先刻から存在感を主張してくる眠気に抗いかねて、椎名は思わずボールペンを置いた。欠伸を噛み殺しながら――これは単に、書類を書くという単調作業に飽きたということなんだろう、と冷静に自己分析をする。済ませたばかりの仕事の内容を報告書に書き起こすという行為は、創造的に見えて案外単調だ。そもそも、振られる仕事自体、そう突飛な魂は混ざっていないものである。毎日毎回違う魂と向きあっていても、書き上げる報告書は自然と似通ってくる。それともこれは椎名の文章力の問題なのだろうか。 休憩時間と勝手に決めて天井を仰いでいると、不意に隣からコーヒーの匂いがした。横目で眺めると、マグカップを二つ持った胡蝶が斜めに見える。彼女が片腕を動かした気がして、椎名は思い出したように身体を起こした。頭がくらりとする。 「ブラックだったよね?」 右手に持ったブラックコーヒーのカップを、胡蝶が当たり前のように差し出している。 「は? ……ああ」 思わず手を伸ばして受け取った。胡蝶はにこりと笑って、いつもの席に腰を下ろす。――彼女は確か紅茶派だったはずだ、と思う。ミルクかレモンかストレートか、飲みかたの好みまでは知らなかったけれど。 胡蝶の眼が椎名の机上に留まる。言いたいことなど、口を開く前から予想がついた。 「書けた?」 「まさか」 幾分面白がっているような問いに、一言きりで答える。――礼を言い損ねた、という呟きが頭の隅に掠めた。 まだ半分しか埋まっていない書類を一瞥する。しぶとい眠気を考えると、先は長そうだ。 「あんたのほうが得意だろ、こういうのは」 「だって今日のは椎名君のほうがよく解ってるでしょ」 それも予期していた答えだ。今回の仕事を仕切っていたのは確かに椎名なのだから、反論の余地もない。 黙って、マグカップに口をつけた。面白味もないインスタントの風味はいつもと同じだったが、少し熱く感じる。いつもは冷めてから飲んでいるからだろうか。コーヒーを取ってきても、飲むのも忘れて放置していることのほうが多い。 「どういう風の吹きまわしだ」 「なにが?」 自分のカップに口をつけていた胡蝶が、きょとんとして顔を上げる。無言でカップを示すと、彼女は笑った。 「飲んでから言うんだ」 「関係ねえだろ」 「別にー。いま椎名君に寝られたら困るなって思っただけ」 澄まし顔の手の中で、ミルクティが湯気を立てている。彼女はミルク派だったようだ。砂糖は入れるのだろうか、ということが妙に気になった。――それにしても、意外に顔を見られていたらしい。眠気に襲われていたのは事実なのだから。 こちらに向けていた椅子をデスク側に向けなおすと、胡蝶は書類の仕分けと確認に戻っていった。たぶん彼女にやらせておけば、事は無難に進むだろう。少なくとも、楽な仕事を選り分けて、残りを常磐に突き返す方法を検討するなどという不毛な行為に走る真似はしないはずだ。 彼女の横顔を眺めながらコーヒーを口にして、――妙な状況になっている、と思う。 ほんのいくらか前までは、自分のすぐ隣に他人が座っているという状況自体に耐えられなかったはずなのに。なぜ気がついたら、他人から貰ったコーヒーを呑気に啜ってなどいるのだろう。 書類の隣にカップを置いた。 ――調子が狂う。 否、そもそも「調子」とはなんだっただろうか。能動性の欠落した自分に、むきになって守るべき自己などあっただろうか。 ――やりにくい。 ぼんやりと頬杖をつこうとしたとき、腕がカップに当たった。派手に傾いたのを見て、しまった、と思う。倒れる寸前で堪えたものの、中の液体は慣性に抗しかねた。黒い粒が飛んだ、と思ったときには既に遅い。 かたん、とカップが音を立てる。 「あーあ」 こちらを向いた胡蝶が大袈裟に声を上げた。ワイシャツに点々と染みが飛んだことを、彼女の声で悟る。書類もデスクも無事なのは結構なことだが、飛ぶならせめてネクタイかジャケットにしてくれれば良かったものを――なぜよりによって、白いワイシャツにコーヒーの飛沫が飛ぶのか。 ただ覚悟して見てみると、思ったほどの量ではなかった。いくつか小さな点が散っているだけだ。放っておくか、と安心して判断しかけた心中を見透かすように、胡蝶が鳩尾の辺りを覗きこむ。 「染み抜きしなきゃ残っちゃうよ」 「大したことない」 「いや、ちっちゃいから逆に目立つんじゃないかな」 言うだけ言って、からかうような眼で顔を上げる。 「お疲れですか?」 「……まあ、そりゃあな」 勤務中に眠気を隠さない程度には、疲れているのだろう。それを知ってか知らずか、相棒はくすくすと笑った。 「疲れてないときのほうが珍しかったりして」 「誰のせいだよ」 「え、ひどいなー、どっちかっていうとあたしの台詞じゃない、それ?」 言うだけ言って、応急処置とばかりにティッシュの箱を押しつけてきた。ないよりマシでしょ、と付け加えてまた笑う。よく笑うのもいつものことだが――それにしても、彼女はいつも、どこからともなくいろんなものを出してくる。 よくそんなにたくさんのものの在り処を把握していられるものだ、と、半ば呆れてティッシュの箱を見た。椎名など、仕事に使う最低限のものしか場所を把握していないのに。コーヒーなら辛うじて場所がわかるが、紅茶がどこに置いてあるのかなど考えてみたこともない。 胡蝶がひどく広い世界の住人に見えた。――否。考えすぎだ。 ただ、コーヒーを淹れてきてくれただけ。ただティッシュを差しだしてきただけだ。もしかしたら本当に疲れているのかもしれない、と、唇の端だけでちらりと苦笑した。 「どうしたの」 「いや」 多少は呑気に平和な時間を過ごしてみるのも悪くはないだろう、と思いながら、椎名は少し笑って箱を受け取った。 「サンキュ」 ――了
**********
実習を乗り切るエネルギーとして椎名と胡蝶の小話を! とご所望いただいたので、 これまでいろいろ頂いた御礼も兼ねて書かせていただきました(笑) もう少しほのぼのした雰囲気にしたかったのですが、 そうもなりきれないあたりが椎名の椎名たる所以という気も致します。 胡蝶は安定の通常運転ですが(笑) 桃月ユイさま、こんな小話ですが、宜しければ捧げさせてやってくださいませ! |