葬儀屋

一‐一、


 背凭れの軋む音で、椎名はゆるりと覚醒した。
 遠くに仕事部屋の喧騒。焦点の合わない視界に、殺風景なデスクが映る。散らばった数枚の書類。無造作に投げ捨てられたボールペン。――そうだ、仕事をしなければならない。一仕事してきたあとなのだからもう少し休んでも罰は当たるまいが、同僚から浴びせられる視線を思えば、仕事をしていたほうがまだましというものだった。少なくとも、仕事をしてさえいればこの場所に居なくて済む。仕事をしてきたらしてきたで、同じような眼で見られるのは必至だったが――そうなればまた、出かけてしまえば良いだけの話だった。ある意味自分はワーカホリックなのかもしれない。
 首を鳴らしながら小さく溜息をつくと同時、隣から呆れたような声が飛んできた。
「あ、起きた」
 惰性で隣を向くと、長い髪の少女が、声音そのままの呆れ顔でこちらを向いている。丸い眼が恐怖も忌避も宿していないことに、椎名はむしろ狼狽した。
「知らない間に居なくなって、帰ってきたと思ったらこれだもんなあ」
 わざとらしい台詞を呟きながら、彼女は机の上で書類の束を揃えた。童顔に似合いもしない溜息と、書類を揃える小気味良い音とが、当てつけのように響く。似合わないといえば、喪服然とした黒スーツと黒ネクタイも、この少女には面白いくらいに似合わない。
「ああ」
 生返事をすると、今度は膨れられた。そのまま椎名から視線を逸らしたが、その所作でさえ親しげに見えてしまう。――彼女のこの人懐こさは、「生来」のものなのだろうか。それとも、単なる無知によるものなのだろうか。あるいは、椎名がなにかとんでもない勘違いをしているだけなのか。未だに名前の思い出せない相棒の顔を眺めながら、椎名はどうでも良いことを考えた。
 背凭れにだらしなく背中を預け、見るともなしにデスクの上を眺める。ブラインドの隙間から陽が射しこんで、書類の上に縞模様ができていた。明るい窓際といえば聞こえは良いが、実際に座ってみると、眩しくて仕事が恐ろしくやりづらい。これは俺を追い出す手のひとつだろうか、と、椎名は愉快な想像をした。窓際族とはよくいったものだ。あのいけ好かない上司なら、そのくらいのことは涼しい顔をしてやってのけるに違いない。
 報告を書かなければ、ということをようやく思いだして、転がっていたボールペンを手に取った。書類とペン以外には、抽斗の中まで含めてもほとんどなにもないデスク。実際、書類を書くときくらいしかこの場所は使わない。あとは椅子に凭れて寝るくらいだ。そうだとすると、自分がこの班室に居る時間はこの場の誰よりも短いだろう。
 ペンを走らせている間は、なにも考えずに済んだ。
 こなしてきたばかりの仕事の感触が、指先からざわざわと這いのぼってくる。歪んだ表情は、巧く隠せているのだろうか。隣の少女に気づかれてはいまいか。今になってまで表情を隠そうとするのが、我ながら可笑しくもあった。
「仕事終わんないよ」
 隣で彼女が、困ったように呟いた。今度は当てつけなどではないようだ。
 椎名は無視して書類を埋めつづける。彼女が所在なげに溜息をついているのを、視界の隅でだけ認めた。
 仕事は二人一組で。それが、この仕事場における暗黙の規則だった。つまり、椎名を相棒に持つ彼女は、椎名が動かないことには仕事ができない。その上、彼女はまだ働きはじめて日が浅かった。例え「二人一組」のルールがなかったところで、彼女一人で仕事ができるとは思えない。彼女自身もそれをよく解っているからこそ、椎名を放って仕事に出かけるなどという無茶はしないのだろう。だがそれにしても、二人一組などと誰が決めたのだろうか。刑事でもあるまいに。大人しく仕事をするにしても、実力行使に出るとしても、一人で充分だ。相棒の存在など、煩わしいだけである。
 ――彼女は知るまい。彼女が「終わらない」とぼやいた仕事の何件かを、椎名がついさっき、一人で文字通りに処理してきたことを。
 ペンを置き、椎名はなんとなく彼女の横顔を眺めた。まだ当分見慣れることはなさそうな顔だ。たぶん、大学生になるかならないかという年齢なのだろうと思う。だが丸顔で童顔だ。椎名が周りから厭われていることを理解しているのかいないのか、平然としてくっついてくる。鈍いのかもしれないが、たまに妙に鋭いことを言うからそういうわけでもなさそうだ。総じて言えば掴みどころがない。――彼女が苦手だった。見慣れる前に彼女との縁が切れることを願う。
 ――仕事してりゃ満足か。
 先程の思いが、再び脳裏を掠める。微かに波立った苛立ちを逃がさずに捉える。苛立ちの一つも原動力にしなければ、動けそうになかった。
 そこまで至ってようやく、彼は少女の名を思い出した。
「胡蝶」
 少女が驚いたように振り返る。椎名は無言で手を伸ばし、彼女が揃えた書類の束から、一枚を無造作に抜き取った。きょとんとしている彼女を無視して、緩慢な動作で立ち上がる。書類を一瞥すると、茶髪の女子大生と眼が合った。写真の隣に、名前その他の個人情報。中川亜由美――二十一歳――交通事故で死亡――恋人に執着――字の羅列は、どれもこれもどこかで見たような情報の断片でしかない。ただ、書類に示された相手の居場所だけを確認する。それだけだ。あとは用済みになる、ただの紙切れ。
 書類を畳んで胸ポケットに収めた。ポケットに引っかけていたサングラスをかけると、視界が途端に暗くなる。それで少し落ち着いた。
 胡蝶に背を向け、窓際に立てかけた商売道具を掴んだ。胡蝶の気配が強張ったのが手に取るように判ったが、それも無視する。
「椎名君……」
「仕事だ」
 吐き捨てるように言う。胡蝶を見もしなかった。
「そうしとけばあんたは満足なんだろう」
 暗い視界に、長い日本刀を掴んだ自分の手が見える。骨ばった手。
 ちらりと横目で背後を見る。いつの間にか椅子から立ちあがっていた胡蝶が、狼狽しきった表情で椎名を見つめていた。小さな手が、胸の前で拳を作っている。泣き出しそうにも見えた。
 鬱陶しい。
「他の奴らが俺をなんて呼んでるか知ってるか」
 自嘲的な台詞が、不意に口をつく。それから意識的に唇を歪めた。
 返事はない。ただ、怯えた眼だけがこちらを向いている。――そう、それで良い。そのほうが、早く独りになれるというものだ。
 心なしか、室内の喧騒がぎこちない。今や、先程まで騒いでいた同僚たちまでもが口を噤んでいるような気がした。意識のどこかで、誰もが椎名と胡蝶を見ている。だが、だからどうだというのだ。そんなことは、今に始まったことじゃない。
零度の鎮魂歌[ゼロ・レクイエム]だ――憶えとけ」
 俺に近づくな。
 そんな圧力をこめて。
 左手の刀を握りしめ、有無を言わせず目を閉じた。念じた場所へ、意識がぐいと遠ざかるのを感じながら――椎名は瞼の裏に、胡蝶の怯えた紅い眼を見ていた。

 人間には二種類いる。死んですぐに輪廻転生の輪に戻ることができる者と、死後もずるずると現世に留まる者。後者が、俗に言う「幽霊」である。
 だが本来、死者は現世と相容れないもの。現世の舞台から降りた者が、現世に関わりつづけることは許されない。
 それがため、現世に留まる魂を、輪廻の輪に戻してやる役目を持った――死者が存在する。黒髪と、紅い眼と、喪服の使者。
「葬儀屋」。
 それが、自らも死者たる椎名の肩書だった。

 小さなアパートが、毒々しい朱色に染め上げられている。サングラス越しにも容易に感じられる夕焼けに、椎名は思わず目を細めた。サングラスも、意外なところで役に立つものだ。
 真冬に相応しからぬ夕陽に対抗するかのような暗さで、アパートがくっきりと暗い影を落としていた。裸の木も、走り回る子供たちも、それぞれに影を伸ばしている。椎名の長身痩躯だけが、夕陽に貫かれたままで影とも無縁だった。
 思い出したように、日本刀をベルトに捻じこむ。それ以外には、緩めた黒いネクタイを締めることも、ジャケットのボタンを留めることもしない。とんだ不良弔問客だ、と思ったが、いちいち直すのも面倒なのでやめた。どうせ、すぐに終わらせる仕事だ。さっさと片付けて、また眠ってしまおう。そうすればなにも、しなくて済む。
 できないはずの溜息をついた。髪を掻きあげ、注意深く視線を走らせる。探す顔は、書類に貼りついていた茶髪の女子大生。
 中川亜由美。
 それが標的の名だった。
 交通事故で死んだものの、恋人への想いを募らせたばかりに現世を離れられず、恋人の傍に留まりつづける――。書類は一瞥しただけだったが、その程度でもおよその経緯は察しがついた。単語だけ拾えば簡単に出来上がる物語だ。そんな陳腐な理由で現世に留まる魂は、案外多い。
 生者にとって、死者の存在など無意味でしかないのに。いずれ死者のことなど忘れてしまうことは解りきっているのに。自分を忘れてしまう恋人の傍に居ることなど、それこそ苦痛でしかないはずなのに。なぜ、生死の均衡を冒してまで執着する。なぜ、そんな未練を残す。そんな無意味な選択を、なぜする――。問うたところで、死者自身にも答えは判るまい。それは全て、無意識下での出来事だ。だが少なくとも、死者が現世に留まることは許されない。なぜと問うことすら許されない、それは厳然たる掟だった。
 掟には番人が存在する。
 そして今、生死の番人を務めるのは椎名の役割だった。
 小さく溜息をつき、眼の前のアパートを仰ぎ見た。小さな建物の二階の隅に、眼を留める。そこには、若い女が予定調和のように立っていた。
 明るい茶髪のショートカット。書類に見たのと同じ顔が、ぼんやりと遠くを眺めている。白い手が二つ、氷のように冷たいはずの手すりを掴んでいるのが見える。とうに気づかれていたのかと思ったが、彼女は椎名などには見向きもしていなかった。どこか、ずっと遠くを見ているらしい。
 右手の薬指に、小さな指輪が光っている。
 それだけを確かめると、椎名は無言でアパートの中に入りこんだ。階段に足をかけ、踊り場の暗い影に同化する。影の中に入ってしまえば、自分が影を持つのか持たないのかも判らなくなった。
 同族にしか聞こえない、革靴の足音。薄暗い階段を上りきると、夕陽に焼かれた廊下がまっすぐに延びていた。無機質な扉が等間隔に並んでいる。薄汚れた廊下の突きあたりに、小柄な影。青いセーターと黒いスカートは、この赤さの中でひどく異質に映った。
 影の伸びない足も。
 革靴を意識的に鳴らしながら、中川亜由美に近づく。音に気づいてかこちらを向いた彼女と、唐突に眼が合った。
 虚ろな眼だった。
 椎名は無造作に、相手を見返す。ほんの一瞬だけ、亜由美は不審そうに眉根を寄せた。全身を見るからに不吉そうな黒スーツで固めている男など、不審者以外の何者でもないのだろう。サングラスと刀が余計にそれを煽っているのかもしれなかった。椎名はなおも見つめていたが、彼女のほうは、すぐに興味を失ったらしい。彼女が椎名から視線を逸らしかけた瞬間、
「行かないのか」
 低い声で呼びかけた。
 亜由美はきょとんとした表情になって、椎名を振り返った。首を傾げ、それから二度瞬きをする。自動人形のような動作。眼の虚ろさが消えないのが不気味だった。
「……行かない、って?」
「大学に」
 視線の先を亜由美の眼に固定して、必要最低限の言葉だけで答える。サングラス越しの視線に、彼女が気づいているのかどうかは判らなかったけれど。
「待ってるんだろう、後藤隆介を」
 亜由美は小さな目を見開いた。
 冷たい風が、身体の中を通り抜けた。
 椎名は彼女をじっと見つめ、ゆっくりと問いかける。心なしか、粘着質な口調になった。
「待つくらいなら、迎えにでもなんでも行けば良い――そうだろう」
「解ってないわね」
 椎名の言葉を遮って、亜由美は不意に笑いだした。気取ったような物言い。片頬に笑窪。――なぜ彼のことを知っているの。一般人なら当然発するはずの疑問は、彼女の頭には浮かばないらしい。
 椎名はなにも言わない。たぶん、表情も変えていない。亜由美はいつの間にか、先程とは打って変わって余裕のある笑みを浮かべていた。優越感とでも呼べば良いのだろうか。
「行ったら邪魔になるじゃない」
 当然のように、亜由美は断言した。
「リュウにはリュウの生活があるんだから、私が邪魔しちゃいけないのよ」
 だから待っているの。
 そう言って再び、平然とアパートの手すりを掴んで道を眺めはじめた。唇には、満ち足りた微笑が浮かんでいる。残光に貫かれた横顔は、どこか妖艶にも見えた。
「だから、リュウが帰ってくるのを待ってるの」
 歌うように言葉を転がす。
 椎名は黙っていた。――邪魔をしちゃいけないから、などと。彼女がそんな殊勝な理由から動いているのではないということを、宣告することもしなかった。生者に嫉妬するのが怖いからだ、という深層心理を突きつけることもしなかった。
 亜由美の恍惚とした眼に、わずか狂的な光を見た。それで充分だ。
「待って、どうする気だ」
「一緒に居るの」
 椎名のほうを見もせずに、歌う。
 彼女は既に壊れている、と思った。自己陶酔が着実に彼女を喰らっている。彼のことならなんでも知っていて、解っている。自分はずっと、彼と一緒に居る。その資格がある――そんな思いこみ。だがそもそも、現世に残ったところで碌なことはないのだ。凝縮された感情はやがてヒトの形を失い、影になってしまうのが落ち。影のない魂か、魂のない影か。死んでしまえば、そのどちらかしか選択肢はない。しかもそのまま恋人の傍に居れば、更に残酷な結果になる。自分が過去の人となり、恋人に新たな恋人ができる様子を目の当たりにしようものなら――亜由美のような女なら尚更、なにが起こるか解ったものではなかった。
 ――そうやって自分を壊してなにが楽しい。
 ベルトの刀に触れる。壊したいのは、椎名のほうなのかもしれなかった。
「解らないのか?」
 平坦な口調で問うと、亜由美が横目で見返してきた。鬱陶しがっているのかもしれない。いくら彼女でも、そろそろ椎名を不審者だと認識しておかしくない頃合いだった。だがそれならそれで、こちらもさっさと仕事にかかるだけのこと。
「死人のあんたがそこに居ることが、男を不幸にしてる」
 わずかに硬直。次いで勢いよく、身体ごとこちらを向いた。スカートが揺れる。亜由美が一瞬足元に視線を落としたのを、椎名は見逃さなかった。
 ブーツの足に、影はない。
 亜由美は椎名を凝視している。椎名は無表情に亜由美を見返し、一本調子で続けた。
「あんたの葬式、挙げにきたぜ――中川亜由美」
 彼女は、薄い肩をびくりと震わせた。思わず両手で肩を抱き、椎名を睨みつける。
「おかしなことを言わないで」
「どうだか」
 鼻で笑い、肩を竦める。
「認めたくないだけだろう」
 刀を握りなおす。亜由美の視線が、初めてベルトの刀に注がれた。狼狽と恐怖。
「あんたが執着してるだけだ。男のことなんかお構いなしにな」
「やめて」
「独占したいんだろう。邪魔しちゃ駄目だなんて言っといて、あんたはちゃんと解ってるんだ。死人のあんたに後藤隆介を独占することはできない。見たくないだけじゃないのか。後藤隆介の大学に行かないのも、このアパートから動かないのも」
 夕陽が沈む。蒼い夕闇が忍び寄る。亜由美の顔が蒼ざめる。とうに死んでいるくせに、血の気が引くというのもおかしな話だ。
 否、そもそもおかしな話と言うなら、今の椎名の遣り口だって相当に歪んでいる。「葬儀屋」の仕事は、魂を未練から解放すること。本来なら――亜由美が死人であることを指摘する。恋人も寂しいのだと諭す。見守るなら傍でなくても良いだろうと説く。後藤隆介のところに連れていっても良い。他にいくらでも、遣り口はあるはずだ。
 だが。
「どうせ、後藤隆介は中川亜由美を忘れていく」
 同情でも説教でもなく、椎名は挑発を選んだ。
「案外、あんたが居なくなってせいせいしてやがるかもな」
 椎名が嗤うと、亜由美は両手を固く握りしめた。見開いた両眼は椎名を凝視したままだ。両の拳が細かく震えている。鮮やかな残光に、ペアリングの小さな煌めきも虚しい。
「死人はもう用済みなんだよ」
「……どうして」
 亜由美は、声を絞り出した。
 真っ白な顔とか細い声。死ぬ直前も、彼女はきっとこんな顔をしていたのだろう。
「わたしは」
 怒るでも、泣くでもなく、亜由美は呟いた。呆けたような表情で。
「一緒に居たいの」
 その彼女の輪郭が――じわりと、漆黒に滲んだ。
「好きなの」
 椎名は唇を歪め、刀の柄を掴む。
「好きなの、好きなんだってばあッ……!」
 急速に黒に冒される。肩を抱いた立ち姿は、輪郭を消し暗闇に同化する。影――それは感情のカタマリ。現世に留まった魂のなれの果て。椎名は鞘を払う。足を踏みだす。動揺と恐怖に歪んだ女の顔。甲高い絶叫。見開かれた両眼に椎名の表情が映る。凄まじい愉悦の表情。刃が入る。絶叫が聞こえる。コールタールと血飛沫が散る。それは見慣れたヒトと影の残骸。斬り慣れた魂の感触。
 中川亜由美だった魂は、血溜まりと、黒い粘り気の中に崩れ落ちた。
 最後の夕陽も消えた。
 耳に残ったのは、甲高い絶叫が二つ。
 それだけ。
 ――二つ?
 腰を落としたままの姿勢で反射的に振り返った。
 見開かれた双眸が凝視してくる。
 既視感。だが亜由美ではない。小さな手で口を覆っている。背中まで伸ばした黒髪と、真っ赤な眼と、黒スーツと黒ネクタイの少女。小柄で童顔の少女。椎名の隣席に座っていた、あれは――
「胡蝶」
 名を呼ばれ、少女の身体は跳ね上がった。
 黒いパンプスを履いた足が、一歩後ずさる。だが震える足は、体重を支えるのにさえ失敗した。バランスを崩した少女の身体が、その場に呆気なく崩折れた。それでも、彼女の眼はまだ椎名を見ている。視線が突き刺さる。
 椎名は身体を起こし、緩慢に立ち上がった。身体ごと胡蝶のほうを向く。だが近づく気にはなれなかった。たぶん彼女も、そんなことは望んでいないだろう。
 胡蝶の身体が小刻みに震えている。それでも両眼は彼を見ている。
「あんた……なんで来た」
 呟いた声は、自分のものとは思えないほど疲れきっていた。
 右手に提げた刀が重い。刀自体も、刀身に絡みついた影の残骸も、血も。そんなものには慣れているのに。
 足元で、中川亜由美だった塊と、小さな血溜まりと、コールタール状の影の残骸が消えはじめている。地面に吸いこまれるように。なにも起こらなかったかのように。こうして彼女は、輪廻の輪に戻っていく。こんな方法を使ってでも、輪廻の輪に戻していく。こんな方法を使ってでも、満たそうとする「衝動」――殺人衝動。
 なにもなかったかのように。
 なにもなくはなかった。
 胡蝶が椎名を見ている。
「なんで来たんだ」
 再び問う。
 彼女は答えなかった。答える代わりに、力なく首を振った。嫌々をするように。
 真っ赤な両眼から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
 それから一言だけ、絞り出す。
「ころさないで」


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