人間相手の仕事である以上、現場の状況が最も重視されることは言うまでもないが、かといって現場だけで全てが片づくかといえばそういうわけでもなく、むしろ現場でどんなことが起こっても良いようにあらかじめ準備をしておくことこそが大切なのではないかと思い、あれこれと事前のシミュレーションを重ねはするものの、それもまた、現場というひとつの巨大な現実の前には机上の空論にすぎず、結局その場しのぎの策を弄するほかなくなってしまうのが常とはいえ、いざとなるとやはり事前準備に未練を持ってしまうことこそが最大の問題なのかもしれないと――長月は何度目とも知れない持論の撤回を迫られていた。 目の前で翻った長い三つ編みを止める間もなかった。 「なーに、辛気臭いカオ、してんのよっ!」 死者の真正面に回りこんだ 畜生、また止め損ねた――悪態が自虐めくのも更に気に食わない。 「橘花、てめえいい加減に」 「あんたに任せてたら長引いてしょーがないでしょうが」 怒鳴ったものの、思いきり舌を出しただけで済まされる。間髪入れず、驚いた顔の死者がこちらを振り返る。書類の真顔ばかり見ていたせいか、眼を見開いた女性の顔が、今回説き伏せるべき相手であると認識するまでにしばらくかかった。 ――説き伏せる。 わざわざブラックスーツで正装して、相棒と二人連れだって現世にやってきたのだから、するべきことは死者を説き伏せ輪廻へ還すこと以外に有り得ない。そのために書類を受け取り、相手の顔と名前と未練を頭に叩きこみ、宥めすかして未練を解きほぐし、あるいは誤魔化してなかったことにする方法を準備してきたというのに。 否。 考えるのはやめた。 言っても無駄なのだから、考えるだけなら余計に無駄だ。 黙って、頭を掻く。恐ろしく渋い顔をしているだろうと思ったが、死者の肩越しの相棒は、殺意のこもった視線をものともせず、ふんと鼻を鳴らして長月から視線を逸らしただけだった。困惑した死者の顔が橘花に向き、躊躇いがちに一度、長月を振り向いた。良いから橘花の話を聞け、と示すのに言葉でも微笑でも手つきですらなく顎を使ったのは、一種の八つ当たりだったのかもしれない。 「だいたいねぇ」 結局彼女の視線を引き戻したのは、仁王立ちになった橘花自身だった。びしりと人差し指を突きつけた瞬間、死者の後姿がまた微かに仰け反る。こうなるともう止めようがないことはよく解っていた。 「もーとっくに死んでて、それをちゃんと自分でも解ってるくせに、終わったこと全力で引きずってぐだぐだ現世に残ろうだなんてその根性が気に入らないわ」 「わ、私は」 「言い訳は認めないッ!」 高らかに言い放ち、死者が圧されて黙りこむ。長月は腕組みをして、勝ち誇ったような橘花の顔を眺めている。そして一欠片、死者に同情する。死後も現世に留まるという選択は確かにいただけないが、それを輪廻に還しにきたのがよりによって橘花だとは運がない。 「グダグダ未練引きずったってなんにも変わりゃしないんだから、綺麗サッパリ諦めてさっさと還るとこ還れっての!」 「私はただ、もっと生きたかった、って」 「だからそれが無駄だってのに!」 わずかに声量を上げた死者を押さえつけるように、ずいと顔を近づける。 「死んだらおしまい。生き返れないの。あんたがここに残ったら、生死の壁が崩れて生き返れるわけ? そんなハズないでしょ、バッカねぇ」 死者の後姿しか見えない。けれどきっと、なにか言いたげに口を少しだけ開いて、でもなにも言えずにまた閉じて、――そんな、どうしようもなく無為な仕草を続けているのだろう、と思った。 「そもそもあなたのお葬式はもう済んでるんだから。家族とか友達だって折角あなたの居ない状況に折り合いをつけつつあるのに、突然再登場するとかセンスなさすぎ」 正論なのだ。しかもそれを言っているのは、同じように「もう二度と生者の世界には戻れない死人」なのだ。それも、最近死んだばかりの死者などよりずっと長い時間、絶対に戻ることのできない世界に中途半端に足を突っこんだままでいることを強いられた死人なのだ。目の前の若い死者が、それを知っているはずはないのだけれど。 それを意図しているのかいないのか、橘花は相変わらず眼をつりあげていた。いつもは能天気な顔ばかりしているくせに、ずれた怒りを拗らせたときはいつもこんな顔つきだ。 「あんたみたいな未練がましい死人がいっぱい居るから、あたしたちみたいのが苦労するんだってのに」 「貴女、たち?」 「そーよ!」 嗚呼、そこで問い返したらこいつの思う壺じゃねえか――ていうか複数形にするな、俺を含めるんじゃない――渋い表情だけは崩すことなく、胸中だけで盛大に頭を抱える。この絶望感こそいい加減に慣れたいものだと思ったが、心の動きというのはそれほど巧くできていないらしい。 「あたしたちだってあんたと同じ死人だってのに、どーいうわけだか、あの世に逝きたくないって駄々こねる死人のお世話番を押しつけられてるんだから良い迷惑」 「……橘花」 努力して押し殺した声を出す。世話番は俺のほうだ、と言いたい気持ちを堪えるのに必死だった。 三つ編みがまた、尻尾のように翻った。三角形につりあげた赤い眼。 「なによ!」 「話が逸れてる」 指摘されてほんの一瞬、橘花の表情がきょとんと空白になった。その隙間を逃すまいと、呆気にとられる死者へ歩み寄る。一歩二歩、三歩近づいて真横に立つ。横顔のまま棒立ちになっている彼女が、恐る恐る長月のほうを向いた。なにかどうしようもない気持ちを抱えてこの場に立っていたはずなのだけれど、なんだかよく解らないけれど怒られてしまって、そういえばなにを思っていたんだっけ――この人、なんで私のほうを見ているんだろう――。 「なぁ」 呼びかけると、彼女が三度瞬きをする。なにか言いたげな橘花を横目で睨みつけてから、再び死者に向き直った。辛うじて我に返った表情。 親指を立てて、ぐいと橘花を示した。不機嫌な仏頂面は繕いようもなかったが、下手に笑ってみても嘘くさいだけだろう。 「こーいうメンドクサイ 相手がそろりと橘花を見る。反論の隙を与える前に言葉を継いだ。 「わざわざこっちに残ってみたのに来たのがこれじゃ、なんかもう、どーでも良くならねえ?」 女性が呆然と立ち尽くしている。 橘花は仁王立ちでむくれている。 長月は死者の眼を見つめている。 強張っていた肩が、不意に、拍子抜けしたように落ちた。そして困ったように、笑った。 「……大変なんですね」 「大変だよ、こんなん抱えてるとな」 真顔で答えると、死者がまた笑った。素直な表情だった。 そしてすいと風景を透かし、そのまま溶けて消えた。 ごくシンプルで、平和な仕事だった。 ――我知らず、安堵の息をついていた。橘花が暴れはじめたら、死者が自分を見つめなおすための鏡になってもらうに限るのだ。妙な触媒になって、死者のほうに暴走されてはかなわない。とはいっても――ここまでシンプルにする気はなかったのだが。 「あーもー」 事態を極端に単純化した元凶が、がばりとこちらを振り向いて口を尖らせた。 「長月のバカっ、もーちょっと言ってやりたいことあったのにー」 「馬鹿はてめえだ橘花、こんな無茶な仕事する奴があるか馬鹿」 「バカバカ煩いよバカー」 殴りかかってきた拳をひょいと身体を傾けて避ける。それが更に気に障ったのか反対側からまた拳を打ってきたが、それは掌で受け止めた。意外に鋭い殴打をしてくることがあるから気が抜けない。 悔しげな上目遣いを平然と見下ろすと、諦めたのかちぇっ、とわざとらしく呟いて両拳を腰にあてた。 そもそもさぁ、と鼻を鳴らす。 「こっちがなに言ったって未練なんてどーしようもないんだし、結局うやむやに誤魔化してるだけじゃん。そもそも死んだらそれでおしまいなんだから、同じことなら勢いで押して押して誤魔化したほうがずっとラクだし早いじゃん」 珍しく正論を言っていたので最後まで聞いてやった。それもそれでひとつの真理だとは、思う。 けれどわざわざ面倒な手順を踏んでまで、相手たる死者を納得させることに重きを置くのは――現世に留まりつづける死者を、ただの異分子ではなく意志を持った人間だと見做せということなのではないかと、少なくとも長月は、そう思っている。 反撃しないのを良いことに、最後に一言言い放った。 「だいたいねぇ、ヒトをバカ扱いして自分は真面目な常識人ぶるなんてサイテー」 思いきり舌を出した次の瞬間、相棒は呆れるような速さで消えた。現世からあちら側に戻る速度に速い遅いがあるということを、長月は橘花と組んで初めて知った。 死者一人取り残され、やれやれ、と肩を竦める。 「……一体誰の世話番なんだか」 独り言ちて見あげた空は青かった。 ――了 |