葬儀屋
「断片」


 現世に駆けつけたとき、飛びこんできたのは胡蝶の姿だった。幼い横顔は紅い眼を見開き――形容しがたい恐怖を刻んでいた。胸の前で握りしめた両の拳。中途半端に後ろへ引いたきり、そのままで硬直した片脚。呼びかける言葉も見つからないままで半開きにした唇。
 名を呼ぼうとした瞬間、凝視の先の異常に気がついた。
 髪を乱して俯いたまま、刀を提げた長身の――あれは。
 刀身は既に赤黒く染まり、ほたほたと雫を落としていた。革靴の足が、撒いたような血溜まりを踏む。ブラックスーツから覗くワイシャツが紅い斑模様になっているのを認めたのと、スーツの黒がぐっしょりと返り血を浴びているのに気づいたのが同時だった。
「椎名……君」
 胡蝶が声を震わせる。帯刀の喪服が顔を上げた。蒼白い顔に紅い眼が爛々と光る。痙攣したように歪んだ唇の形は、確かに笑みのそれだった。見慣れたはずの、椎名の姿。にも関わらず、
 ぞっ、とした。
 右手が刀を握りなおす。
 厭な予感がした。
 椎名の革靴が地を蹴るほうが早かった。
「逃げなさい!」
 喪服の少女は動かない。
 常磐の右手が銃を探る。
 椎名は笑っている。脂でぬめる刀を両手で構えその切先を相棒であったはずの少女に向けて彼女が縫いとめられたように動けないのを愉しんでさえいる。血の滴る凶器と三日月型の笑みを向けられた胡蝶はただ立ち竦んで箍の外れた相棒を見つめてそれでも彼がいつもの面倒臭そうな無表情を取り戻してはくれないかと小さな希望を握りしめて――動けない。
「椎名!」
 叫んだ瞬間、長い刀が胡蝶の身体を袈裟懸けに斬り裂いた。
「……っあ……!」
 声にならない悲鳴と鮮やかな飛沫。歪んだ椎名の顔にまた赤色が飛ぶ。ネクタイをぶら下げたワイシャツが更に鮮紅を重ねる。驚愕と恐怖とに丸い眼を見開いて、なにかを求めるように二本の腕を彷徨わせて、胸から赤色を迸らせた小さな身体。その視線が確かに射たはずの青年は、もうヒトの顔をしていなかった。呼びかけようと動かした唇から無意味に空気が漏れる。言葉の代わりに血が迸る。
 どさり、と。
 呆気なく崩れ落ち、彼女は血溜まりの中で動かなくなった。
 僅か一瞬のことだった。
 椎名はただ彼女の傍らに佇んでいる。足許を、面積を広げた紅い池を、見下ろしている。顔は歪んでいる。紅い眼を硝子球のように呆けさせ、迸らせる音も判らない唇はただ震えている。他に形を知らないかのように、無意味な笑みを貼りつけている。腕が、壊れた自動人形のように一度痙攣した。行き場のない苛立ちをぶつけるように眉間の皺を増やし、表情ひとつ変えないままで刀を高く振りあげて、物言わぬ身体に突き立てる。
 湿った、くぐもった音がした。
 けれどぴくりとも動かなかった。
「……ぐ、ぁう……」
 痛みを堪えるように呻き、身体の重みを支えるように縋りついた刀を更に深く深く突き刺して――違うのだ。そんなことをしても、その「衝動」は鎮まらない。その身体が誰のものなのか、自分が誰に狂気を向けたのか、凄絶に歪めた表情でなにに耐えているのか、認識しているのか、否か。
 ずぶずぶと、長い刃が胡蝶の中に沈む。赤色がまた地面を侵す。
 無意味な呼吸を、ひとつ。
「やめなさい、椎名」
 存外に低い声だった。
 目の前の獣が顔を上げる。聞こえてはいるらしい。ただ硝子球の眼だ。
 銃を抜いた。
「自分がしたことをよく考えることです」
 届いているのだろうか。この、ヒトの言葉が。
 常磐を見る眼は動かない。ただ次の獲物とは見定めたのか、墓標のように突き立てた刀をずるりと引き抜いた。
 考えるな。考えてはいけない。そう言い聞かせるように、安全装置を外した。酷く乾いた音がした。
 長い身体がふらついている。疲労ではない。ただ、操り人形になっているだけだ。意志を失くしているだけだ。
 ならば動きは、衰えない。
 銃把に左手を添える。かつての相棒をひたと見て、呼んだ。
「来なさい」
「……があああアッ!」
 構えもせずに刀を振り上げ、獣じみた絶叫を迸らせる。長い脚が二歩三歩、曇った刃が近づく――遅い。
 後ろへ跳ぶ。胸の前を刃先が掠めた。一度引いた切先が突きの構え。傾けた首筋の真横を血濡れの刃が貫く。相対した顔はぎりぎりと歯を食いしばっていた。見開いた眼の眉間に、ぴたりと銀の銃口を向ける。していないはずの息を呑んで、椎名が跳び退き間合いをとる。眉を顰め相手の出方を伺う様子は、それだけ見ればいつもと変わらないのだけれど。
 ロングヘアの少女が傍らに伏している。その姿に一瞥もくれず、ただこちらだけを空虚に見つめている。
 赤が広がる。
 欠片の躊躇も見せずにゆらりと刀を構えた。今度は間合いを測るらしい、と思うより早くもう眼前に姿があった。叩きつける斬撃――の筋が見えた。受け身の姿勢をとりながら、咄嗟に首筋を銃で庇う。キン、鼓膜へ走る衝撃に思わず顔をしかめる。すっと膝を折ると椎名が目を見開いた。バランスを崩し刀が揺らぐ。眼を細めて少し、常磐は微笑する。苛立つように、椎名が唇の端を歪ませる。
 銃を向ける。紅い眼が見開かれたのを見た。発砲よりも椎名が身を躱すほうが早い。爆ぜた銃声にも銃弾の行き先にも興味がないかのように、再び刀を握り襲いかかる。右左、右、横に薙いだ刃をしゃがみこんでやり過ごす。頭上に風が駆ける。真上から脳天をめがけた斬撃も横跳びに避けた。続く横薙ぎを銃で再び止め、相手が怯んだ隙に躊躇いなく、脇腹へ蹴りを叩きこむ。
「がっ……」
 不意を突かれたか、眼を見開きくぐもった呻きを漏らしてよろけた。左手で脇腹を庇う、その動きがやけに人間的に見えた。
 片脚を下ろして態勢を立て直し、ふらついた左脚に狙いを定めた。平衡感覚を崩したまま、得物を掴んだ手だけががむしゃらに動く。
「終わりです」
 一言。
 呟いて引金を引く。
 乾いた銃声とともに長い脚が崩れる。なにが起こったのか理解できない、とでも言いたげに、虚ろな眼が常磐を掠めた。飛び散る鮮血の中に片膝をついた姿勢のままでなおも執拗に刀を振りあげ、銃を握った右手を叩き斬ろうと――その肩を撃ち抜いた。
 銃声が紅く爆ぜ、重い音で刀が落ちる。
「ぐ、ぁう……あ」
 ヒト離れした唸り声をあげてそのまま倒れこむ。横向きに転がった身体は小刻みに震えていた。蒼い横顔の中で、零れそうな紅い眼が彷徨っている。はっ、はっ、はっ、荒い呼吸音。そのリズムが椎名のものばかりでないことに気がついた。しているはずのない息を乱しているのは、常磐も同じだった。――鈍りましたかね。他人事のように、小さく呟く。
「こうしないと解りませんか」
 掠れた呟きが、正しく届いたかどうかは判らない。ただ、頭は微かに動いた。びっしりと脂汗を浮かべた顔。表情は酷く歪んでいたが、単純に苦痛からくるそれに過ぎなかった。それなら彼は今、常磐の知っている椎名であるのだろう。
 眼が合った。
 表情のある眼だった。
 だから黙ったまま視線だけで、傍らの少女を示した。
 緩慢に動かした視線が、一点で硬直する。咄嗟に身を起こそうと突き立てた腕に力が入らず無意味に崩れて、それでも立ちあがろうともがく身体の動きが徐々に弱まり、最後に凄絶な表情でぎりりと握りしめた血染めの拳から――力が抜けて、椎名はそのまま動かなくなった。
 常磐は。
 ただ一人立ち尽くして、空を仰いだ。

 スイッチが入ることは避けられないにしても、そのハードルが段々と下がっているらしいことは問題だ、と、椎名は焦点の合わない頭で考えた。ぼろ雑巾のようになった身体は動きもしない。小部屋に放りこんで鍵を掛けるなどという真似をしなくても、どうせ逃げも隠れもできないのに。ただ、いくら精神と身体が疲弊していても、暴発するのはあくまで無意識のほうだ。それならとりあえず物理的に監禁しておくというのは理に適った措置なのかもしれない。しかしそれなら足に鎖をつけるくらいのことはしておかないと無意味だろう、とも思う。
 思い、考える。
 そうしていれば、自我を保ったヒトのままでいられるような気がした。
 「衝動」のハードルが下がっているのなら、そのうち、二度とこちら側には戻れないほど完全に、獣に成り下がってしまうのだろうか。――嗚呼、それならそれで気が楽かもしれない。それはつまり、恐怖と殺意に衝き動かされていれば良いということだ。下手な思考が入り込む余地などないうちに、きっと常磐あたりが哀れむような微笑で撃ち殺してくれるだろう。周りの迷惑を顧みることさえしなければ、そのほうがよほど楽だ。ならば、下手な抵抗などせずに、大人しく無意識の側に落ちるべきなのだろうか。ヒトのままでいたいと抗って、未練がましく思考を重ねたりするよりも。
 新たな思考を重ねなければ、淀んだ記憶が一つ覚えのように反芻される。いずれ煮詰まり純化される。最終的には完膚なきまでに壊れて、器もろとも処分されるのだろう。同じだ。いずれにしても、同じことなのだ。
 それならば。現在のところ、辛うじて処分を免れ「生かされて」いるのは、まだ更生の余地ありということなのだろうか。――笑わせる。ここまでの状況を引き起こしておいて? 最初の暴発を目にしておいて? 先刻の暴発を止めるのに銃まで持ち出しておいて? あの元相棒はそんなに甘かったのだろうか。手遅れというならもう、徹底的に手遅れなのに。
 笑おうとしても、巧くいかなかった。
 そこまで突き詰められていながら、自分を殺すことすらできない。それもまた、主観的には絶対的な事実のひとつだった。自分に牙を剥く前に獣の無意識が取って代わり、その殺意を他者へ向けようとするのは目に見えている。殺すべきは自分ではなく他者なのだ、「衝動」にとって。――自殺をするのはヒトだけなのだと聞いたことがある。本当かどうかは知らないが、その知識だけをあげつらうならば、今の状態を説明するにはこの上なく都合が良い。つまり「衝動」が獣の側の存在である以上、自殺という選択肢はそもそも存在すらしないのだ。
 結局、殺されるのを待つしかないということか。
 ――かといって。
 消滅したいのかと問われると返答に窮してしまう。――まだ、このままでいたい。存在などとうに消滅した死者のくせに、生者のような貪欲さはまだ辛うじて残っている。けれどそもそもの根本を思えば、単に変化を嫌う惰性にすぎないのかもしれなかった。消滅。それも、良いかもしれない。意識の一部は、確かにそんな思いを抱えている。
 頭痛と耳鳴りが邪魔をする。無意味に頭を遣っても、結局逃れられるものではないらしかった。
 腹の奥と喉とに違和感があった。それが吐き気であると認識するまでにしばらくかかった。そうはいっても吐けるものがあるはずもない。空咳を数度したところで、壁に凭れて身を起こす力も惜しくなりずるずると床へ蹲った。腕も脚も棒のようだ。骨が軋む。痺れたような不快感。あちこちに負った斬り傷は自業自得だ。自分の身体を顧みずに刀を振るうからこんなことになる。ただ圧倒的な熱と痛みを発しているのは、脚を掠め肩を穿った弾痕のほうだった。
 床に頬がついた。埃っぽい。冷たい。霞む視界の中で赤色が掠れている。
 包帯が巻かれるわけでもない。止血がされているわけでもないが、血は止まっているようだった。酷く自虐心を煽られる格好だった。この程度で失血死はできないだろう、と思い、死人が失血死など可笑しなことだ、と思う。
 最初のきっかけはごく些細なことだった、と思い返す。来るなと叫ばれた、たったそれだけのこと。目覚めて間もない頃のことだったから、無意識自体が不安定だったのだろう。それからいくらか暴発して、それでも随分と落ち着いていたはずだったのに。気づけばまた、低いハードルに成り果てていた。そんなことには感づきもしなかったのに。不定期の暴発は避けられないという、無意識からの脅迫だろうか。抑えこんでいた分酷くなるというのなら、「零度の鎮魂歌[ゼロ・レクイエム]」と呼ばれつづけていることこそが最良の手段なのではないか。
 横向きに倒れたまま、床の上に自分の手を見る。少し力を入れると、擦りむいた手の指先が微かに動いた。けれどそれが限界で、また視界がぼやける。そこに、しいて意識から遠ざけていた情景が二重写しになった。直視すれば凄まじい恐怖と後悔で満たされることは解りきっていたが、もう眼を逸らすだけの気力も残っていなかった。――埃っぽい床に這いつくばるような視線の先に、今の椎名より圧倒的に少ない傷で、けれど絶望的に深い傷で、真っ赤に染まって動かなくなった、あれは。
 嬲るような緩慢さで焦点が合っていく。逸らそうとする意識と同期するように、時折視界が滲む。けれど確実に輪郭をはっきりとさせていく。横たわった、ブラックスーツの、長い髪の、小柄な、少女の、身体。
 叫ぼうとした喉から黒い澱が湧く。
 考えることが億劫になっていた。瞼が重い。眠ってしまったらもう二度と醒めないかもしれない、と思った。こうしていれば死ねるだろうか。あるいはあの、コールタールのような影にでもなれるのだろうか。そうすればもうなにも、傷つけなくて済むのだろうか。傷つかないために傷つけようとした無意識に対抗するかのように、傷つけないために塞ごうとしている意識。良いではないか。それは、それで。贖罪も叶わないのならば、せめて、それくらいは。
 どろどろと、墨色の沼に侵される。
 ――なんだろう。いま確かに、事実の端に、掠ったような気がしたのだけれど。

 目が、覚めた。

 瞼を開けると胡蝶と眼が合った。
 反射的に跳び退こうとして椅子を軋ませ、危うくバランスを崩して倒れかける。椅子が傾いた瞬間にキャスターが一つ宙に浮いたのを、確かに感じてどきりとする。
 わっ、と驚いた声をあげて、胡蝶が身を引いた。頓狂な声も大袈裟な身振りも、確かに椎名のよく知る相棒のものだった。
「びっくりしたぁ……起きてるなら起きてるって言ってよ」
 口を尖らせて自分の椅子に腰を下ろす。その様子を、椎名は無言で見つめている。動いていないはずの心臓が、鼓動を乱している。長い髪。ブラックスーツの似合いもしない童顔は、相変わらずくるくると表情を変えて、死人のくせに生きている。
 なにも言わない椎名に不安を覚えたのか、胡蝶は僅か困ったように眉を寄せて、顔色を窺うような眼差しでこちらを見た。
「……どうしたの?」
「どう、って」
「ひっどいカオしてたから」
 わざと冗談めかしたような彼女の顔こそ泣き出しそうなほどこわばっていたことは、わざわざ指摘する気にもなれなかった。
「悪い」
「答えになってないよ」
 たった今夢の中であんたを殺して壊れてきたと、告げる気には尚更なれなかった。

――了


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