葬儀屋
「微睡み際」


  班室に居るときには書類を書いているか寝ているか、その二択しかないといったとしたら、客観的な印象としてはどうなるのだろう。選択肢の中に睡眠という状態が含まれていることがそもそも問題なのかもしれないが、ただその二択しかないということは、例えば相棒との打ち合わせや、他愛無い雑談という選択肢はそもそも有り得ないということだ。雑談とはその種にされるものであって、自ら加わるものではないという認識は、たぶん一般常識からは大幅にずれている。仕事なら一応しているし、無駄話をしないという意味では、むしろ効率良く働いているはずなのだが。
 効率。
 死後も現世に留まる魂を、宥めすかして輪廻の輪に還すという仕事内容自体が、考えてみれば非効率的なのだ。生死の境界を護るというだけなら、魂を現世から引き剥がせば済む話。それをわざわざ示談に持っていくというのだから回りくどいにもほどがある。それとも、死後であろうとヒトとしての尊厳を保っているつもりなのだろうか。――ならば、自分はどうなのだろう。問答無用に殺害することで相手の尊厳を蹂躙しているのか、それとも「衝動」に屈することで自らの尊厳を溝に捨てているのか。
 考えてどうなる話でもない。ただ、そう思ってしまっただけだ。
 終わりのない螺旋に嵌まりこんで頭が重くなると、決まって班室の外に出る。
  廊下の隅にソファを置いただけという名ばかりの休憩所に、独り眠りを貪りにいく。だから、班室の外に居るときには大抵眠っている。一体自分はなにをしているのだろうと我に返ることもあれば、元が死んでいるのだからむしろ寝ているほうがよほど自然だと開き直る思いもある。だがいずれにせよ、逃避めいた惰眠を貪っていることには変わりない。ただ少し、悪夢に魘される時間が長引くだけだ。
 ――黒く粘ついた、夢。或いは緋色が迸る、夢。
 しばらく微睡んで魘される寸前で目覚め、そしてゆるりと立ちあがって班室の自席へ戻る。寝たなら少しは気分が良くなっても良さそうなものだが、その分夢を見るのだからいずれ差し引きは零だ。ならばなぜわざわざ眠るのだろう、と考えて、隣席の少女を見たくないからだ、と思い至る。
 名前を思い出すのに、いつも少し手間取る。
 わけの解らない人間も居たものだ。あれほど自分を厭いながら、なぜか意地のように後ろからついてくる。被虐趣味の一種かと疑った瞬間もあったがさすがに思い直した。冗談にもほどがある。
 無視することに決めてもなお、厭だった。
 あの眼が。
 まっすぐこちらを見つめてくる両眼の存在など、久しく忘れていたのに。眼の持ち主が純粋であることを知ってしまった以上、その視線は自分の異常性を突きつける鏡でしかなかった。
 なぜ、
 疑問詞のあとに続けたい言葉は山ほどあったが、どれかを摘んで拾いあげられるほど器用ではなかった。
 班室へ、戻る。
 その瞬間、空気は僅かに強張る。そうでなければ風も吹かなかったかのように黙殺される。嗚呼今日は強張るほうかと他人事のように思いながら自席に戻り、そして、立ち止まった。
 ブラックスーツもネクタイも似合いもしない少女が一人。
 名前を思い出せなかった。
「おい」
 壁に立てかけた刀に手を伸ばして、指を触れる。その後ろ姿。
「なにしてる」
 解りやすく跳ねあがった身体ががばりとこちらを振りむいた。驚きと怯えが紅い眼に走る。――そんな顔をするなら最初からしなければ良いのに。他人事のように、思う。そして不快だと、思った。なにより触れられたくない部分だった。
 熱湯に触れたかのように慌てて手を引っこめた。右手を左手で包みこみ、祈るような仕草でこちらを見あげ、すぐに視線を逸らす。
「……ごめんなさい」
 別に謝らせたいわけではなかったのだ。ただ、その行為を止めさせればそれで良かった。
 壁際に在るのは彼女ではなく自分のデスクだ。自分のデスクの前に彼女が立っていて、彼女の向こうの壁に、得物が立てかけてある。――そこに居るべきは自分だ。彼女ではない。
 彼女を押しのけなければならないだろうかとうんざりしたが、なにかの空気を感じとったのか、小さな身体を更に縮めるようにして、彼女は大人しくその場を離れた。自分の脇を通りすぎ、彼女自身の椅子を引き、音もなく座るまでのその動きを、どうということなく眼で追った。
 なぜ、
 という言葉が、今更のように浮かんだ。
 怯えているのは考えるまでもなく解る。ならばなぜ、刀に触れるなどという真似をしたのだろう。恐怖か、忌避か、いずれにせよ碌でもない感情の対象でしかないはずなのに。
 なぜ、そんな真似をしたのだろう。好奇心の為せる業とも思えない。
 きちんと膝を揃えて座り、所在なく書類に眼を走らせている彼女の横顔を、眺める。考える気はなかった。理解する気など尚更なかった。だからただ、なぜだろう、とだけ、思った。
 だから。
 彼女が驚いたようにこちらを振り向いたとき、自分が言葉を発したのだということに気づかなかった。
 紅い瞳が二つ、丸くこちらを見あげている。
「無理すんな」
 繰り返した言葉の意味は、自分でも解らなかった。もしかしたら解っていたのかもしれないが、解らないままでいるべきだと思った。
 立ったまま見下ろす彼女の眼は、酷く遠くに在った。
 ほんの少し見開いて、瞬きもせずにこちらを見あげて、まるでこちらの胸の奥まで見透かそうとでもいうかのように。
  その眼から逃れようと、乱暴に自分の椅子を引いて腰掛けた。彼女から眼を逸らすように右手で頬杖をつくと、壁際の刀と眼が合った。彼女が先刻手を触れていた、長い日本刀。柄を握るとたぶん忌まわしいほど手に馴染み、提げれば恐ろしいほど体格に沿う、誂えたような自分の得物。斬れば斬るだけなにかを奪われてしまいそうな、商売道具。
 触ったところでなにも解りゃしねえよ、
 と、口には出さずに誰へともなく呟いた。

――了


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