葬儀屋

終、


「椎名」
 返ってきた書類の整理をしていると、常磐の声が降ってきた。
 手を止めて顔を上げると、デスクを挟んで真正面に彼が立っている。座ったままで上司の顔を見上げながら、椎名はぼんやりと、手元の書類をどうすべきかを考えていた。持ったままでは中途半端だ。一度置かねばなるまいが、そうすると、いま手にしている束がどの束だったかを忘れてしまいそうだ。デスクの上は散らかすものではない。そうはいっても、物がこんなにあるデスクになど慣れていないのだから仕方がないのかもしれない。付箋でも貼ったら整理しやすいのだろうか。――なるほど付箋か。始めからそうすれば良かった。
 そんなことを考えていると、視界の中で、常磐がいつものように微笑した。
「お疲れさまです」
「……いきなりなんだ」
 久しぶりに発した声は予想外に小さかった。常磐が微笑を作っているのも、彼の言葉が唐突なのもいつものことだが、突然労われても不気味なだけだ。
 黙っていると、常磐が笑顔のままで言葉を継いだ。
「謹慎期間が今日で終わりました」
 ――終わり。
 この軟禁には終わりがあったのか、と、他人事のように思う。
 結局あれ以来、椎名がこの執務室から外に出ることはほとんどなかった。むしろ常磐が出させなかったといったほうが正しい。その軟禁状態こそが「謹慎」であったのか、それとも逆に彼一流の配慮であったのかは判らないが、いずれにせよ同じことだ。椎名が淡々と書類を整理しながら、無為な考えの中を浮遊していたことには変わりない。時折全身に激しい痛みを覚えたが、その他は至って平和な日々だった。
 大きな窓から陽が射している。ブラインドが、デスクの端に穏やかな縞模様をつくっている。どこかで見たような光景だったが、巧く思いだせなかった。
 椎名は無言で常磐を見ていた。なにか表情を作るのを忘れている、ということにようやく気づくと同時に、常磐が能面のような笑顔で告げてきた。
「もう戻って構いませんよ」
「戻るって……」
「現場ですよ。僕は中間管理職ですからここに閉じこもっているのが仕事ですが、貴方の仕事場は、ここではなくて現世ですからね。御偉方も貴方を許したことになりましたし、これで堂々と表が歩けるというものです」
 椎名の問いを先取りして、常磐は肩を竦めてみせた。相変わらずの整いすぎた所作。表情が読めないのも困りものだ。なにを言いたいのか予想がつかない。
「貴方は現場に相棒を残してきていますからね。僕もそろそろ優秀な相棒が懐かしくなりました」
 椎名の心中を見透かしたような口調で言うと、常磐はつと手を伸ばし、椎名が持ったままの書類を手に取った。ぱらぱらと眺めて満足げに頷く。そして何事もなかったかのようにデスクの隅に置いた。椎名は空いた両手を持て余しながら、常磐の流れるような手の動きと、デスクに散らばった書類とを眺めた。そして相棒の顔を思い出す。彼女が自分の相棒であるということ自体、随分長い間忘れていたような気がする。
 笑顔より先に泣き顔を思い出した。
 罪悪感を覚える。そんな自分に少しだけ安堵した。
「……またあいつと仕事しろってか」
 呟くと同時に、不可能だ、と誰かが即答した。
 彼女は――胡蝶は、間違いなく自分を忌避するだろう。謹慎明けの現場復帰は確かに理に適ってはいるが、再び胡蝶を相棒とする資格が自分にあるのか。そもそも胡蝶はそれを望んでいるのか。戻ると簡単に言うが、そこに彼女の意思は反映されているのだろうか。
 眼の前が真っ赤になった。胡蝶のすすり泣く声が聞こえた。そんな生々しい記憶。唇を少しだけ噛んだ。
 常磐は小さく首を傾げ、椎名の眼を覗きこんできた。
「ご不満ですか」
「あいつのほうが避ける」
「避けるかどうかは、実際に会ってみれば判ります。――ところで」
 常磐は言葉を切った。椎名が顔を上げると、それを待っていたかのように続けた。
「彼女の兄は、人を殺めたそうですよ」
「は?」
 思わず問い返す。だが、常磐は逆に眼を逸らした。紅い眼を細めながら、大きな窓の向こうを眺めている。彼のペースに呑まれかけているのをはっきりと自覚しながら、それでも問い返さずにはいられなかった。
「彼女ってあいつのことか」
「彼女に凝っているのは、大好きだった兄が、知らない間に殺人犯になっていた記憶です」
 問い返しを無視して淡々と喋り続ける。こちらを見もせずに。饒舌な独り言のように。
 一種のトラウマですね、と付け加えて、常磐は椎名を無表情に一瞥した。
「彼女の無意識は、貴方に兄を重ねていたのかもしれません」
 ――なぜそんな話をするのだ。非難の言葉が喉元まで出かかったが、引っ掛かって巧く出てこなかった。
 常磐は続ける。椎名の表情など意にも介さずに。
「ですから、彼女にとっての貴方は、忌避の対象ではなく、崩壊を止めなければならない相手。半分は貴方のために、半分は、かつて裏切られた自分のために。兄の裏切りゆえに死に追い込まれたという歴史を繰り返させまいと、彼女の無意識は全力で阻止しようとする――例え自分が傷ついたとしても」
 穿ちすぎでしょうかね、と呟き、常磐は目を細めたまま口元だけでかすかに笑った。そして、そのままの表情を椎名に向ける。哀れんでいるような眼。
 誰を?
「彼女は死に敏感です。その意味では、貴方とは似た者同士ですから……案外、良いコンビになると思うのですけれどね」
 そう結んで、常磐は思いだしたようににっこりと笑った。
 ――ころさないで。
 あまりに切実な一言が、頭の中に響き渡った。
 椎名の「始末」を初めて目にしたあの日、胡蝶が泣きながら絞り出したあの言葉。あれは、なにを意味していたのだろう。そんなことを今になって考える。
 ――殺されたくないんじゃない。殺さないでほしいの。
 それは。確かに根源的な恐怖だった。「胡蝶」がそれを理解しているはずはないとしても。
 否。椎名とて、なにひとつ知りはしないのだけれど。
「……俺があいつのなんだっていうんだ」
「そんなことは誰も知りませんよ」
 涼しい顔でそう言うと、常磐は一枚の書類を差しだした。右上に写真。名前。享年。死の状況。現世滞在理由。見慣れた様式は、いわば死者の履歴書だった。――恋人に結婚を申し込めなかったことを悔いている。そんな一文を見て、どんな言葉で丸めこもうかと考えはじめている自分に気がついた。
 その紙切れは、日常の象徴だった。
 反応を決めかねていると、常磐は形式的な笑顔と事務的な口調で告げてきた。
「胡蝶に届け物です。それから、狭霧を呼んできていただけますか」
 ――それは、恐ろしく婉曲な命令だった。胡蝶に書類を届け狭霧を呼んでこいといっても、そのあと戻ってこいとまでは言われなかった。加えて書類がある以上、その魂を捌くことは「葬儀屋」の常識だ。
 それは即ち、現世に戻って胡蝶と仕事をしてこいということ。
 椎名は躊躇した。
 ただ黙って、書類の写真を眺め、文字を追う。呆けたような顔をした、筋肉質な青年の写真が貼ってあった。きっと今の自分も似たような顔をしていることだろう。
 書類の片隅に、「月影」の署名が入っていた。
 思い浮かんだのは、Tシャツにジャージのラフな姿でもあり、隙なく喪服を着こんだ姿でもあった。椎名よりよほど慣れた笑顔を浮かべる顔でもあった。けれど、時折見せるポーカーフェイスは怖いくらいに誰かに似ていた。銀縁眼鏡は、あの頃と同じ。
 そこで思考を断つ。
 振り切るように手を伸ばし、常磐の華奢な手から書類を受け取った。
「お疲れさまです」
 かつての相棒は柔和な笑みを浮かべ、その台詞を繰り返した。
「……ごめん」
 椎名はそれだけ呟いて、ようやく立ち上がった。常磐が身を引き、通り道をあける。彼はただ微笑んでいるだけで、なにも言わなかった。
 ソファとローテーブルとを挟んで、デスクの真正面に一つドアがある。それからデスクから見て左側の壁に、書棚に埋もれるようにしてもう一つドアがある。前者は廊下に、後者は班室に直接通じるドアだった。
 班室へ繋がるドアを開けかけて、椎名はわずかに逡巡した。結局思いとどまり、廊下に繋がるドアを選んで回り道をする。――ドアを閉めるその瞬間まで、背中に突き刺さるような常磐の視線を感じていた。ドアの閉まる音も、廊下を歩く革靴の音も、いやによく響く。
 見慣れた「第三班室」の表示を視界の隅に見ながら、中に足を踏み入れた。
 眼に飛びこんできたのは、ずらりと並んだ机。書類の散らかった机。塵一つない机。片隅にぬいぐるみの置かれた机。本が積まれた机。席について話をしている誰か。ばらばらと喪服の男女。聴覚に話し声。書類を繰る音。時折誰かの笑い声。内線の音。時折誰かの厳しい声。嗅覚にコーヒーの匂い。――謹慎期間が正確には何日間だったのか、正直なところ判らない。来る日も来る日も同じ一日の繰り返しだった。だが少なくとも、その期間を経たからといって班室が懐かしくなるということはないらしい。数日か数週間か、その程度では懐かしく思いようがないほど見慣れた光景。あの日、あの道を懐かしまなかったのと同じ。
 入口の傍の席に居た若い同僚が、ふと顔を上げる。くっきりとアイメイクを施した彼女は、気だるげなその眼に狼狽を浮かべて硬直した。入口付近で微かに始まった空気の変化は、やがて敏感に室内に広がっていく。――そんな現象も、いつも通り。ただ少し、同僚の反応が過敏なだけで。
 名前も知らないアイメイクの彼女が、唇を動かした。
 ――ナンデモドッテキタノ。
 眼で読み取ったその言葉を、椎名は無視した。そしていちばん奥の片隅に視線をやる。まだ空気の凍結が進んでいない、いちばん奥の窓際の席。かつて椎名が座っていたその席で、狭霧が笑顔を浮かべながら誰かと話している。その手前に、髪の長い少女の後姿。
 椎名は、ゆっくりと足を踏みだした。まっすぐに歩いて、右に曲がる。道筋は脚が憶えていた。辿るにつれて、後姿が近くなる。彼女はまだ、こちらを向かない。狭霧が椎名に気がついたところで、椎名は逃げるように声をかけた。
「狭霧」
 ――手前の少女がびくりと震えて振り返る。素早く視線を逸らしてその顔を見ないようにした。狭霧の端正な顔を凝視する。
 狭霧は、ほんの一瞬だけ驚いたような眼で椎名を見た。だが次の瞬間には既に、予想していたと言わんばかりの悪戯っぽい微笑みを浮かべてみせていた。
「久しぶり」
「ああ」
 応えた声が上の空だった。狭霧の両眼ばかりを凝視しているのに。意識は別のほうを向いている。
「常磐が呼んでるぜ」
「はいはい。……あ、デスク勝手に使わせてもらってたわよ。まったく、モノが少なくて便利なんだか不便なんだか」
 それだけを一方的に言って、狭霧は軽やかに立ち上がった。からかうような声と理知的な笑みが、絶妙なバランスで椎名に向けられる。なるほど、デスクにものが少ないということは、そこに新しい住人がやってきても引越しの手間が省けるということだ。このデスクに椎名の私物がほとんどないおかげで、狭霧は席に着いた瞬間から仕事を始めることができたのだともいえる。――そんなどうでも良いことを、わざと時間をかけて納得した。
 彼女の顔を見るともなしに見ながら、椎名は狭霧と常磐の類似と差異について考えていた。狭霧も常磐も整った顔つきをしていることには変わりないが、狭霧には満ち溢れている生命力が、常磐には完璧に欠落している。だから彼は、余計に人形めいて見えるのだろう。
 椎名に背を向ける直前に、狭霧は視線を斜め下に落とした。軽やかな微笑と入れ違いに、一瞬だけ違う種類の笑みが浮かぶ。表情の意味を見極めるより早く、彼女は黒いハイヒールを鳴らして去っていった。
 ショートカットの後ろ姿が執務室に消える。ばたんと重い音がした。
 狭霧の消えた扉を、椎名はしばらく見つめていた。思考対象を失った頭はただの空虚でしかない。
「……椎名君」
 ――やがて、小さく名を呼ばれた。
 椎名は、視線を落とした。殊更に平静を装って。
 胡蝶の紅い眼が視界に飛び込んでくる。
 それは不安げに揺れる眼差しだった。最後に見たときには感情をどこかに忘れてきたような眼をしていたから、それに比べれば良い表情だといえるのかもしれない。例えそこに、かつて決して消さなかった恐怖の色が、再び滲んでいたとしても。
 椎名は無表情に胡蝶を見た。しいて零度の眼をしていた。
 胡蝶が座っている。椎名は立っている。見上げ見下ろす角度は、たぶん、互いに奇妙なほど身体に馴染んだものだったはずだ。
 胡蝶はなにも言わず、きちんと揃えた膝の上で両の拳を握りしめていた。
 沈黙に耐えかね、口を開く。
「どーすんだ、あんた」
「え?」
 彼女は戸惑ったように眼を見開いた。不意を突かれたせいか、恐怖の面持ちがわずかに和らぐ。だが、だからどうだというのだろう。これは表情ではなく、深層心理の問題だ――脳裏を駆けるのは、いつになく冷静な思考だった。
「殺人狂と仕事するつもりか」
「――バカ」
 返ってきたのはたった二文字。それから鋭い睨み顔。
 呆気にとられる暇もなく、胡蝶は言葉を投げつけてきた。
「なんで」
 言葉が震えていることに気づく。眉を寄せて、苦しげに歪めた顔。貼りついているのは、恐怖と狼狽と怯えの表情。必要以上に力の入った小さな肩が、強張って震えている。そこまでしてなぜ自分を睨みつけようとするのか、たぶん自分には決して理解できないのだろうと――それだけを思った。
 そこまで冷めていながら、釘づけにされたように動けなかった。
「……なんで」
 表情は雄弁だった。――なんであんなことをしたの? なんでそんなことを言うの?
 椎名は答えない。答える術を持たない。
「あたし……あたし、赦さないよ。なんにも赦してないよ」
 瞬きもせずに。紅い眼に吸い込まれそうな錯覚。小さな拳が固く握られて震えている。関節の白さもまた、恐怖ゆえなのだろうか。
 ――だとすれば俺に弁解の余地はない。
 椎名は沈黙していた。ただ黙って胡蝶の両眼を見つめ返した。真っ赤な、かすかに潤んだ両眼を。それを見ながら安心している自分に気がついて、少なからず狼狽した。
 なんにも赦してないよ。
 ――そのほうがたぶん、ずっと楽だ。
 口には出さずに、椎名は呟いた。赦してもらおうなどと、初めから思っていない。胡蝶にも、平崎創一にも、今まで斬り捨ててきた数多の魂にも。そもそも、この場でこうして胡蝶の正面に立てていること自体が既に奇跡的なのだ。それとて、椎名の意思はどこにもないのだけれど。
 常磐の複雑な微笑を思った。
 胡蝶の複雑な表情を見た。彼女が自分を受け入れる気でいるのか、突き放す気でいるのか、巧く判断ができない。
 なぜ自分は、ここに居るのだろう。ここに居ようとしているのだろう。
 理由はわからなかった。しかし少なくとも、椎名はあのときそれを選んだのだ。
 生者が生きるのに理由は要らない。それと同じように、椎名の無意識は「葬儀屋」としての自分を受け入れたのかもしれない。今になってゆっくりと、自分の立ち位置を理解しようとしていた。零度の鎮魂歌[ゼロ・レクイエム]でもなく、相原椎名でもなく。この喪服に包まれた自分の立ち位置を。
 ――不意に、胡蝶がひとつ溜息をついた。我に返ると、目の前の少女は見慣れない表情を浮かべていた。挑みかかるような強気な眼で、こちらを見上げてくる。
 小さな肩だけが、どうしようもなく緊張していた。
 強く結んでいた唇を開いた。
「立ってないで座りなよ。そこ、椎名君の席だよ」
 椎名は――思わずその席を見た。
 抽斗の中まで含めてもなにも入っていないデスクと、背凭れの軋む椅子。椅子の高さが変わっているほかは、あの日となにも変わらない窓際席。その隣には胡蝶が座っていて、彼女はじっと椎名を見上げたまま逃げようともしない。
 ――座れって?
 その言葉を。
 受容ととっても良いのだろうか。
「正気か」
「正気だよ」
 独り言に返事があった。
「だから大嫌い」
 短くそれだけを言いきって、胡蝶はこちらにずいと右手を突き出した。思わず半歩身を引くと、彼女は苛立ったように眉を寄せて手を振ってみせた。眼は、椎名を凝視したまま瞬きをしようともしない。
「書類、ちょうだい。常磐さんに貰ってるでしょ」
 ああ、と力のこもらない返事をして、言われるままに彼女に差しだした。その書類の存在自体、今の今まで忘れていた。――知らない間に胡蝶の童顔が大人びたような気がして、それにまた少しだけ罪悪感を覚える。
 書類から手を放そうとして、胡蝶がそれを手に取ろうとしないことに気がついた。
 月影の署名が入ったその紙は、胡蝶の指先に触れているだけだ。少し手を伸ばせば紙を取り上げられるだけの距離を、彼女は詰めようともしない。
 訝って胡蝶の顔に視線を移す。わざとらしいほど強気な凝視。こわばった撫で肩。
 ――不意に、彼女は表情を崩した。
 小さな肩から力が抜ける。泣き出しそうな微笑を見てはっとした。そのほうが、椎名にはずっと見慣れた表情だった。
 大嫌いと宣言した言葉と同じ重みで、彼女は呼びかけた。
「おかえり」
 硬直がほぐれていく。そこで初めて、自分も緊張していたことに気がついた。
「……ただいま」
 泣き笑いの微笑で応えると、胡蝶はようやく笑って書類を受け取った。


――了


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