生者に干渉するような感覚。彼女が椎名と同じ感覚を覚えていたならば、それを言葉にするのは、たぶん難しい。
 常磐は満足げに頷いた。
 そして音もなく踵を返し、そのまま自室へと立ち去る。
 黒い背中が何事もなかったかのように遠ざかり、あっという間の一幕が終わった。――常磐らしいといえば、確かに腹が立つほど常磐らしい一幕だった。
 そういえば、藤倉一家を捌き終えたということは、新たな書類を受け取る必要がある。どうせ寄るなら書類の束を持ってきてくれれば良かったのにと思ったが、そこまで気の利く上司ではないようだった。否、気は利くがわざと実行しなかったという可能性はある。その程度には性格が悪い優男だ。
「……どうなるのかなぁ、あの家」
 ぱたりと閉まった執務室の扉を見てから、胡蝶は思いつきのように呟いた。
「藤倉美晴か」
 彼女の顔を見もせずに応じたが、胡蝶は律儀に頷いた。視界の隅にそれが見えた。
 正確には、藤倉美晴とその義母だ。人一人を指して、普通「家」とは呼ばないものだ。
 緩衝剤たる二人の兄妹を失い、第三者たる恋人も去り、あの小さな家には、一人の娘と義母だけが残された。
 歪んだ眼差しでしか娘を見られない母と、その歪みを自覚してしまった娘。誰からも愛されていながら、純粋には自分を愛せない者だけが身近に残ってしまった皮肉な娘。――あの家は、どうなるのだろう。
「疑心暗鬼のまんまでいかなきゃいけないのかな。それともそのうち巧くやれるようになるのかな……」
「どうしようもないだろう」
 頬杖をついた胡蝶の呟きに、一刀両断の呟きで応じる。相棒はちらとこちらを見上げた。恨めしげな眼つきをしているかと思いきや、思ったよりもあっさりとした顔をしている。感情移入をして思い悩むというより、単純に、難問に頭を悩ませているといった風情だった。
 駄目押しの一言で突き放した。
「どうにかするのは生者の仕事だろ」
 死者には既にどうしようもないことだ。椎名や胡蝶が「葬儀屋」であろうとなかろうと関係がない。死者が生者に干渉できないことは、厳然たる公理なのだから。
 生者を思いながら死んでいった死者の思いを汲めるかどうか――藤倉純と梓、それに小川健一という三人の個人が残した未練を背負えるかどうか。それは、生者の側にかかっている。
 死者の心配した継子苛めは起きていない。あの家にシンデレラは居ない。――少なくとも、まだ。
「俺たちが干渉できる部分は終わりだ。あとは三人分、生者に背負ってもらうだけだろう」
 胡蝶の視線を、椎名は片頬で受けている。
 巧くいくと良いね、と、胡蝶は小さく言った。それから思い出したように問う。
「そういえば、あそこのお母さんってなんて名前だったっけ」
「名前? ――ああ」
 書類に手を伸ばしながら、母という記号でのみ語られた女の名を探す。
 椎名は薄い書類を[]って、答えを一言口にした。

――了


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