葬儀屋
「side B」


 書類を読んで、懐かしい、と思うことが多い。
 書類の中の死者たちは、誰も彼もが穏やかな顔をしている。それは例えば、自分の死をすっかり受け入れてしまっていて、あと必要なのは「葬儀屋」の来訪ではなくほんの少しの時間だけだという魂。あるいは、ほんの少しの話し相手だけを必要とする、大往生に近いような魂。仕事の難度はその対象の年齢に反比例するということを、胡蝶は「葬儀屋」になって間もなく肌で感じた。若ければ若いほど、自分の終わりが見えていないほど、生そのものに執着するのだろう。それはなんとなく、理解できた。
 懐かしく思うのはなぜだろう、と、ぼんやりと思う。考えるまでもなく思い至った。大した手間のかからない仕事は、なんということはない、新人を擁する組によく回されるものだ。胡蝶自身が喪服を着はじめて間もない頃、よく任された仕事。それなら懐かしくて当たり前だろう。
「手、止まってるわよ」
 隣から、声。聞こえた方角と、そこから聞こえるべき声とが噛みあわず戸惑った。違和感を呑みこめないまま振り返ると、狭霧の端正な横顔があった。女性にしては確かに長身だけれど、その席に座るべきひとと比べれば随分と小柄に見える、彼女。
 ああ、そうだった。
 胡蝶は肩の力を抜いた。狭霧だ。
 血飛沫を浴びて壊れきった相棒は、なんだかよく解らない大義名分のもと、班長の許へ引き取られていった。ぽつりと残された胡蝶の許には、代わりに班長の相棒たる狭霧がやってきた。ごくシンプルな、子供騙しのような入れ替えだ。その子供騙しにきっちりと騙されていることは、否定できなかったけれど。
 書きかけの報告を放りだして、狭霧の横顔を眺める。銀色のロングピアスが、ショートヘアの奥で揺れていた。銃と同じ色だ。そう思って、見るのをやめた。
 軽やかな人だ、と思う。彼女と組むのは――否、そもそも椎名以外の人間と組むのは初めてだ。椎名も決して口数が多いほうではなかったが、それとはまた別の意味で、あまり多くを語らないひとだった。けれどそれをありがたいと感じていることに気づいたとき、ああ、優しいひとなのだ、と思った。きっと相手の状態によって、言葉もその量も使いわけるひとなのだ。
「なに考えてたの」
 ほら。
 こうして絶妙なタイミングで、欲しかった問いを挟んでくる。こちらを見もしないで、ただ口許を優しく微笑ませて。
 胡蝶はペンを置いた。椅子を回して彼女に向き合った。
「……狭霧さん」
 膝の上で手を握りしめた。
「あたしたちって、なんなんですか」
 狭霧はペンを止めて、そのままの姿勢でこちらを見た。フラットな瞳だ。ただ先を促すだけの。
 視線を下げると、自分の小さな手が見えた。皮膚に蒼い血管が薄く透けて見える。まるで生きているかのようなデザインに、違和感を覚えた。
「一度死んでるはずなのに、また生き返って、……そうしたらまた死ぬってことじゃないですか。死ぬとか殺すとか殺されるとか、なんでそんなこと、またしなくちゃいけないんですか」
 きぃ、と、狭霧の椅子が軋んだ。四分の一周回って、身体ごと胡蝶に対峙する。俯いた視界の端にハイヒールの爪先が見えて、それを悟った。
「胡蝶」
 名前を呼ばれた。
「私たちは死んでるの」
 諭すように言われて顔を上げた。見たこともないくらい、穏やかな顔だった。けれどなぜか少しだけ、寂しそうにも見えた。
「私たちは生きてはいない。ただ、意識を持つことを特別に許可されていて、その意識が『自分は存在する』と思いこんでいるから、形を持っているだけ」
 彼女のこの表情も、すらりと綺麗な身体も、全部。
「形なんてなくて、全部思いこみでできてるの。本当に正しく生まれなおすまでの間ほんの少し、人様のお役に立ちなさい、ってね」
「役に立たなかったら」
 思わず口を挟んだ。
「どうなるんですか」
「どうもこうも」
 それすら予測していたとでも言いたげに、苦笑して肩を竦めてみせる。
「役に立つように遣うのが班長の仕事。でもまぁ、そうね。そうはいっても、意識を持たせた責任は御偉方にあるんだし、強制排除にはならないんじゃないかしらね」
 詭弁だ、と反射的に思った。
 強制排除くらいのことは、きっと涼しい顔でやってのける。組織の上位層というのはそういうものだ。胡蝶にしろ彼にしろ、あくまで末端の駒であり、歯車に過ぎないのだから。まして形の無い非存在に過ぎないのだから。やろうと思えばきっと、いとも容易く抹消されてしまう。
 ――抹消?
「そんなことどうでも良いのよ」
 警告色の思考を、悠長な言葉が停止させた。
 掌が痛い。
「結局ね。誰の都合か知らないけど、意識持っちゃった以上は好き勝手やらせてもらうわ。私も、君だってそうでしょ」
 好き勝手。
 そうかもしれない。
「そこは生者と同じだし、そう思って良いところだと思ってる。別に生者だって生まれたくて生まれるわけじゃないし、意識と身体がある以上、好き勝手にやってるだろうし。――だからね、胡蝶」
 小首を傾げて手首を返す。すんなりと伸びた人差し指は、まっすぐにこちらを向いていた。
「なんか言いたいことがあるなら、ちゃんと言って良いのよ」
 ――あたし?
 頭を占めていたのは相棒のことだった。顔であり、声であり、言葉だった。不愛想で不機嫌そうな表情。ときどきどきりとするほどの凄みを含ませた低い声。恐ろしく不器用な言葉。そしてそれを全部失った、殺人衝動の塊。言葉も通じない、声にもならない叫びばかりの、凄絶に歪みきった顔の、あれは。
 大丈夫だ、と思っていたのだ。
 けれどもう駄目だ、と思った。
 けれどどうしても、駄目だと思いきれずにいる。
 だって。
 ――殺されたくないなら、此処だけは避けるべきだ。
 あんなに、拒絶していたのに。
 ――お互いさまだ。
 あんなに、諦めた顔をしていたのに。
 ――ほどほどに、正直になれよ。
 ちゃんと、他人の苦しみを解っていたじゃないか。
 それで、あの血飛沫が消えるわけではないけれど。
 そんなことばかり考えていた。彼のことでいっぱいだった。なんとか呑みこもうと思った。きちんと理屈をつけて、納得しようとした。そうしないといけないと思っていた。それが義務だと思っていた。相棒としての責任だと思っていた。自分のことなんて、すっかり忘れていた。――あたし? 椎名君じゃなくて、あたしの話?
 まぁねえ、と、狭霧はしいてそうしたような苦笑いを漏らした。
「とんでもないことをしでかしてくれたのは事実だから。しょうがないといえばしょうがないんだけれどね」
 見て、聴いてしまったのだ。
「でも、あれは彼のごく個人的な問題。胡蝶が庇いだてする必要はそもそもないの。そうでなくたって、すぐに整理がつくようなことじゃないけどね、あれは」
 ぐちゃぐちゃに斬り刻まれた人体を。共に過ごしてきたはずの相棒が、それを行う過程を。真っ赤に染まった身体と部屋と、それを浴びても愉悦を崩さなかった顔を。人の言葉とは程遠い叫び声を、耳を塞いでも鼓膜を侵す生々しい音を。どんなに呼びかけてもこちらに戻ってこなかった、虚ろな身体を。
「でも」
 意識をこちら側に引き戻すのに、酷く消耗した。
「わからないことを、わからないままで置いておくくらいのことは、良いんじゃないかしらね」
「……わからないこと?」
 問い返した声が半端に掠れていた。
「そうよ、私だって、常磐のこと全部解った上で組んでるわけじゃないもの。無理でしょう、あれは、さすがに」
 少し、笑った。相棒でも解らないことがあるのか。
 だからね、と、狭霧が柔らかく続ける。耳に心地良い、ことばだった。久しぶりだ。こんなことばを聴いたのは。そんなことばを受け入れたのは。
「別に、無理に整理つけなくたって良いの。どうして良いのか、どうしたいのかわからなくっても、全然悪いことじゃないんだから。無理にやろうとしたほうが、辛くなることだってあるんだから」
 死んでいるくせに、存在している。そんな矛盾を、そもそも抱えていたではないか。
 ――良いんだ。わからなくても。
「椎名に愛想尽かして別の人と組みたいんなら、彼のほうはたぶん常磐が引き取ってくれるとは思うけれど。そうじゃないんでしょ?」
 ふるふると首を振った。ものも考えずそうしてしまってから、他人と組む、などという選択肢が最初から存在していなかったことに気がついた。
「なら、難しいことはあとに置いときましょ」
 にこり、と狭霧がいつもの表情で笑う。
「混乱してるときに考えたって、あとで使い物になった試しがないからね。案外顔見てやっと、整理がつくかもしれないわよ」
 言いながら書類を一枚摘んで、当たり前のように手渡してくる。
 手を伸ばして、受け取る。日常の象徴だ。あんな異常な空間ではなくて、いつもの班室に居るのだ。ただ、隣人が違うだけで。
「とりあえずはもっと、自分のほう大事にしなきゃ」
 受け取った書類の写真を見て、またお婆さんだ、と思った。きっと一仕事終えたあとに、胸のどこかがじんわりと温かくなる類の死者だ。こんな死者ばかりを回してくるのは、それはたぶん、あの班長が意図的にしているのだろう。
「少なくとも、離れたいとは思ってないわけでしょう。離れなきゃいけない状態なら、それこそ常磐がなんとかするわ。それが彼の仕事だからね。現に今はとりあえず、引き離してある。でもそこに来たのが彼の相棒たる私だってことは、この状況がずっと続くってことは考えにくい。そうじゃない?」
「……はい」
 書類の字が、滲んでいる気がした。たぶん気のせいだと思ったから、ごしごしと擦ってごまかした。
「大丈夫、なるようになるわ。だって、あの椎名とこれだけ長く組んでるじゃない」
「……はい」
 きぃ、と、また狭霧の椅子が鳴った。軽やかな、四分の一周の逆回転。
「さて、仕事仕事」
 死者の繰言聞いてるうちに、なにかすとんと腑に落ちるかもしれないしね。できることからひとつずつ。――独り言めかした言葉の軽さが、なぜだか嬉しかった。
 書類を持つ手に、力をこめる。
 顔を見ないと言葉が浮かばないというのなら――椎名の顔を見たい、と、思った。

――了


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