落日


  改札口でICカー ドを取り落とし、私は思わず息を止めた。反射的に窓口を見ると、眠そうな眼をした駅員と眼が合う。慌てて顔を逸らしてカードを拾い、乱暴にリーダーに押しあてた。改札口をすり抜けた瞬間、残額を確認し損ねたことに気づいたが、充分残っているはずなので大丈夫だろう。足りなくなれば、チャージをすれば良いだけの話だ。ただそれだけの話。なにも問題はない。
 早足でホームに滑りこみ、いつも並ぶ柱の横を避けて適当な列の最後尾についた。視線を落とし、ささくれ立ったアスファルトばかりで視界を満たす。辺りには制服姿の中学生や高校生が溢れかえっているはずだが、若い笑い声はほとんど聞こえていなかった。夕陽の色にも、今の私は興味がない。
 足許を眺めていると、視界の隅をローファーやスニーカーが横ぎっていくのが時折ちらちらと見える。私もかつては、あんな靴を履いて友人と騒ぎあっていたのだろうか。記憶を辿ってみるが巧くいかない。制服を着て、クラスメイトや部活の仲間と――あのとき、私はなにを喋っていたのだろうか。それはたぶんごく些細なことで、けれど当時の私にとってはとてつもなく重要なことで、しかしあっという間に忘れてしまう日常の一部だった。今となっては、この夕陽のように眩しかった時代のこと。眩しくて、直視できなくなるくらいに。
 ジーンズの太腿に右手を押しつけて拭う。無意識の動作にふと恐怖を覚え、両手を乱暴にポケットに突っこんだ。寒くもないのに身を縮める。心臓はもう少し暴れても良さそうなものだったが、案に相違して凪いでいた。
 深く溜息をついた。
 ――操り人形になどなっているものかと、そう思いはじめたのはいつの頃からだっただろうか。正確に憶えてはいないが、それほど昔のことではなかったはずだ。彼奴と私の付き合いの長さからすれば、ついさっきとしか言いようのないほど最近のこと。思えばこれまで、彼奴の前では私の意志など無に等しかった。人形であることを自覚したときにはもう手遅れだったのだ。裏を返せばそれだけ、彼奴が私を人形として掌握しきっていたということなのだろう。
 金を絞りとられた。安寧も平安も奪われた。心身ともに衰弱していく私を、彼奴は含み笑いで眺めていた。そんな人間だった。けれど私はその笑みを、ただの笑みとしてしか受けとれなかった。それは愛情であると信じて疑わなかった。愚かだったのはこの私。
 自分が愚かであることにさえ気づけないほどの愚者であった。私は自分の意志で彼奴のために動いているのだと、そう信じきっていた。
 そうでないことに気づいたのはいつだっただろうか。
 ただひとつ――あの日も夕陽を見ていたような気がする。こんな毒々しい朱色などではなく、曇り空に霞むような、ぼんやりとした夕陽だった。霞みながら宵闇に沈んでいく太陽に、自分の姿を重ねたのかもしれない。それとも、久しくゆっくりと夕陽を眺めたことなどなかったことに気づいただけなのかもしれない。
 そのとき唐突に、自分は傀儡にすぎないのだということを悟った。
 従順な下僕ですらなかった。自分の思い通りに動く無機物としか、自分が扱われていなかったという客観的事実。友人が憐れむような眼で私を眺め、やがて一人また一人と私から離れていった理由がようやく理解できたような気がした。
 悟った瞬間、猛烈に――腹が立った。私に含み笑いと侮蔑を帯びた一瞥と絶対の命令しか与えなかった彼奴に。否、或いは、諾々とそれに従いつづけるしか能のなかった自分自身に。
 私があのとき刺したのは、彼奴の身体というよりは無能な自分自身だったのかもしれない。
 そう、あの私はもう居ない。私はもはや操り人形などではない。自分の意志で生きるべき――人間だ。
 構内放送が、電車の到着を告げる。私は少しだけ視線を上に動かした。アスファルトしかなかった視界に、前に並ぶ高校生の背中が割りこみ、その肩越しに、轟音をあげて滑りこんでくる電車が見える。屋根のないホームには西日が射し、鈍色の車体を眩しく染めていた。私もたぶん、あの色に染まっているのだろう。世界の終わりのような朱色に。
 電車が停まり扉が開く。制服とスーツの群れが吐きだされる。私服の若者は大学生だろうかと想像する。そのうちに私の並ぶ列も動きはじめ、追いたてられるように車内に詰めこまれていく。私はぼんやりと、流れに身を任せている。両手をポケットに突っこんだままで。
 鮨詰めになった車内で、私はふと窓硝子を見やる。一心に携帯電話を操っている若い男の向こうに、蒼白い顔が映っていた。私はその顔を嫌悪した。操り人形でしかなかった自分自身。自分の意志を持たない無能者。
 夕陽の眩しさに、思い出したように眼を細めた。
 ――この陽が沈んだら、私は生まれ変わるのだ。
 ――この陽が再び昇るときには、私は生まれ変わっているのだ。
 ポケットから右手を出した。人混みの中からゆっくりと手を伸ばし、斜め上にぶら下がる吊り革を握りしめた。その円環も朱色をしていた。
 もう一度窓を見る。蒼白い顔と眼が合った瞬間、電車はゆっくりと動きだした。そのとき硝子には、小さな含み笑いが映っていた。


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