星間距離

四、


  悪意を向けられれば嫌だと思う。危害を加えられれば怖いと思う。二度と近づきたくないと思う。けれどそういう感情を抱けば抱くほど、相手は歪んだ笑みで近づいてくる。しばらくは耐えるだろう。ひっそりと涙するだろう。けれど、誰かになにかを問われれば、笑顔を取り繕うしかない。その笑顔さえ作れなくなったとき、ぽきりと音がして、――あ、逃げようかな。唐突に逃げだす瞬間が訪れる。
 そうして死の側に逃げてきた人間を、嫌というほど見てきた。見てきた、ということは、即ち、死の側に逃れながらなおも未練を持って生者の世界に留まりつづけたということだ。
 逃げてきたならちゃんと逃げきれよ、といつも思う。しかし、そう単純な話でもないらしいと考えを改めた。そもそもが、自分の意志とは無関係に、逃避せざるを得ない状況に追いこまれた魂たちだ。
 同情は、ある。
 ただ、だからといって現世残留を認められるわけでもない。それとこれとは別問題だ。死した理由がどんなに悲惨であろうとも、既に死んだ身でありながら現世に留まっていれば輪廻に還さなければならないし、強すぎる未練に喰われ影と化せば始末しなければならない。事務的な言葉で繕ってはいても、所詮は殺される運命だ。
 それが生死の掟。高すぎる生死の壁。
 それならせめて、ヒトの形を保っているうちに、穏便に輪廻に還ってはくれないかと――そう思うのは、都合の良い相談なのだろうか。そこまで気を遣っているのだから、影になったのならば大人しく始末されてくれというのは。
 ――怨むなよ。
 少年の自室を侵す前に、夏野は無言で呼びかけた。
「星見」
 相棒の名を囁くと、彼女は唇を引き結んで顔を上げた。覚悟を決めた顔だ。その腰に銀の銃を帯びていることを、夏野は知っている。
「泳がせるまでもない。もし影になったら一気に片づける。輪郭から黒く潰れるのが合図だから、すぐ判る。そうなったら躊躇するな」
 早口に言って、準備しとけよ、と付け加えると、彼女は頷いて銃に手を触れた。つられて夏野もナイフの位置を確かめる。鉛筆ばかり削っていても隠しようがない。いくら取り繕おうと、本性はヒトゴロシの道具だ。
 嫌な仕事だ。理性は慣れたつもりでいても、本当は慣れてなどいないのだろう。慣れたら終わりだ、とも思う。
 ――使いたくはないんだけどな、こんなもの。
「大丈夫か」
「……大丈夫」
 星見が硬い顔で応じる。鵜呑みにしたわけではなかったが、今は信じるしかあるまい。
 最後に一瞬、視線を交わした。
「行くぞ」
 言って、そろりと部屋に足を踏み入れる。
 六畳間に机とベッド。ベッドに凭れかかる姿勢で膝を抱えている少年と、眼が合った。
 呆けた脆い眼かと思いきや、予想外にぎらついた眼差しにどきりとする。あれは、――。
「誰?」
 先を越された。眼は夏野に固定されている。同年代に見えるからだろうか。それなら、星見はさしずめ若い担任教師といったところだろう。そんなことを考える。そんな分析は現実逃避にすぎないと、理性は冷静に判断している。
 少年は瞬きすらしない。
 ――駄目だ。
 第三者の存在自体が、彼にとっては禁忌だった――。
「『葬儀屋』だ」
 早々に名乗りを上げ、意識して重心を低くする。
「お金ならないよ」
「お金?」
「シカトも飽きただろ」
 それは、退屈な門番が排除すべき対象を見つけた眼であり、平穏に微睡んでいた小動物が捕食者を見つけた眼だった。
「殴っても面白くないよ」
 そんなことをしにきたんじゃない――こみ上げた言葉を直前で呑みこんだ。代わりに少年が機械的な瞬きをする。寺西稔。彼が名前を持った一人の人間であるということを意識した。このあと彼がどんな姿になろうとも、彼をどんな形で還そうとも、彼は人間である――いじめを苦にして自宅で首を吊った、一人の中学生である――それを忘れるな。
「もう関わらないで。放っといてくれよっ」
 他者と接すること自体が[たが]を外すことになると、初めから解りきっている魂がある。どう考えても、「葬儀屋」が派遣されていくこと自体が藪蛇だという魂が。輪廻に還すなどと、大義名分も馬鹿げていて話にならない。だが、放置したところで活路はないのだ。状況を悪化させるだけ。ならば早いうちに強制的にでも始末するのが「葬儀屋」の仕事だ。そんな魂だからこそ、実際に姿を見て眼を見る前から、公的に「殺害」を許可されるのではないのか。
 始末するために、会いにいく。
 殺害を正当化するために、会いにいく。
 そんな仕事が、在る。
 夏野は露骨に舌打ちをした。いつでも抜けるよう、素早くナイフに視線を走らせる。並んだ二本のナイフ。
 舌打ちに過剰反応した少年から、なにかが弾け飛んだ。
「なんでそんなに俺に付きまとうんだ!」
 叫びをあげる少年の口が、喉から湧いた墨で満ちた。輪郭。そう、口だって、人間を縁取る輪郭線のひとつには違いない。
 躊躇いなく、ナイフを一本抜く。背後で星見が息を呑んだ。呪文じみた口上を早口で呟く。
「俺は夏野だ。お前は、寺西稔。――悪く思うなよ」
 辛うじてヒト型を保っている両腕が頭を抱えこんだ。咆哮とともに飛び出したコールタールが肘を侵食する。金属板を熱が駆けるように、黒が飛び火する。生者への恨みと生への執着を残していたがために二度死なねばならないとはなんという皮肉だろう、と、夏野は幾度となく使った独り言を閃かせる。
 身体はじっとりと捻じ曲がり、やがてヒト型を見失う。不定形の闇は球形に収束する。
 ――彼女は銃を抜けるだろうか。
「やるぞ」
 相棒の返事を待たずに踏みこんだ。大丈夫。彼はただ恐怖しているだけだ。傷害や殺戮を欲しているわけではない。影と化した魂にしては、ごく平和な部類だ。それなら確かに、初めて相手取る影としては最適だろうか。
 寺西稔は名前を失くした。
 けれど呻くような叫び声は、多分まだ彼のものだ。
 ナイフを逆手に構えて一気に振り下ろす。だがぎりぎりのところでひらりと避けられた。人間としての重量をもっていたはずの彼は、もはや形もない。あるのは平面的な闇だけだ。――しくじった。一歩飛びのいて間合いを取る。狭い部屋ではこの一歩が貴重だ。せめて手早く片付けてしまいたい。そのほうが互いに良いというものだ。銃なら一撃で済むものを、なぜ自分に与えられたのはこんな小さな刃物でしかないのだろう。雑念が満ちる時間を与えられても、良いことなどなにもないのに。それともさっさとナイフを投げつけて飛び道具にしてしまえば良かったのだろうか。貴重な武器を失うリスクは、できれば避けたいのだけれど。――ああ、駄目だ。また余計なことを考える。たぶん殺したくないからだ。
 痙攣するように、影が細かく震えている。逃げるように、じりじりと夏野から遠ざかる。気の毒に。あんな姿になってなお、他者を恐怖しているというのか。
 否。
 なんの根拠もなく否定する。否定しなければやりきれない。――解ってるよ。お前はなにひとつ悪くないんだ。でもお前はここに居ちゃいけないんだよ。それだけだ。
「怨むなよ」
 もう一言呟いて、再度ナイフを構える。一瞬視線を落とした刃先に、背後の相棒が映りこんだ。ぼやけた黒い立ち姿は、この場に降り立ったときのまま微動だにしていない。
 振り向く。星見が硬直していた。部屋に入れもせず、廊下の真ん中で。見ているのは夏野か、それとも影のほうか。判断がつかない。
 ――ああ、駄目だ、こいつ。根本的に向いてないな。思った矢先、棒立ちの星見が唇だけを動かした。
「駄目ね。この子には、根本的に無理」
 星見の声だったが、彼女の言葉ではなかった。声を発した星見が驚いたように口を塞ぐ。けれどその仕草も嘘のように、彼女は妖艶に笑って腰に手を掛けた。冗談のような独り芝居を、夏野は身体を捻って見つめている。
 見慣れた手が銀の銃を手にして、躊躇なく構えの姿勢をとる。
「おい」
 思わず制止するより、彼女が片目で発砲するほうが早かった。爆音。振り返る。墨色の影はまだそこだ。ただ怯えたように痙攣を止めた。外した。思うと同時に更に一発。丸い闇の輪郭が微かに爆ぜる。――掠ったか。続けざまに放たれた三発目が、コールタールの端を貫通した。衝撃音のような悲鳴。
 咄嗟に動いた。ナイフを構え、踏みこんで斜めに振り下ろす。斜め二つに分断された魂の残骸は、悲鳴も残さず黒い飛沫だけを上げた。弾痕を掻き消す位置を狙っていたことに気づいたのは、影が消え去ったあとのことだった。
 悶えるように黒い飛沫を撒き散らし、それも空気に溶けるように徐々に薄くなる。ナイフの刃先についた残骸は放置した。拭わなくてもどうせ、本体と同時に消えてしまうのだ。スーツの袖についた汚れだけを、乱暴に擦り取る。
「意外と外れたわね」
 背後で独り言が聞こえたが、夏野は振り返らなかった。月見だ。台詞と声音で解る。いつの間に入れかわったのだろう、とわざとらしくも考えたのは、嫌な予感がしていたせいだ。
 手にしたナイフを見る。べっとりと付着していたコールタールの最後の一滴が消えた。――呆気ない最期だった。そうでなければ困るのだけれど。下手に手こずってしまえば、こちらが面倒な傷を負うか、相手が不要な凶暴性を身につけて仕事が余計に面倒になるか、いずれにせよこちらの身が危うくなるのは間違いない。呆気ないくらいでちょうど良いのは確かだが、それでも、酷い副作用に苦しむような後味の悪さがあった。
 ナイフの刃を傾けると、紅い眼をした少年が憂いの真顔で見つめ返してくる。表情の原因は、仕事それ自体ばかりではあるまい。
 覚悟を決めた。
 ひとつ無意味に息をついて、降り返る。
「……身体を動かし慣れてないせいかな。それとも、あたしも銃に向いてないのかしら」
 計ったようなタイミングで呟いて、銃をホルスターに仕舞いこむ。思い出したようにカチューシャの位置を直し、乱れた髪を片手で軽く払った。真っ直ぐに夏野を見て、微笑みながら小首を傾げる。計算された角度だ、と感じた。
「夏野クン、どう思う?」
「今、星見とダブったろ」
 一方的に問うと、月見がきょとんと無防備な表情になる。その一瞬だけ星見と区別がつかなくなったが、直後に弾けた明るい苦笑は間違いなく月見のものだった。
「怖い顔しないでよ、非常事態じゃない」
「とぼけるなよ。お前が出しゃばらなきゃならないほどの非常事態じゃなかったはずだ」
 星見がなにもできずに成り行きを見守ることしかできないなら、それでも良かった。星見は衝撃を受けていただけだ。影のほうとて、星見どころか夏野を襲う気もなかったのだ。わざわざ月見が現れて、あとの事態を面倒にすることもない。
 皮肉な言葉にほんの一瞬、軽薄な笑いを引っこめた。
「……あたしだって」
 言葉を待った。けれど彼女の顔には空白が浮かんだままだ。
 六畳間の中と外。物理的にはあってないような距離を、夏野は詰められずにいる。
「……夏野」
 名を呼ばれてはっとした。いつの間に。
「夏野」
「なんだよ」
「教えて」
 空白だった表情に、ふつりと戸惑いが湧く。それを無視しようと努めたが無駄だった。彼女はいま星見で、夏野を見つめている。
「わたしは誰?」
 そりゃないぜ――。大仰に宙を仰いで嘆きたくなった相手は飛鳥だったか月見だったか。夏野には判らなかった。


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