シンデレラの居ない家

一、藤倉


「『また面倒なことになりそうだな』」
 隣から低い作り声が聞こえて、椎名は横目で隣を見た。こちらの視線に気づいているのかいないのか、胡蝶は大袈裟に顔を歪め、嫌そうに溜息をついている。――こいつに演技の才能はなさそうだ。初めに浮かんだのは、そんな無意味な感想だった。本心であるなら露骨すぎるが、なにかをあてつける気ならわざとらしすぎる。否、しかし仕事中には、舌を巻くほどの自然さで嘘や綺麗ごとを並べられるようになっているのだから、それならこの不自然さも作り物なのだろうか。その様子が長髪の上司に似てきたようで面白くないと、そういえば先程の仕事でも感じたばかりだ。どうせなら、ロングピアスの上司に似れば良かったものを。
 胡蝶の顔は歪んだままだ。
 思い出したように、椎名は相棒に声をかけてやった。
「……なにやってんだ」
「椎名君の真似」
 似合わない顔つきのままで平然と答え、ようやく見慣れた表情に戻る。舌打ち寸前の不機嫌さを発散させているよりも、あどけなく笑いを噛み殺しているほうがよほど彼女らしい。――意外といえば、自分がそんな感想を抱いてしまったことこそが意外だった。
 反応に窮していると、胡蝶はいささか得意げにも見える上目遣いで問うてきた。その眼つきもわざとらしい、と思ってしまうのは勘繰りすぎだろうか。
「だってそう言おうとしてたでしょ?」
「……なんの話だよ」
「いかにもそんなこと言いそうな顔してたもん」
 苦し紛れの問いに、あっけらかんと答えられた。返事代わりに顔をしかめようとして、思いとどまる。物真似のネタを与えてやるには及ばないだろう。そうといって、表情を作るまいと強いて努力してしまっている時点で、彼女と同じ次元に降りてしまっているのかもしれないけれど。
「そんな阿呆面しねえよ」
「自分に返ってくるよ」
 反論は自分の首を絞めるだけだと眼差しで笑われ、大仰な溜息と椅子の軋みを返事に代えた。天井で蛍光灯が光っている。その端が少し黒ずんでいる――もうすぐ切れてしまうかもしれない。そんなことをぼんやりと観察しながら、相棒のどこか嬉しそうな顔を視界の隅に認める。なんだかんだと悪態をついていても、椎名自身も、この日常を楽しんでいるのかもしれなかった。
 胡蝶がこちらに身を乗り出した。蛍光灯から視線を外す。
「どんな人?」
 ――仕事中だということを思い出して、椎名は黙ったまま、手持ちの書類を相棒に渡した。百聞は一読にしかず。椎名などが説明するよりも、情報局員[プロフェッショナル]のまとめた書類を読んだほうがよほど解りやすいというものだ。胡蝶も心得顔で紙束を手に取る。結局こんな展開になるのなら、最初から彼女と並んで書類を確認したほうが早いのだろうといつも思うが、そうはいっても、文字を追う速さには個人差がある。他人のペースを気にしながら言葉を咀嚼できるほど器用でないことは、不本意ながら自分がいちばんよく知っていた。但し、椎名が本当に避けているのは、胡蝶と二人仲良く顔を突きあわせるような事態のほうなのだと――その程度のことも、考える前から不本意ながらに承知している。果たして自分に本意などあるのか、そんなことがふと心配にもなる。
 胡蝶が、椅子ごとこちらを向いたままで書類を読んでいる。
 椎名はそれを眺めている。
 多少俯いてはいたが、真正面に彼女を据えていることには変わりない。表情までよく見えた。幼い顔立ちと生真面目な表情。書類を読む真剣な様子も見慣れたものだ。何人もの魂を捌いても、彼女のひたむきさが削られることはないらしい――と思ったところで、胡蝶の眉間に微かな皺が追加された。そのまま顔を上げるのかと思いきや、顔を上げる寸前、小さく溜息をついて諦め顔に変わる。キャリアのわりに、いやに年季の入った表情だった。
 なぜそんな顔をするのかと問うより、胡蝶が口を開くほうが早かった。
「薄々そんな気はしてたけど」
「なんのことだ」
「だってあんな顔してたもん」
 説明になっていない。
 あるいは読解力の問題か。もうひと押し突っこんで良いものかと逡巡している間に、いましがた聞いたばかりの作り声がまた飛んできた。
「『面倒なことになりそうだな』、……って、そんな顔してたの椎名君じゃん」
 胡蝶の顔を見る。紅い眼がまっすぐ椎名を見ている。そこでようやく合点がいった。椎名の表情から書類の内容を推測し、実際に眼を通してその正しさを確認した――そんなところだろう。
「顔色読むのが随分と巧くなったもんだな」
「誰かさんのおかげでね」
 皮肉じみた軽口も平然と返された。いつの間にか、彼女の神経は随分と太くなっているらしい。既に分が悪くなっているのかもしれない、という面白くない想像を追いやるべく、頭を切りかえる。
 眼を胡蝶の手許に落とすと、彼女もつられるように椎名の視線を追った。
「……面倒な奴らはときどき混じるさ」
 この位置からでは、胡蝶が持つ書類の裏側しか見えない。だが内容なら憶えていた。無表情に虚空を眺める青年の写真まで、鮮明に。あれは――見たところ、椎名と同年代の青年だった。色黒の肌に鷲鼻が目立つが、顔立ちは優しげだ。顔は判っている。写真の隣には、座りの良い明朝体で死者の名が綴られていたはずだ。名も判っている。死亡日も享年も志望状況も現世滞留理由も、彼の情報は余さず[すく]いあげられて「葬儀屋」の手の内にある。
 けれど――よく解らない、のは、単純に読解力の問題なのだろうか。
 面倒な仕事が一定の割合で混ざっていることは解りきっているのに、一筋縄ではいかなさそうな死者を前にすると、つい溜息をつきたくなってしまう。悪い癖だ。否、そもそも面倒でない死者は、「葬儀屋」の書類に書き起こされないものだけれど。
「結局この人の未練てなに?」
 椎名の頭に浮かんだ疑問を、胡蝶が単刀直入にぶつけてきた。
 自分の頭で考えるより早く、情報局員の要約が口を突いて出た。
「取り残された義妹を心配するあまり、だろ」
「それ、未練っていうか、死を受け入れていない原因っていうか、……なんか違わない?」
 模範解答は、歯切れ悪く否定された。全くもって同感だ――歯切れの悪さまで含めて。
 藤倉純。
 死者の名を思い浮かべた。
 眼の前に居る死者は独りきりなのに、その背後に何人もの人間が隠れているような気がする。亡霊? ――まさか。霊というなら藤倉純のほうこそ、正真正銘の幽霊だ。
 椅子が軋んだ。
 無意識に座りなおしたことに気づく。この程度の魂を相手に本腰を入れるつもりなのか。随分と真面目な「葬儀屋」になったものだ。
「ややこしいのは、こいつというより家族事情だろ。……整理しようぜ」
 真面目な自分を嘲るもう一人をこそ嘲笑うように、椎名は至極真っ当な提案を投げかけた。丸い眼をもう一回り丸くしながら、相棒もこくりと頷く。
「藤倉純と、その義妹とやらは母親が違う」
 胡蝶が手にした書類を摘みあげ、椎名は大前提の一つを口にした。書類を奪われた胡蝶はやや不満そうに口を尖らせたが――そう見えただけかもしれない――おもむろにデスクの抽斗を開けて小さなノートを取り出した。律儀にもメモを取る気らしい。
「連れ子ってやつだね」
 桜色のボールペンをノックしながら、更に律儀なことに返事まで寄越してきた。無言で頷くと、胡蝶がくるりとこちらを向く。眼を瞬かせている彼女に急かされるように、注釈めいた言葉で返事を重ねた。
「藤倉純は母の子、義妹は父の子、だ」
「そのさ、ギマイってのやめようよ……落ち着かない」
「……藤倉美晴、だ。これで良いか?」
 名前を呼ぶと相棒が頷く。妙なところにこだわる奴だ、と思ったが、それはそれで彼女らしい観点なのかもしれなかった。
 書類を一瞥してから言葉を継ぐ。
「ついでに純には実の妹も居る。そっちは……藤倉、梓」
 上から順に、純、美晴、梓の三兄妹ということになる。歳の差は、ちょうど四歳ずつだった。大学院生の純、大学生の美晴、中学生の梓。――歳の離れた実の兄妹を、美晴が綺麗に割る形で入りこんだことになるか。入りこむといっても、兄妹として過ごした時間は十年近いというのだから、それなりに情も連帯感もあっただろう。血の繋がった家族ではなくても、一つの共同体にはなれていた。客観的にも主観的にも軋轢はなかったようだ。少なくとも純の視点から見たとき、家族内に問題があったのなら、その旨書類に記載されているはずなのだから。――口に出さない心中の思いまで判ってしまうというのだから、情報局とはつくづく恐ろしい部署だと、思う。
 ただ、歪みがなかったわけではなかった。
 正確には、あった。
「で、お父さんだったっけ?」
「ああ」
 数年前、父が病死した。
 純粋な血の繋がりにおいてという意味で、美晴が孤立した。
 表面上は、それでも平穏な生活と関係が保たれていた。十年も暮らせば、一人欠けたからとて今更仲違いをするほどでもなかっただろう。――唯一その予想から外れていたのが、母だった。
「母親が、心密かに美晴を疑いはじめる、……だ」
 なにをというわけではない。敢えて言うならば、この娘を心から信用しても良いものだろうか、と唐突な不安が湧いてでた。湧いてしまった。
 うーん、と、胡蝶が唸る。
「疑うとか、嫌うとか、……むしろ怯えてる感じじゃないかな」
「だろうな」
 露骨な継子[ままこ]苛めが起こったわけではない。あくまで母個人の心中に、微妙な歪みが生じただけだ。娘を見る目に、疑心暗鬼の光が宿っただけだ。表面的にはなにが変わったというわけではない。もっと内側の奥底で、病巣のような、小さな歪みが生じただけだ。
[やま]しいのかな?」
「さあな。……生きてる奴のことは解んねえよ」
 独り言のように付け加えると、胡蝶は一瞬だけ眼を伏せた。
「俺たちが関われるのは死んだ奴らだけだ」
「そうだね」
 小さく、胡蝶が応じる。
 それ以上は敢えて触れなかった。彼女がそれを認めたくないのだということは解っていたが、触れたところでどうなる壁でもない。
 仕切り直し、の意味をこめて、椎名はわざと書類の文字を追った。
「まあ、その母親が藤倉美晴を疑いの眼で見てたってのは、重要ではあるよな。藤倉純の死においても」
「それが……未練、なのかな」
 台本を棒読みしているようなぎこちない言葉に、相棒はごく自然な独り言で応じてきた。
 ――未練。
 未練とはなんだろう、と、ときどき考える。死者が現世に遺してしまった想い、と、そんな辞書的な定義で満足しても良いものなのだろうか。
「下手すりゃこの、藤倉梓って妹も死ぬかもしれないってのが厄介だな……いつ死んでもおかしくない状況じゃねえか、これ」
 指先で書類を弾く。そんなことをしたところで、不都合な情報が書類から飛び出してなくなってしまうわけではないのは百も承知だったけれど。
「義理の母娘二人っきりになるのは、確かにあんまり宜しくない感じ。美晴さん云々っていうより、お母さん本人が……」
 言葉を重ねる椎名に胡蝶が応じる。そこでふと思い出したように、胡蝶は椎名を見た。こちらを向いた表情は困ったように歪んでいる。先に続く言葉を予想してはいたが、つきかけた溜息は飲みこんだ。
「あたしたち、生きてる人の話ばっかりしてる」
「……そうだな」
 両親と、三人の子供たち。父は既に死んでいる。三人の子供のうち、息子一人は死に、娘一人は死に瀕している。無傷で残っているのは、母と義理の娘。これから手がけるべき死者は、死んだばかりの息子一人だけだというのに――書類を読んで浮かび上がるのは、生者の思いばかりだった。
 問題があるのは、死者たる藤倉純ではなく、まだ生きている家族のほうだ。
 死者の未練を解きほぐすのが使命であるはずなのに、なぜ生者の思いを覗かねばならないのだろう。
「……単純に考えようぜ」
 よぎった思いを打ち消そうと、椎名は強いて、手許の案件を日常に引き戻した。
「交通事故で死んだが、自分の死を自覚していない。だが、死を理解したら理解したで、現世にたっぷり未練を残しそうな男。そういう奴だ」
「そーやってまとめてみると、なんかただのメンドクサイ人みたい」
 胡蝶が苦笑で応える。生きていようが死んでいようが、所詮人は人――死人と化した生者など誰でもメンドクサイものだ、と言い返そうかとも思ったがやめておいた。その返答も予想されているような気がする。
 改めて書類を眺め、溜息のように独りごつ。
 ――やりにくいな。

 死者には三種類居る。
 第一に、死後、自然の流れのままに輪廻に戻る者。第二に、未練を持って現世に留まる者。
 そして――第二の死者を輪廻に還すため、喪服を[まと]う第三の死者。
 黒い髪と紅い眼を持つ彼らは、「葬儀屋」を名乗っていた。


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