殺せと叫んだ。だから殺した。叫んだのは一体誰だっただろう。頭の中で膨張して、止める理性を圧したのは。――構うものか。得物を手放すなど、そんな選択肢は存在しない。叩き斬ろうとしたその刹那、上着の裾を引く小さな手。見あげる少女の眼差しに、血濡れの刀が手から離れた。 隣の席に気配がないと思ったら、また居眠りに沈んでいた。長身を椅子に凭せかけ、腕を組み俯いた姿。見慣れた無表情かと覗きこむと、苦痛に歪んだ横顔だった。思わず名を呼びかけた瞬間、突然相手が眼を開ける。恐怖めいた驚愕の色に、掛ける言葉を失った。――掠れた声で名を呼ばれた。 *************** 「そろそろ諦めようとは思わないのですか」諦める?「いずれ同じことです」同じ?「解りませんか」なにが。「残念です」嫌だ。「それは、解るのですね」いやだ。「無駄ですよ」タスケテ。「……もう、遅い」咄嗟に顔を庇おうとした右腕が墨色に染まり銀の弾丸に撃たれて爆ぜた。 「解りませんね」「解る気なんてないくせに」呟きに相槌が飛んできた。顔を上げると小首を傾げた相棒と眼が合う。挑発的な角度だった。「解ってるくせに解らないふりで、それ以上に解る気はないのよね」黙って微笑み返すと相棒は、諦めたように肩を竦めた。「君こそ解らないわ」 *************** 「許してやってくださいよ」その人は穏やかな苦笑いを零した。「貴女を遠ざけようとするだけの理性は残っているということですからね」「……どういうことですか」「解らないうちが幸せですよ、貴女にも彼にも」微笑みの裏に隠れたものの存在に、そのときは気づきもしなかった。 *************** 「だから言ったでしょう」「黙れよ」背中から聞こえる声は止まらない。「貴方の問題ですよ」理性は無くても意識は続く。「遣りようはあるはずです」だから全部憶えている。「貴方自身に、どうにかする気がないだけでしょう」切先から滴る紅も、紅を求める無意識も、まだ止まらない。 *************** 殺したいなら殺してみろよ。嗤う影に無言で斬りかかる。空を斬る。手応えの無さにもどかしくざわつく。頭の中が白く潰れる。恐怖も苛立ちも塗りつぶされて消えると同時、刃が袈裟懸けに身体を捉えた。殺戮の感触。次いで己が身から噴き出す痛みと紅に、目の前の影が確かに、嗤った。 *************** 大きな、壁のような、背中でした。来る者を拒み阻む背中でした。こちらを見もしない眼は刃物のようで、けれどときどきその奥に、危うい脆さを感じたのでした。だから。いつかこの手でその背中を撃ち抜いてしまう日が来るのではないかと、それだけがとてもとても怖いのです。 *************** 握った柄の先は、鍔を挟んで刃に繋がる。刃で斬った感覚は、だから直接手に伝わる。切先から緋色が滴るたびに、その感触を反芻する。ではあれは、なんだったのだろう。手から離れた弾が貫いた、無感覚。理解できない感覚を確かめるように、屍を、増やす。 *************** 並んでみると苦笑された。同じスーツじゃ代わり映えしねえ。贅沢言うな、制服よりマシだろ。臙脂のネクタイを緩めてからかうと、まぁそりゃな、と銀縁眼鏡が瑠璃色を締めなおす。鏡の前に同じ顔が二つ。色が違うだけ判りやすい。進む道が今日から少し、変わる。 *************** 聴こえないというのは言い訳だった。考えるのを放棄しただけだと解っていた。けれど結局同じだと思ったから、変える気もなかった。だから同じように得物を握って、同じように求めた、感覚。「ころさないで」混濁する理性を割って届いた声に、振り返る。名を思い出す前に、途絶える。 手遅れだった。手遅れという言葉そのものが、辛うじて繋がっていた自我の最期。主導権を奪われる。許されたのは只の五感。自分は、何に成ったのだろう。注ぎこまれる感覚を、ただ諾々と呑み下す。霞がかった思考とは裏腹に、提げた得物の感触ばかりが虚を満たす。誰かが、嗤う。 名を叫ばれた。自分の名だとは解ったが、誰の叫びかは解らなかった。その必要もないとばかりに、得物を握った腕が動いた。躊躇なく滑らかに振り下ろされた刃の向こうに少女の紅い瞳が見えた。間髪入れずに迸る緋色。手にこびりつく感触。這い上がる欲求。思い出せない、少女の名前。 銃声と硝煙に包まれた。痛みをたぶん、感じていた。微笑に苛立ち。こちらが向ける殺意など、柳に風と受け流してしまうくせに。憐憫めいた表情を叩き割るように、真正面から貫いた。微か見開かれた瞳の形に、ほんの僅か満たされる。視界を染める紅色は、一体誰のものだろう。 顔も名前も知っている。声も性格も知っている。関係性も知っている。けれど思い出せなかったのだ。ただ単純に、感触を欲してしまったのだ。衝き動かす無意識に勝てなかったのだ。ようやく離した刀は紅い。ぬめる手が触れたのがもうただの物体にすぎないことまで、知っている。 乾いた音が鳴る。じっとりと服が重みを増していく。空をいくら仰いでも、垂れ込めた雲の重みは揺らぎもしない。足許から冷たい水に侵されて、眼に刺さるような雫を受けて、ただひたすらに考える。これだけ濡れれば浴びた緋色も、なかったことにならないだろうか。轟音が耳を塞ぐ。 もうなにも変えられない。全て疾うに終わってしまった。目を閉じたまま、暗闇の中しばし微睡む。目覚めて次に出遭うのは、緋色の地獄か見知った笑顔か。終わりが来たのは確かなのに、終わりの姿がわからない。見極めるのも恐ろしく、閉じた瞼を開けない。眠りのその下へ墜ちていく。 考えるのも億劫だった。身体に力が入らない。黒いスーツは濃さを増し、得物を握った手は生温くぬめる。足音に顔を上げると銀縁眼鏡と眼が合った。嗚呼、終わらせてくれるのか。ぼやけた視界の中の表情は、軽蔑か愁いかも読み解けない。どうでも、良い。もうなにもかもが終わるのだ。 |