「肩車、してあげたら?」 振り向いた胡蝶の言葉に面食らった。見慣れた相棒の顔は心躍る思いつきに満面の笑みを浮かべていたが、幸か不幸か冗談を言っているようには見えなかった。 「肩車!」 足許で幼児が歓声をあげる。 溜息。 ――話はほんの少しだけ、前に遡る。 小高い丘の上、とだけいうと長閑な風景だが、病院という注釈をつけた途端に牧歌的な雰囲気がなくなるのだから不思議なものだ。外から見る分には清潔な白い建物で、中庭に大きな樹がそびえ緑に満ちていたとしても、中には緩やかな生死の境界線が泳いでいる。仕事柄病院を訪れることの多い椎名にとっても、小綺麗で雰囲気の良い病院ではあったが、その印象を払拭するまでには至らないらしい。 ただ、その緑溢れる中庭を歩きまわっているのが幼児であるとなると――やはりいささか牧歌的な風景、だろうか。 胡蝶が椎名の視線を追い、それからこちらを見あげて悪戯めかした笑みを向けてきた。そんなに渋い顔をしていただろうか。その相棒の向こう側を、青い服の子供がうろうろと危なげに通りすぎる。迷子を思わせる程度には自然で、また不自然だった。 子供。 幼児といっても良い。石塚翔。名前を反芻する。 どことなく覚束ない足取りだったが、彼が今もここに留まっている理由を知っている眼で見れば、それなりの意志を持った動きに思えた。庭に植わった木々をひとつひとつ確かめるように見あげ、最後にひときわ大きな樹を見あげ、どの一本にも触れられないことに気づいて諦めたように次の木へ戻る。足許の花や虫や茂みに気を取られながら、繰り返しているのは概ねそのような動きだった。無意味な動きを挟みこんでいても、一連の流れとその目的は明確だ。無意味というなら、大きな樹を見あげるその仕草とて、無意味なものには変わりないのだけれど。 椎名はそれを眺めている。さて、ここからどうしようかと――次の瞬間、胡蝶がなんの前触れもなく走りだした。呆気にとられる椎名を置き去りにして翔の後ろにまわりこみ、そのままぴょこんとしゃがみこんで、背中からいきなり抱きすくめる。 「見ぃつけたっ」 きゃっ、と、悲鳴とも歓声ともつかない声をあげて、胡蝶の腕の中でじたばたともがく。目を白黒させた彼が振り向くと同時、胡蝶はにこりと笑って声を弾ませた。 「高いところ、見にいこっか」 きょとん、という字が、ふっくらとした頬に書いてある。 「……たかいとこ?」 「見たかったんだよね、丘の向こう側」 勢いで押しきるつもりなのか、珍しく、相手の言葉も構わずに言葉を重ねた。 長期入院を強いられた幼児が残したのは――強いていうなら、高いところからの景色が見たい、というものだった。長期入院を強いられた病室の窓は、丘の下を見渡すには少々位置が悪かったらしい。季節が移ろい樹の葉が落ちれば叶ったのかもしれないが、今更それを仮定するのは残酷に過ぎる。 翔が、眼を輝かせた。 「みれるの?」 胡蝶が自信ありげに頷く。こいつ、策もなしにどうするつもりだ――柄にもない心配が脳裏を掠めたその瞬間、しゃがみこんだ胡蝶がいきなり振り向いた。翔がつられてこちらを見る。真っ直ぐな眼。椎名の苦手な類の。 厭な予感がして、 「ね、椎名君」 「あ?」 「肩車、してあげたら?」 的中した。 当たり前のように続けられた言葉に今度こそ面食らう。見慣れた相棒は満面の笑みを浮かべていたが、幸か不幸か冗談を言っているようには見えなかった。その彼女の紅い眼が、思わせぶりに横へ滑る。それを追って中庭の端にある見晴らしの良い一角に到達し、――なるほど。あそこであれば町の様子がよく見えるだろう。そう、思ってしまって諦めた。策がなかったのはこちらだったようだ。なにが「行けばなんとかなるよ」、だ。あのときもう少し疑ってかかるべきだったか。 溜息、を、ついた。誰に対するものなのかは判らなかったけれど。 「肩車!」 足許で翔が歓声をあげている。観念した。 二歩三歩、歩み寄って背中を向け、片膝をつく。肩越しに振り返ると、子供と眼が合った。 立てた片膝をぽんと叩く。鼓舞したつもりかもしれない。 「よし、乗れ」 精一杯の、仕事用の明るい声音と表情を繕う。翔が胡蝶を見あげる。胡蝶が頷いて肩を叩くと、すぐに胡蝶の腕から脱出した。 背中に小さな身体の気配。そうだ、同じ死者同士なら、こうして触れられるし上らせてやることもできる。項の辺りで体重が動き、やがて落ち着いた。首の横から突き出した小さな脚に手を掛ける。小さな手で髪を掴まれると違和感があったが致し方ない。落とさないだろうか、と漠然とした不安が一瞬掠めたが、どうせ死人だし死にはしないと乱暴に納得して覚悟を決めた。 タイミングを計って、立ちあがる。 きゃあっ、と耳許で歓声があがった。鼓膜を刺す音に顔をしかめたが、思ったほど不快ではなかった。見ると、胡蝶がこちらを見あげてやたらと楽しそうな顔をしている。親指をぐっ、と立ててきたのには呆れたけれど。 相棒を無視して、肩の上の気配を探る。随分と高く感じるだろう。支えた体重の重心が忙しなく動いていた。あちこち見回すのに忙しいらしい。自分の身長を呪った。落とさないようバランスを保つのも一苦労だ。 けれど、頭上ではしゃぐ声を聞いて気が変わった。 「落とされんじゃねえぞ」 言うや否や、そのまま思いきって駆けだした。黄色い声。見晴らしの良い場所まで最短距離で突っ切るつもりだったが、中庭を一周、可能な限りの全力で走ってみせる。大騒ぎする声が頭から降る。勢い余って髪を何本か抜かれたような気がしたが気にしないことにした。鼓膜の衝撃もそれほど気にならない。ついでに反対周りにもう一周。そのままの勢いで目的地へと突っこんだ。 「すごい! すごい!」 繰り返す声を聞きながら、小さな柵の手前で、止まった。 息を呑む気配を、感じる。子供は椎名の肩の上で、ぴたりと大人しくなった。 現れたのは、青い空と白い雲と、その下に広がる小さな町の景色。家々の屋根と箱のようなビルが、手前は大きく奥は小さく連なる町を鳥瞰する、遠景。どこにでもある町だ。大した風景ではない。展望というにはおこがましい。けれど白い箱の中で短い生を終えた子供にとっては、無限にも等しい広さだろう。 きゅう、と、頭にしがみつく気配があった。それが不意に軽くなる。手を添えてやっていた脚が唐突に形を失くす。気がつけば首回りが自由を取り戻していた。心細いような妙な気分になり、そう思った自分を意外に感じた。 両手を下ろし、肩と首とをぐるりと回した。 「お疲れさまーっ」 後ろから胡蝶が走ってくる。彼女にとっては良い見世物だったに違いない、と確信したが、不思議と悪い気はしなかった。 「結構楽しそうだったよ」 「煩え」 振り返ると、一瞬の間を置いてからくすりと笑われた。 「髪、ぐちゃぐちゃだよ」 「……煩いな」 ――了 ********** 佐久間想さまに椎名のイラストを頂戴しておりましたので、お礼掌編を書かせていただきました!。 椎名・胡蝶コンビで「ほのぼの」のリクエストでした。 この辺が奴の「ほのぼの」の限界でした……! でもたまにはこんな仕事がないと胡蝶が潰れてしまうので良かったかもしれません(笑) リクエストありがとうございました! |