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葬儀屋
「switch」


 読めない死人だ、と常磐は隣の空席を眺めた。
 座るべき住人が離席しているのを良いことに、じっと見つめて彼の姿を描いてみる。デスクに向かう、不機嫌そうな長身痩躯。実物ならばこの凝視を疎ましがるに違いなかったが、想像の幻は頬杖をついたまま微動だにしなかった。
 異動で相棒が去って数日――新たに隣に座ることになったのは、新人の喪服だった。
  数日共に過ごした程度で相手の全てを読みきることが不可能だということくらいは承知している。だがそれにしても読めなさすぎた。この紅い眼も鈍っただろうか、と自嘲的に投げてみたが微苦笑で打ち消した。冗談にしても笑えない。くだらないことを考える暇があるのなら、なぜ「読めない」と感じるのかを分析したほうが生産的だ。
 脚を組みなおし、初めから検討する。――性格は解りやすい。面倒臭がりで攻撃的、人づきあいが不得手で無愛想。この仕事をしていくには致命的だが、捌くべき死者が十人十色である以上、この性格でなければ対処できない者も居るだろう。その点はさほど問題にしなくて良い。そもそも性格は読めているのだから、考えるべき問題はそこにはないのだ。
 相棒の幻を透かして、向こう側の壁を見る。そこに一振り、オフィスには不釣り合いな日本刀が立てかけられていた。長身に合わせて[あつら]えたような、長く無骨な日本刀。
 喪服の死者は例外なく、武器を帯びて二度目の生を受ける。九割がたが銀の銃を携える中――彼は刀を帯びて現れた。そして駄目押しのように、自ら固有名詞を名乗ってきた。こちらから、死後に名乗るべき一般名詞を与える前に。
 なぜ刀なのか。
 なぜ固有名詞なのか。
 問うたところで彼に解るはずもない。彼にとって、その名は疑問の余地もないほど絶対的なものなのだ。呼ぶべき名が変わったと報告したとき、上司は眉を顰めて不審そうな表情をしていたけれど。そんな馬鹿な、あるはずがない。小さな呟きに、しかしそれが事実ですと応じかけた言葉は呑みこんだ。否定の相槌を打ったところで、記憶と共に消し去られているはずの固有名詞をなぜ口にすることができたのか、その答えを用意できるわけではないのだ。
 刀はまだ、一度も鞘から抜かれていない。始末の絡むような仕事を、喪服を着はじめて数日の新人に振るほど非常識な上司ではない。だが刀を眺める相棒の眼は、恐れとは別の感情を孕んでいるように見えた。刃物の向こうになにかを探しているような、どこか虚ろで暗い眼差し。空虚な中にもはっきりと墨色を淀ませた横顔。内面を読みづらいのは、その淀みのせいだろうか。その淀みを、彼本人は自覚しているのだろうか。
 なにも起こらなければ良いのだが――。
 近づいてくる気配に思考を止めた。いずれ結論など出ない不毛な謎掛けだ。
 振り返ると、書類を小脇に抱えた椎名がこちらに向かってくる。条件反射で微笑を向けると、露骨に顔をしかめられた。
「どうされました」
「……反応が早すぎるんだよ、あんた」
 声を発するのも面倒だと言わんばかりの態度で呟いて、ばさりと書類を机上に投げる。死者の履歴書が十人分広がった。椅子を軋ませて座る相棒に苦笑を投げる。
「振り向いただけで文句を言われてはかないませんね」
 椎名はなにも言わない。書類を広げ、気のない眼で内容を確認しはじめる。名前に写真、死因、現世滞在理由――。機械的に手を進める新人を、少しだけ試してみたくなった。
 十枚目の書類に手を掛けた頃を見計らい、問う。
「どなたから捌きますか」
 椎名が顔を上げた。物音がしたのでその方向を見た、という風情だった。
 微笑んで、椎名の手許を指差す。紅い視線がつと落ちる。
「その十人の優先順位、貴方ならどうつけますか」
 椎名は答えもせず、ただ書類を眺めていた。ただ小刻みに視線が動いているところを見ると、考えてはいるようだ。時間はどれだけかかるだろうか。それもまた、性格を測る物差しになるかもしれない。試しに当ててみようか。恐らく、そう長い時間はかかるまい。せいぜい二分弱だろう。そう読んだ瞬間、椎名が書類を一部摘んだ。差しだされた書類を受け取る。――有川誠。やや長めの癖毛。どちらかといえば中性的な顔立ちの男だった。年の頃は、常磐より少し上といったところだろうか。仕事で心身ともに過労状態になり、電車を待つ駅のホームでバランスを崩して線路に落下、人身事故を起こし死亡。
 顔を上げると、椎名が無表情にこちらを見ている。
「なぜこの方を」
「死にたてだ」
 問うと一言で返された。書類の続きを読む代わりに真正面から見つめると、椎名は視線を逸らし、取ってつけたように注釈した。
「死んで三時間経ってない。これだけ早けりゃ行くのも早いほうが良い」
 言われて見ると、確かに死んで三時間以内の魂だった。これだけ早く書類が上がってくるのは珍しい、と単純に感心した。恐らく上司の手許にあった最新の書類だろう。
 溜まったメールは新しいものから返信する――機械的で確実な方法だ。
「新人の着眼点としては悪くありません」
「褒めてはいないんだろうな」
「貴方らしいと思っただけですよ」
 軽く流して書類も椎名に返す。怪訝そうに受け取る相棒に、常磐は微笑んで次の問いを掛けた。
「どう捌きます」
「……どうしても俺にやらせたいんだな」
「新人教育には実践がいちばんです」
 教育としても、相手を知るためにも――そこまでは口にしない。椎名が眉間に小さく皺を刻んで不満の意を示したが、気づかないふりをした。そもそも、もとから常に機嫌の悪そうな顔つきをしている青年だ。表情から読むほどに機嫌が悪いわけではないだろう。
 椎名が書類に視線を落とす。眉間を軽く指で叩く。常磐はそれを、脚を組んで眺めている。文句を言いながらも、言われたことはきちんとやる。案外真面目な性格かもしれないと思った。
「過労で人身事故を起こしたサラリーマン」
 独り言のように、やがて椎名が口を開く。
「……事故自体は望んだものじゃないだろうが、死んだんだったらある意味解放されたも同然。その路線で誘導する」
「なるほど」
 頷いた。悪くない。
「その路線で捌きますか」
 返事の代わりに、椎名は書類を見たまま小さく溜息をついた。棘のある言葉が返ってこないということは、しいて反抗してみせる気もないということだろうか。反抗したところで意味がないと悟ったのかもしれない。この手のやりとりは、椎名と常磐が組んだその瞬間から続けられてきたものだけれど。
 計画を立てたところでその通りにいくかどうかは判らないのがこの仕事だが、なにかがずれればこちらで修正をかければ良いだけの話。そのための「先輩」だろう。いずれ目のつけどころは悪くないのだ。巧くいけば腕の立つ「葬儀屋」になるかもしれない。
 椎名の手から書類を取りあげ、斜め読みして内容を頭に入れた。
 顔を上げると相棒がこちらを眺めている。笑いかけたところで、せいぜい無視されるか眼を逸らされるかの二択だと解ってはいるが、染みついた表情は拭うほうが難しかった。
「行きますか」
 立ち上がると、溜息交じりに椎名が続いた。そして無造作に手を伸ばし、壁際に立てかけた刀を取ってベルトに捻じこむ。そろそろ見慣れてきた一連の動作を眺める。
「……刀の要る仕事でもないでしょうに」
「あんただって毎回銃を提げてるぜ」
 思わず漏れた呟きに、椎名は顔を上げ無表情で切り返した。
 そう――万一の備えだというのなら、常に携帯しておかなければ意味がない。銃にしても、もちろん刀にしても。だが、なんだろう。椎名が提げる刀には、備えという以上の意味があるような気がしてならなかった。
 ジャケット越しに、常磐は銀の銃に手を触れた。新人と組みはじめたからだろうか、これを遣う機会も随分と減った。だがまた増えることになるかもしれないと、漠然と予感する。
 椎名の言葉には応えず、唇だけで、笑った。
「……行きましょう」

 読めない死人だ、と椎名は相棒の背中を眺めた。
 喪服を着せられはじめて数日、先輩たる常磐について見よう見まねで仕事をこなしてきたが、彼の人となりは今ひとつ判然としなかった。
 有能なのだ、ということは解る。言葉や態度の端々から読み取ることができる。しかし常に浮かべた微笑には、なにか裏がありそうな気がしてならなかった。人形のように整った顔に、穏やかな微笑の仮面。詳細な書類になって手許にやってくる死者たちよりも、よほど不気味な存在だった。しいて言うなら読めない死人だということが彼のアイデンティティなのかもしれない。それとも、相棒としてともに過ごせば、いずれ彼の表情も読めるようになるのだろうか。――否、余計なことを考えるのはやめておいたほうが得策だ。仕事中は死者のことだけ考えていれば良い。面倒事をいくつも抱えこむのはごめんだ。ただでさえ、理解できない面倒事を常に抱えているというのに。
 死者の居座る公園の入り口に立ったところで、常磐が不意に振り向いた。面食らい、一瞬遅れて立ち止まる。三歩分は空けていた距離が、一歩に縮まった。
 常磐の肩越しにブランコが見える。その脇に座りこんでいる男が見える。なぜかごく自然に、刀の柄に手を触れていた。
「どうぞ」
 視線を手前に戻すと、あの底の読めない笑みに迎えられた。訳が解らず立ち尽くしていると、常磐は表情を崩さず言葉を継いできた。
「貴方から声を掛けてください」
「……あの死人にか」
「僕は後方支援に回ります」
 実践せよ、ということらしい。
 涼しげな白い顔。黒々とした髪。彼の顔が人形じみて見えるのはなぜだろう。喜怒哀楽は判るのに、突き詰めればどれも似たように見える。同じ表情ばかりを遣って変えないからか。それとも単に顔立ちが整いすぎているだけなのか。
 相棒をしばらく見つめ――椎名は黙って、頷いた。もとより断る理由も権利もないのだ。常磐の横を通りすぎたその瞬間も、彼の横顔は同じ微笑を刻んでいた。
 マンションに囲まれた小さな公園に、ジャングルジムと滑り台。風に軋むブランコの脇に、髪を乱したジャージ姿の男が一人座りこんでいた。スーツを着ることも身嗜みを整えることも、頑なに拒否したような格好だった。自分の喪服をふと見下ろし、随分と対照的な格好だと思う。片や投げ出したような部屋着、片や堅苦しい正装。
「有川誠さん」
 ぎこちない敬称で一声呼びかけると同時、死者は顔を上げて椎名を見た。長身痩躯、紅い眼を持った喪服の同類――認めた瞬間、弾かれたように立ち上がった。反射的に歩みを止める。見開かれた黒い両眼。――恐怖?
「く」
 一文字発して硬直する。後ずさった左脚がブランコの柵を透かした。零れそうな両眼が椎名を凝視している。半端に開いた口が痙攣している。
 なんだ。なにが起ころうとしている。予想外の反応だな、と自分のどこかが冷静に判断する。意識が追いつくより早く、
「く……来るなあああアぁァ!」
 眼前で男が絶叫した。
 ――知っている、この情景。
 かちり。
「もう沢山だ、沢山だ、もう……」
 顔を歪めて継いだ喚きは聞いていなかった。自分の奥深くで回路が切り替わる。このあとなにが起こるかは解っている――死ヌ。殺サレル。真ッ赤ニ染マッテ死ヌノダ。顔を覆った死者が、指の隙間でふと表情を強張らせ口を噤む。その眼を見る。あの叫びを発した――コノ男ニ。右手が刀に伸びていた。すらり、引き抜いた刃はしらじらと冷たい。邪魔な鞘は投げ捨てた。腰が軽くなる。
「やめてくれ」
 微妙に響きを変えた死者の声、は、聞こえない。見えない。そんな平和な対象は存在しない。凍りついた標的へ間合いを詰める。脳内で蛍光色の警告灯が瞬く。絶叫は言葉にならない。だが意味だけは解っていた。叫んだこのあと、右手を振り上げてこの男は――。
 それなら殺せば事足りる。
「椎名」
 鋭く名を呼ぶ声が駄目押しになった――そうだ、それが俺の名だ――刀を構えて地を蹴る。獣の咆哮を聞いた、気がした。
 踏み出した一歩に体重をかける。立ち上がったはずの死者は、振り上げた刀を凝視したまま動かない。本能的な恐怖の表情を打ち砕くように、肩口から袈裟懸けに斬り裂いた。叫びと赤が迸る。生温い液体を正面から浴びる。鉄の匂い、鉄の味。どこか遠くで不愉快な耳鳴りを聞いている。内側から打ち砕かれるような頭痛。――よろめき倒れる死者の脇に、弧を描いた赤が血溜まりを作る。嗚呼、ああ、悲痛な呻きが耳を刺す。救いを求めて腕がでたらめに彷徨う。――まだだ。煩い。もっともっと。暴れる右腕を薙ぐと噴水が上がる。刀を握った腕がじっとりと染まる。硬直した手首が落ちる。呆けたような一瞬の間を置いて再度絶叫が耳を刺した。痙攣する身体に歩み寄る。零れそうな眼に焦点はない。恐怖に満ちた眼差しが椎名を捉えきる前に、刀を振り上げ突き立てた。鈍い音、短い断末魔の向こうに硬い手応え。骨?
「椎名!」
 耳慣れぬ声に振りかえると、喪服の優男が視界に飛びこんでくる。予想外に近い位置――いつの間に。純粋に驚くヒトの意識と、――まだ立って動いているヒトが居る。獲物を捉えた獣の意識が交錯する。突き立てた刀を引くと、粘着質な音とともに抜けた。柄を握った右手が紅い。怪我などしていないのになぜだろう、と遠くで訝る。ほたり。切先から紅が滴る。真っ直ぐな刃は斑模様に染まった。邪魔な雫を振り払う。砂の敷き詰められた地面に点々と水玉が散った。
「やめなさい、と言って聞いていただける状態ではなさそうですね」
 声の冷たさも口調の重さも視線の鋭さも、意識を素通りした。観察者の冷静さが疎ましい。右手の刀の重みだけが現実だ。喪服は立って動いている。それなら早く斬り捨ててしまわなければ。早く。早くしないと、――。
 ゆるりと構えると同時、相手がホルスターから得物を抜いた。銀色に光るそれは、銃。ヒトゴロシの道具。頭の芯がかっと熱くなった。――早くしなければ。早く。あんなものを持っている。刀を肩口に振りかついで間合いを詰める。叫びは言葉を忘れていた。一刀に斬り伏せようとした刃が空を斬る。バランスを崩した身体の真横で、ゆるりと柳のように閃いた黒衣が見えた。踏みとどまった片脚を軸に再度斬撃、それも耳障りな金属音に阻まれる。重い刀を受けとめたのは、当たり前のように首筋に添えられた銃身だった。冷酷な紅い眼が横目でこちらを観察している。ぎちぎち、不愉快な音を嫌い刀を弾く。手首を返し反対側へ、しかしそれも同じ音に止められた。ぎり、と奥歯が苛立たしげに軋む。再び地を蹴り間合いを取って突きを入れた瞬間、鴉が口を利いた。
「聴こえないようですね、椎名」
 気づけば黒い影が反対側に佇んでいる。それがヒトの言葉とやらか。無言で腰を落とし刀を構える。血に曇った刃にあの喪服のそれはない。まだだ。まだ足りない。長い脚が二歩を歩む。はだけたジャケットの下で黒いネクタイがはためいた。結び目が視界にちらつく。シャツの色が変わっていた。顔を上げると銃の銀色が光を撥ねた。邪魔だ。なにもかも。能面めがけて斜めに振りおろした刀身は掠りもしない。足許を払う。容易く飛び越えたそのままの勢いで、相手はこちらに銃口を向けた。身体から離れた得物を叩き落とそうと再び刀を振るが、軽く下ろした手の上を虚しく滑っただけだった。舌打ち。苛立つ。見えた眼差しは憐憫の色を帯びていた。憐憫――誰を、なにを、憐れんでいるというのか。
 ――俺は誰だ。
 意識は確かに、ヒトの言葉で自問した。視線を落とす。柄を掴む骨ばった両手。そのとき相手を見ていなかった――銃声が爆ぜた。
 ぐっ、と、喉の奥から呻きが漏れる。
 咄嗟に右肩を見る。黒いジャケットがじっとりと濡れている。血だ。あれほど望んだはずの血液――熱い。痛みか。焼け火箸のようなこれは。身体が大きく右側に傾ぐ。左手で覆うと指の間を侵食する赤が返り血と混ざりあう。右手の刀を杖代わりに、地面に深く突き立てる。反射的に正面を見た次の瞬間、銃声とともに左脚が崩れた。喉から一言、塊のような叫びを吐く。刀もバランスを崩した。そのまま地面に平伏す。焼かれる脹脛。空いた左手で地面をがりりと掻く。右手に感覚がない。漏れる呻きは文字にもならない。右肩と左脚で、血溜まりが嬲るような緩慢さで面積を広げる。――痛い。熱い。思考は形を取らない。原始的な苦しみだけが圧倒的な重みで覆いかぶさる。脂汗が不快だ。はっ、はっ、はっ、呼吸音が耳に煩い。馬鹿馬鹿しい。死人の分際で喘いでいるとは。
 霞みがかった聴覚に、死者の靴音が木霊した。
「こうしないと解りませんか」
 視線だけで辛うじて斜め上を向く。焦点が合わない視界の中に、黒い喪服が佇んでいた。表情は見えないが誰かは判る――ときわ。そうだ。常磐だ。
 なにも言わずにこちらを見下ろしている表情を読もうと、霞む眼を細める。頭が重い。わずかな輪郭を得た相棒が浮かべていたのは、――。

 読めない死人だ、と、常磐は意識を失った相棒を見下ろした。
 なにが起こったのか解らなかった。過労の末に事故死したサラリーマンが、喪服姿からスーツと仕事とを連想して、恐慌という過剰反応を起こしただけだ。ただそれだけのこと。その様子を見て狼狽えるならまだ解るが、相手を惨殺するとなると常軌を逸している。
 ちらりと、有川誠だったモノを見遣った。伸ばした片腕を斬り落とされ、肩口に転がした姿で二度目の死を経験した死骸は、「葬儀屋」にとっては見慣れた当たり前の過程を経て輪廻へ還ろうとしている。視線の先で、真っ赤な肉塊は輪郭を透かし、至極平和に消えていった。それを最後の一片まで見届けた。それが義務だと、なぜだか思った。
 黙って椎名に視線を戻す。顔を凄絶に歪めたまま、相棒は自分の血の中に倒れ伏して動かない。この程度で死にはしないだろうが、と思い、その発想の矛盾に気づいてひっそりと苦笑する。随分と久しぶりに表情を変えたような気がした。何気なく額に手を遣り、思わずその手を目の前に見つめる。僅かに汗ばんでいた。
 椎名の右手はしっかりと刀の柄を握っている。――得物に喰われたか。それとも別のなにかに喰われたから、この得物とともに現れたのか。
 考えたとて意味はない。
 しばし逡巡してから、常磐はゆっくりとしゃがみこみ、黙って椎名の左腕を自分の肩に回した。まずは連れ帰らなければどうしようもない。上司にこの事態を報告しなければ――その後どんな事態が待ち受けているのか、想像もつかなかったけれど。
 意識のない相棒を肩に担ぎ、片膝を立てて姿勢を整える。仕事場に戻るだけなら、立ち上がってまで運ぶ必要はない。とりあえず自席に座らせることができれば充分だ。その前に医務室へ行くべきだろうか。医務室に彼を預けて、それから上司に報告に行けば良い。処理も判断もその後だ。むしろその決定をするのは上司であって常磐ではない。そう思うと、平局員というのは随分と楽な身分だと思う。
 担いだ相棒から染み出す血液が、スーツの肩を不快に湿らせる。乱れた黒い髪の奥で、椎名は眉間に皺を刻み、瞼を固く閉じている。よく見ると脂汗が浮いていた。唇から譫言が漏れていないのが不思議だった。
 椎名の右手は長い刀を引きずっている。
「悪夢でも見ているんですか」
 真横で項垂れる横顔に独り言じみた言葉を投げてから、そっと眼を閉じ班室を思い描く。――これが総ての始まりになると、漠然と予感している自分が居た。

――了


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