「吾輩は無名である、名前は持たない――なんて、ね」 シルクハットの鍔に手を添えて、男はおどけた挨拶を掛けてきた。 思わず立ち止まる。正面に回りこまれてなぜ気づけなかったのだろう。それほど近い位置だった。 雨粒が傘を叩いている。 「ワタシを探していたんだろう?」 人懐こい笑顔を向けられて、知らぬ間に頷いていたらしい。気がつけば彼の後姿を追っていた。 このところ毎日見かける男だ。青年にも老人にも見える年齢不詳の男。気にしはじめてしまったその日から、あらゆる場所で見かけるようになった。顔を間近に見たことはなかったけれど、小綺麗なシルクハットを見紛うはずもない。そんなものを被っていては目立って仕様がないはずなのに、なぜか駅にも交差点にも、空気のように馴染みきっていた。そういえば先程間近に見た顔も、ごくありふれた顔立ちだった。記憶に残りにくい顔だ。 傘の並ぶ人混みを、男は泳ぐように歩いてゆく。 男が傘を差していないことに気がついた。シルクハットは雨除けのつもりなのだろうか。傘の代わりに、絵筆を一本携えている。筆先も軸も、使いこんだ風合いだった。 不意に男が立ち止まる。 シルクハットを軽く上げ、街路樹を見上げた。顔に雨がかからないのだろうか、と要らぬ心配をする。 男は無造作に絵筆を掲げると、雨に濡れた葉を筆でひと刷き、した。 緑の色が濃くなった――気がした。 彼がまた木を見上げる。満足そうに頷いて、何事もなかったかのようにまた歩き出した。人に紛れてしまいそうな後姿を追う直前に振り返ると、刷いていないはずの木の天辺まで、葉が色を濃くしている。――気のせいだろうか。 繁華街に入る。アーケードの入り口で傘を畳みながら、シルクハットを見失うまいと眼を凝らす。もしかしたら、と思っているうちに、彼はまた立ち止まった。街頭広告の前だ。雨傘を差した若い女性が、洒落たレインブーツを履いた写真。 男はしばらく思案顔で広告を眺め、やがて絵筆を女性の頭に添えた。軽やかに躍る絵筆の下に、確かに見えた。先刻まではなかったはずの、麦藁帽子が。次いで雨傘の上を刷くと、傘は綺麗に姿を消した。代わりに降り注ぐのは、強い日射し。 「地に足がついているっていうのは、そんなに重要なことかね?」 こちらの考えを見透かしたような表情で、男が愉しそうに言う。反射的に彼の足許を見たが、両足はきちんと地についていた。向かいの店の照明が、その足から薄い影を伸ばしている。確かに現実の存在だ。 絵の具の一滴もついていない筆で、男は軽くシルクハットを上げた。 「今の時期はやりにくいね。派手な動きができないから、働き甲斐もない」 そうして軽く笑う。そして当たり前のような足取りで、繁華街を横切っていく。寄り道のように立ち止まった八百屋の軒先で悪戯っぽく笑い、トマトと茄子の値札を塗り替える。そしてそのまま通りすぎる。彼の通った場所で、木は確かに色を変え、街頭広告の写真は装いを変えた。 あなたは、――。 「今の時期は無名だね。もう半年もすれば将軍様なんだが。……キミ、なにか良い名前で呼んでくれたまえよ」 アーケードを出るとき、男はきゅっとウインクをした。そして空を見上げ、雨粒の落ちる空中に大きく絵筆を刷く。不意に雲が途切れて強い陽が射す。ああ夏が来る、と眼を細めた。 |