シンデレラの居ない家

二、藤倉純


 濃いグレーの屋根を頂いた、小さな家だった。
 黒い門扉の格子を透かして、玄関前の鉢植えが見える。鉢植えの葉が、曇り空の下で雨に濡れている。門扉を開けて、鉢植えの横に立って玄関扉を開ける――たったそれだけの動作を経れば、容易く家に入ることができる。
 けれどそれさえしないまま、彼は表札の下に座りこんでいた。
 否、「しない」以前の問題として、今の自分にそれが「できない」のだということを、彼は果たして理解しているのだろうか。できないからしないのか、それとも、できるのだと思いこんでいてなお、する気にならないのか。青年に声をかける前に、椎名はちらりとそんなことを考えた。
 胡蝶が椎名を見上げる。椎名は彼女を見下ろして、表情も変えずに頷く。相棒は心得たとばかりに頷き返して、パンプスの一歩を踏み出した。すっかり定着してしまった、仕事前の儀式のようなものだった。
 水溜りを踏んでも、パンプスは濡れもしない。死者とは、そういうものだ。
 足音に気づいてか、青年が顔を上げる。その眼を逃さずに、胡蝶は微笑みかけた。
「――こんにちは」
 まっすぐな眼が胡蝶を捉えると同時、死者は驚いたように表情をこわばらせる。黒眼がそろりと動き、胡蝶の背後の椎名を見る。――なるほど、正常な「生者」の反応だ。椎名はそう、分析する。大方、揃いも揃って紅い眼をした二人組に戸惑っているのだろう。生者の世界では、紅い眼の人間など異質なだけだ。死を自覚している人間のほうが、案外あっさりとこの紅い眼を受け入れてくれる。自分は死者なのだから、なにが出てきてももう驚くには値しないと――彼らは一様に、そんな考えを持っているのかもしれなかった。自分ならどうするだろう、と考えてみたこともあったが、そんな問いなど意味を成さないことに気づいてやめた。
 しかし、少なくとも眼の前の青年はそうではない。
 彼には死の自覚がないのだと、無機質な明朝体はそんな情報を告げていたか。書類の記載事項が、現実の重みをもって存在している。
 選ぶべき反応を決めかねている藤倉純に、胡蝶は通りすがりのさりげなさを装って話しかけた。
「こんなところで座ってたら風邪ひきますよー」
 純が瞬きをする。そして、どちらかといえば困っているような表情でまた椎名を見た。助けを求めているつもりなのかもしれないが、それなら椎名にすがるのはお門違いというものだ。あるいは単に、胡蝶のまっすぐすぎる眼差しから視線を逸らしたかっただけなのかもしれないけれど。その気持ちなら、よく解る。
 自転車に乗った小学生が、椎名の真横を通りすぎる。藤倉純の視線が、逃げるように移動する。
 胡蝶は首を傾げて言葉を投げた。
「どうしました?」
「あ……いや」
 純が困ったように胡蝶を見る。家族環境や未練を見たところでは、頑固で強情な青年ではないかと想像していたのだが、予想に反して気弱な性格らしかった。それとも、今の状況に適応できていないだけなのだろうか。
 しばらく逡巡してから、純はとりあえずといった調子で口を開いた。
「……変わった格好ですね」
 予想外の言葉。たぶん胡蝶はきょとんとして彼を見返しているのだろうと、そんなことが後姿からでも容易に知れた。なるほど、椎名だけなら葬式帰りにも見えようが、黒ネクタイにタイトスカートというのは、女性のブラックフォーマルとしてはあまり一般的ではない。そもそもブラックフォーマル以前の問題として、女性がネクタイを締める場面などそうあるものではなかった。せいぜいが、制服くらいのものだろう。――そういう眼で見てしまえば、胡蝶が高校生にしか見えなくなってくるから不思議なものだ。
「仕事中でね」
 椎名はわざと、飄然とした口調を作った。
「あんたはなにしてるんだ? そんなところで座りこんで」
「さあ……なんででしょうね」
 ゆるりと笑う。現世に留まる者特有の、疲れた微笑だった。
「よく憶えてないんですよ。とりあえず自分の家の前なんで座ってみてるんですけど、確かに変なことしてますよね、傍から見ると」
 せめて立ったほうが良いのかな、と独り言のように漏らしながらも、そうしようという素振りさえ見せない。言い訳めいた言葉は、状況を把握できていない自分自身に向けられたものなのだろう。
 不意に、胡蝶がぴょこんとしゃがみこんだ。
 純と眼の高さを合わせてにこりと笑う。その笑顔は彼女の十八番だ。
「じゃ、考えてみませんか」
 純が胡蝶を見ている。
 そうして彼女のペースに引きこまれつつある。
「なにがあって、ここに居るのか」
「なにが……」
「思い出してみるんです。ゆっくりで良いんですよ」
「やってみましたよ」
「第三者が居たほうが、考えやすいと思いますよ」
 諦めの混ざった返答に、胡蝶は無邪気なほど明るく答える。調子は無邪気でも、その態度は確信に満ちていた。彼の諦めを消し去ることはできなくても、前向きな思考をその上に被せていくことはできるのだと――彼女は感覚的に学んできたようだった。そう、どうせ死を自覚させ輪廻に還すのなら、絶望より多少の明るさを持っていてもらえたほうが、こちらとしても後味を悪くせずに済む。
「騙されたと思ってやってみろよ、せっかくだし」
 椎名も声をかけた。たぶん童顔の彼女より、同世代の自分の言葉のほうが説得力を持つだろうと、そんな打算を抱いて。
 純の眼が椎名とかち合う。
 そこで死者はようやく、ためらいがちに頷いた。――まずは、許容範囲の滑りだしだ。
 胡蝶が人差し指を立てた。
「じゃあまず最初からですね。お名前を教えてください」
「……藤倉です。藤倉純」
 名前を訊くなら先に名乗れというありがちな文句を、胡蝶にぶつける気力はないらしかった。それだけ常識人なのかもしれない。
 常識人からの微妙なずれを装って、胡蝶は大きく頷いた。
「良かった、記憶喪失じゃないみたいですね。じゃ、次です。朝起きて、最初になにをされました?」
 矢継ぎ早の問いが、思考をゆるりと動かしていく。純の視線が斜めに上がった。
「顔、洗って、朝食を食べて……ああ、母に頼まれて風呂掃除しましたね」
 時間が朝から動きはじめる。胡蝶は穏やかに見守っている。椎名は相棒の背後に控えたまま、慎重に警戒している。純の時間が動くということは、彼の記憶が死の瞬間に近づくことだ。時間は一直線に死へ続いている。どの人間にとっても等しく伸びる死への道を、藤倉純はなにも知らずに辿りなおさねばならないのだ。想定外の間近に在った死の位置を、ぽっかりと忘れたままで。否、むしろ、なにも知らないがゆえに。
 聞き手たる胡蝶の頷きにつられるように、純は言葉を探りあてていく。
「そのあとは、研究の作業ですね。修論の準備です」
 修士論文が完成することはないのだと、椎名と胡蝶だけが知っている。
「それから、妹を……ああ、妹が二人居るんで、下の妹のほうですけど、部活の練習に遅れそうだっていうんで、車を」
 不意に言葉が途切れる。
 ――来たか。
 椎名は静かに死者を見つめる。
 純は僅かに眼を見開いて、胡蝶を見返した。そして、彼女の斜め後ろに控える椎名を凝視した。黒眼は揺らぎもせずに固まっている。
「……それは」
 数秒前とは明らかに違う、掠れた声。
「それは、喪服ですか」
 黒いネクタイと黒いジャケット。全身黒尽くめの格好に眼ばかりが紅い――疑いの余地もない喪服姿。
「だったら、どうなんだ」
 ネクタイに指を掛けて緩めながら、椎名は何気なく応じる。宣告の瞬間が迫りくることを理解しながら、追い討ちのように問いかけた。
「車を、なんだって?」
「車を出しました」
 平たい断言が飛んでくる。
 胡蝶はなにも言わない。丸い眼差しで先を促しているのだと、その程度のことは後ろ姿からでも判る。酷く直線的な動きで、純は凝視の対象を胡蝶へ変える。見つめる相手を変えることで、この先の展開を選びとろうとでもいうかのように。
 ――これは危ない展開になるだろうかと、意識の隅で再度身構える。
「自転車が飛び出してきたから、ハンドルを切りました」
 棒読みが惨事を綴る。
 車はスリップして転倒した。雨上がりだったのも悪かったのだろう。横転した車の乗員は、二名。一人は既に死者となり、もう一人は集中治療室で、着実に死への道を歩んでいる。道のりはもう長くない。椎名は、胡蝶は、それを知っている。知ったうえで、その先の表情を待っている。立ち位置を把握できた安堵か納得か、あるいは。
 純は思い出したように右手を動かした。視線だけで手許を見る。手が濡れたアスファルトに触れる。その手を持ち上げて眼の前に掲げる。手は痙攣している。
 雨上がりの地面に座っているジーンズが綺麗に乾いているという矛盾に、彼はようやく気がついた。
 広がったその表情は――紛れもない絶望だった。
「俺は」
「思い出しましたか」
 胡蝶が先手を打ち声をかける。冷たい孤独感に追いこまれる前に、意識を外界へ向けさせるために。内へ籠れば籠るほど、絶望に喰われる危険は高くなるものだから。
 しかしその必要はなかった。
 意識は既に外を向いている。否、内側を向いていない。
 黒い両眼が、ここではないどこかに釘づけられている。
「藤倉さん」
「俺は……死んだのか」
 在らぬほうを向いていても、眼差しは恐ろしく冷静だった。
「俺たちが答えることじゃない」
 胡蝶に代わって静かに答える。答えはあんたが知ってるはずだろう――続けようとした言葉を、平たい叫びが遮った。
「俺が死んだら、……誰があいつを護ってやるんだ」
 球形に見開かれた眼の色は深かった。黒眼にじわりと漆黒の萌芽を見た。
「駄目っ」
 胡蝶が叫ぶ。
 反射的に銃を抜いた。眉間へ向けた銃口の重量感が、影へ突き進む衝動を吹き飛ばしはしないかと。化せば二度とはヒトに戻れない、感情の塊、獣としての影――撃ち殺し「始末」することでしか現世から引き剥がせない、魂の成れの果て。
 輪郭を黒に喰われた純がこちらを見た。但し銀の銃口ではなく、その向こうに構える椎名の片眼を。
「駄目だ」
 酷く寂しそうで、それでいて冷静な一言。
 気圧されたのは椎名だった。
 空虚な微笑が漆黒に侵された次の瞬間、藤倉純はコールタールの霧と霧消した。
 粘性の黒い雫が飛ぶ様が、駒送りで見えた。
 死んだ静寂の中を、現世の車が走りぬける。若いカップルが通りすぎる。強い風が吹いて、生垣の葉を揺らす。水溜りの水面に[さざなみ]がざわめく。
「……椎名君」
 胡蝶の声で、我に返った。
「なんだ」
 答えた自分の声も、相棒と同じくどこか現実味を欠いている。胡蝶の声で無思考状態から引き戻された経験は数限りないが、当の彼女がこんな声をしているのは珍しい、とどうでも良いことを思う。
「撃ったの?」
 そうだ、彼女がこんな種類の言葉を、こんなに平たい口調で発するはずがないではないか――。けれど声のほうを見ると、こちらを向いて口を開いているのは紛れもなく胡蝶の姿なのだ。
「いや」
 思い出したように否定する。そして銃を下ろした。右腕は引きつれたように疲労していた。アスファルトに向いた銃身を一瞥し、椎名は先刻を振り返る。――人差し指には力など込めなかった。そもそも安全装置さえ外していない。あくまで、藤倉純の意識を外に向けさせる小道具としての銃、の、つもりだった。
 銃口に、飛び散ったコールタールがついている。指で拭い取ろうとするより早く、純の一部だったそれは逃げるように消え失せた。
「撃ってない」
「だよね」
 安堵、ではない。ただの確認とも違う。胡蝶には珍しい無感情さだった。思考が現実に追いついていないのだろう。
「……今の、なに?」
 問いたいのは椎名も同じだったが、そんなことを言ってはいられない。辛うじて、事実のみを口にする。
「影になった瞬間、消えやがった、あいつ」
 自分が既に死んでいたという事実に耐えられず――本当にそんな理由で?――藤倉純は、理性を失った。肉体を持たない精神だけの存在である魂は、その瞬間にヒトの形を失い、感情の獣と化す。形を持たない墨色のそれを、「葬儀屋」は、「影」の名で呼ぶ。あるいは自嘲をこめて「逝かせ遅れ」、と。
 藤倉純は黒に侵された。つまり影と化した。
 しかし同時に、現世から消えた。椎名が銃を撃つより早く。
 真正面に対峙した胡蝶が、眉間に小さな皺を寄せている。
「……どういうこと?」
 零した声も小さい。
 椎名は藤倉家の門扉を見た。表札の下に座りこんでいた青年はもう、居ない。
「影になったのは……解るよ」
 胡蝶は言葉を探している。そうして考えをかき集めようとしているのだろう。
 ――影になる要素はある。
 それはその通りだ。そもそも藤倉純は、自分が既に死んでいるということを知らなかった。自分の死を唐突に知らされる――存在を突き崩す絶望としては充分すぎる。
「だが恐怖してるって風じゃなかったな」
 死への恐怖は影への衝動を深くする。にも関わらず、純の最期は冷静な諦観を含んだ微笑だった。理性はあった、のだ。そんな複雑な微笑は、獣に浮かべられるものではない。
 影になった瞬間、藤倉純は消えた。
「意味がなくなった、のかな」
 胡蝶が椎名と同じように門扉を見て、ぽつりと呟く。否、門扉というよりは、彼女もまた、そこに藤倉純の座り姿を見ているのだろう。
 影になった原因は、自分の死に気づいてしまったこと。つまり、自分の死を知ったからこそ、純は現世に留まる意味を失くしたのだ。ヒトとしての意思を失った瞬間に、現世に留まる理由を失くしたことになる。
 死にながら現世に留まることには意味がない――。
「生きたいとか、死にたくないってより、生以外には価値がない……ってことか」
 誰へともなく、椎名は言葉を口にする。自分にしては不吉なほど饒舌だ。
 死者が現世に留まりつづけるためには、その自覚に関わらず、ある程度の精神力が必要だ。未練の強さと言って良い。死ねば輪廻に還るのが正常である以上、理由もなくそこから外れるなど有り得ない。
 右手の重みを思い出して、銃をホルスターに収めた。純がこちらに向けた、静かすぎる眼差しが蘇る。銃口を突きつけられながらあんな眼ができるということがあるものだろうか。
 気がつくと、乱暴に頭を掻いていた。随分苛立たしげな仕草だと、行動してから後悔する。
 空を仰ぐ。雨はもう降っていないが、雲は分厚いままだ。またいつ降りだしてもおかしくない。
「帰ろっか」
 向かいあって同じように空を見上げていた胡蝶が、独り言のように呼びかけてきた。こうして死人が二人突っ立っていたところで埒の明く問題ではないと、彼女も解ってはいるらしい。
「ああ」
 ようやく返せたのは生返事だった。
 仕事は完遂した。藤倉純が現世に居ないということは変わりない。影も現世に残さずに。結果だけを見れば、なんら問題のない案件だった。けれど事務処理はややこしくなりそうだ、と、自堕落な自分が嘆いた。そういう予想に限って外れないのだから嫌になる。そのうえ冷静な自分が疑問を投げている。――これだけで済むだろうか、と。
 胡蝶は無防備に喉を見せて空を見上げている。はっきりしない白色の空を。
「帰るか」
 椎名は相棒の立ち姿に、改めてその一言を投げた。


 top