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治水者


 ここはダムだ。思ってしまってから、そのイメージが抜けない。本来なら流れて去っていくはずだった人を、無理に[]き止めている感覚が拭えない。
 片隅に固定しているウインドウを流れる名前の群れを眺めながら、珊瑚[さんご]はそんなことを考えている。苗字と名前とがセットになった、かつて生きていた者たちのフルネーム。その横にぴたりと張りついた無味無臭の一般名詞は、既に死んだ者の名乗る名前だった。現れて、そのあと去っていくはずだったフルネームを、一般名詞がパソコンの中へ引きずりこんでいく。一般名詞に捕捉されたら最後、フルネームはその誕生から死亡までを暴かれて、公式な書類として印刷される運命だ。
 もしここで堰き止めなかったらどうなるのだろう、と考える。もし、この場に居る情報局員が、誰一人ウインドウの中に現れたフルネームに気づかず、その誰かを流してしまったとしたら。彼は、彼女は、流れていくのだろうか。そして誰にも気づかれないまま、はぐれ者として漂いつづけるのだろうか。
 ――有り得ない。
 小さく首を振る。
 そもそも彼らは現世に残るべきではないのだ。生と死の間には、はっきりとした壁が在る。現世に留まってしばらくは、身体も意識も感情も、生きていた頃と同じように保っていることができるだろう。けれどそれは最初だけだ。遅かれ早かれ、彼らは煮詰まる。やがて一個人としての形を失い、影と呼ばれる感情の塊に成り果てる。
 だからそうなる前に、専門家が処置を行う。
 専門家が処置をするための検査を、技師が行う。
 そういうふうに、できているのだ。
 人は生まれ、そして死ぬ。一種類しか居ない人は、しかし死後において二種類に分かれていく。輪廻転生の輪に還っていく大多数と、現世を離れかねその場に残ってしまう少数派。その少数を宥めすかして説き伏せて――時には暴力的に――輪廻の輪へと還していくのが、「葬儀屋」と呼ばれる組織であり、管理局員という専門家であり、情報局員という技師だった。
 珊瑚は技師だった。
 そして死者だった。
 当たり前だ。死者に働きかける以上、その主体は死者でしか有り得ない。その役目を生者に負わせれば、それだけで生死の境が崩壊するというものだ。
 だから。
 現世を流れる彼らは、この手で堰き止めていかなければいけない。
 それだけの話だ。
 そこまで辿りついて、ふ、と苦笑いを零した。――なにを今更、当たり前のことを考えているのだろう。入りたての新人でもあるまいに。それともキャリアを重ねすぎて、一周回って原点回帰してしまったのだろうか。
 抱えこめる死者にはきっと、限りがある。
 珊瑚がかつて新人と呼ばれていた頃、ベテランと呼ばれていた先輩が、そんなことを言っていた。
 ――情報局員っていうのは、管理局員とは比べ物にならないくらいたくさんの情報を抱えこむ。
 それはそうだろう、と思った。むしろそのための情報局なのだ。生身の死者個人と相対する管理局員が効率良く死者を捌けるように、情報局員が下拵[したごしら]えをする。そういう関係になっているのだ。なにしろ流れこんでくる情報量は容赦がない。生まれてから死ぬまでの、ごく些細な思い出話までも含みこんだ膨大な量の一代記。取捨選択は丸投げだ。融通がきかないとでもいうのだろうか。
 ――管理局の連中は死者本人と相対するからその一回一回が物凄く濃い。それに比べたらこっちは薄い関わりでしかないけれど、その実恐ろしいほど奥まで突っこむのさ。しかも関わりが薄いばっかりに、その深さに気づかないんだ。
 解るような、解らないような、話だった。
 ――で、そのうちぱんっ、てね。
 手を叩いた音まで憶えている。そのとき自分がびくりと震えたことも、先輩に笑われたことも、憶えている。
 ――情報局員は破裂するんだよ。潰れるんじゃない。
 解った気になった。
 それきり忘れた気でいて、けれど頭の隅にひっそりと残りつづけていた。本当にその言葉の中身を理解したのは、先輩が輪廻の輪に消えたあとだった。
 疲れているのかもしれない、と思った。最近仕事が捗らなくて困る。捌いて流していくだけだった死者たちが自分の中に溜まっていく感覚を、幻でもなく異様な現実感で抱えている。
 もしかしたら、と、珊瑚は隣席を見た。
 銀縁眼鏡の、長身の、切れ長の鋭い眼をした、青年。横顔は人を寄せつけない無表情だったが、こちらを向きさえすれば人懐こい笑顔を浮かべることを知っている。
 眼鏡越しの紅い眼でいくつものウインドウを眺め、慎重にキーを叩いていく。マウスを握る回数が多いのは愛嬌だ。情報局勤務が長くなるにつれて、マウスを使う回数は減っていく。例えば彼の斜め後ろで背を向ける、ワーカホリックの同僚のように。
 言葉の選びかたが慎重だ、というのが、確か班長の彼に対する評価だった。そのくせ妙に大胆に、データをまとめてしまうことがある。朗らかで軽やかな青年だというくらいの印象しか持っていなかったが、書く文章を見ていると、予想もしない性格が浮かび上がってくることがある。そういう意味では面白い職場だった。
 彼に。
 もしかしたらいつか自分も、彼にそんな話をすることになるのだろうか。
 する――のだろう。彼にパソコンの操作方法を教え、作成書類の形式を教え、データをまとめる手順を教え、効率の良いやりかたを教え、そんな技術の延長線上にあるかのように話すのだ。
 きっとそんな話をすることが、もうガス抜きの一部なのだと思う。そうやって口に出すことで、少しずつ、破裂を先送りしていく。つまるところ珊瑚も、ガス抜きが必要な時期に差し掛かってしまったということだ。
 破裂したらどうなるのだろう。
 いつか――ぱちん、と呆気なく弾けてしまうのだ。そして中に詰まっていたものがどろりと溢れ出してくる。きっとそうだ。奥底まで抱えこんだ死者は情報局員の中でどろどろと混ざりあい、宿主も知らない間に、感情の塊に成り下がる。逝かせ遅れの影のように。爆ぜたらきっと皮袋も呑みこんで、コールタールのように汚らしく広がるのだ。
 そんな化け物を抱えたまま、今日もキーを叩いている。それが、黒髪紅眼を与えられ、ブラックスーツの黒ネクタイで縛られた、自分たちの存在理由だから。
 もう、死なんて見たくないのに。
 ぼんやりと眺める画面には、固有名詞のフルネームと二文字きりの一般名詞が流れていく。
 ――なにを考えているのだろう。
 死者のくせに死を見たくないなど笑わせる。鼻で笑ってみたが、それで呟きが消えるわけではなかった。
 ――もう、死なんて見たくない。
 笑わせる。
 キーボードの上で硬直していた両手を握りそして開き、ゆっくりと指を動かして凝りをほぐす。使い慣れたショートカットを二つ経由して、小さなウインドウを睨みつける。
 臼井雄平。
 フルネームが流れてくるや否や、間髪入れずにキーを叩いた。予想以上に大きな音がした。
 珊瑚。
 使い慣れた一般名詞が表示される。同時に文字の羅列が飛びこんできた。一拍遅れて表示された写真は一瞥しただけで済ませる。眼鏡を掛けた、中年男の写真だった。スクロールバーの長さと照らしあわせて、まあこんなものか、と思う。なにしろ表示されているのは誕生から死亡までをだらだらと書き連ねた一代記だ。死者が若いほうが、読む情報は少なくて済む。老人になると悲惨なものだ。未練に関係のある個所を探し出すだけでも一苦労なのだから。以前管理局員にその話をしたら、肩を竦めて笑われた。
 ――私たちは老人のほうが楽なのよ。大抵のことにはもう満足してるから、還すにも大して苦労しない。
 そんなものか、と思った。そんなものなのだろう。
 文字情報を全画面表示にした。そして文章のいちばん最後へジャンプする。一日に何度となく目にする「現世残留」の四文字に辿りついたところで、ようやく本腰を入れた。
 臼井雄平は事故死だった。
 正確に言えば、飲酒運転で単独事故を起こして死んだ。
 珊瑚の主観を入れるならば、それは自殺だった。呑んだ酒の量と呑みつづけた時間を考えると、彼は酔っているというよりも泥酔していたはずなのだ。
 酔っていたから自分が死んだことを理解していないのだろう、と思ったが違った。
 彼は人殺しだった。
 最初は強盗殺人だった。金目当てで入った家で、夫婦を殺した。
 次は轢き逃げだった。逃走中に通行人を轢き、そのまま引き摺って殺した。
 最後は殺人だった。追い詰められたのか、以前から恨んでいた知人を殺した。
 僅か二日の間にそれだけ殺して、最後は泥酔状態で車を運転して死んだ。
 ――死だ。一人の死の中に、夥しい死が詰まっている。
 臼井雄平は。職を失った。金に困り、ナイフと包丁を準備した。隣の市まで車で出かけ、以前から目をつけていた家に、留守を見計らい押し入った。現金と貴金属を奪って逃走しようとしたそのとき、帰宅した鶴坂学と織枝夫妻と鉢合わせた。動転した臼井は脅すつもりだった刃物で学を刺した。蹲ったところを殴りつけた。叫び声を上げた織枝を同じように刺し、二人が二度と立ち上がれないように念入りに刺した。
 ――二人。
 キーボードの上で指が止まった。
 臼井雄平は。ひとを殺した。そのまま車に戻ってアクセルを踏んだ。安全運転だった。家に着く二つ前の交差点で、南条はづきが赤信号を無理に渡った。臼井の側は青信号だったのでそのまま突っ切った。はづきを巻きこんでそのまましばらく進んだ。やがて振り落とされたのか車の振動が落ち着いた。曲がるべき角を曲がらず、臼井は自宅を通りすぎた。
 ――三人。
 喉が渇いた。
 臼井雄平は。三人殺した。もう同じだと思った。職を失うきっかけになったのは岩倉廉治だった。だからそのまままっすぐに岩倉の家へ行った。まだ帰宅していなかったので、門の脇に潜んで帰りを待った。深夜に帰ってきた岩倉を襲い、首を絞めた。
 ――四人。
 臼井雄平は。四人殺した。車に戻ってアクセルを踏んだ。自動販売機で酒を何本も買った。車に戻って呑みつづけた。酒がなくなるとまた手近な自動販売機で酒を何本も買った。車に戻って呑みつづけた。そのうちハンドル操作を誤って電柱に正面衝突し、死んだ。
 ――五人。
 五人死んだ。
 ――死だ。
 右手でマウスを握ろうとしたところで喉の渇きに耐えられなくなった。おかしい。もうとうに死んでいるくせに、どうして喉が渇くのだろう。この身体も精神も思いこみだけで成立しているのならば、飲み物など不要であるはずなのに。どうせ自分も、死者なのだから。
 愛用のタンブラーに左手を伸ばした。青色。海のような青色。生も死も呑みこんで平然と静まりかえる海の色。――死だ。死が詰まっている。
 持ち上げようとして失敗した。震える手がタンブラーを取り落とす。運悪くバランスを崩してそのまま倒れ、蓋が外れて転がって、中身を撒き散らしながらデスクの下に落ちた。それをスローモーションで見届けた。派手な音がするな、と思った。デスクに茶色い液体が広がる。ほたりほたりと淵から落ちて、床に転がったタンブラーに降り注ぐ。今まで身体の中に溜めてきた死者のように。服に掛からなくて良かった。きっとコールタールのように汚れてしまう。
「おい」
 隣から驚いたような声がした。
 銀縁眼鏡の青年が、紅い眼を丸くしてこちらを見ている。――眼鏡だ。同じ眼鏡。四人殺して自分も殺した臼井雄平も、同じように眼鏡を掛けていた。
「珊瑚」
 珊瑚。その名で呼ばれるということは、自分はもう死んでいるということだ。
 ――もう嫌。
 譫言が口をついて出た。
 立ちあがりかけた青年が気圧されたように黙りこむ。
 ――もう見たくない。
 もう良い時期だ。次はきっと自分の番なのだ。身体の中に溜めこみつづけてきた死者のように、データの羅列として黒く塗りつぶされた影になって消えるのだ。どうせ同じことなら早く。
 死なんて。
 だからもう殺してよ。四人が五人になって六人になっても一緒じゃない。
「珊瑚」
 後ろから刃物のような声がした。海棠。彼女の名を思い出す。ワーカホリックの同僚。同時に青年の名を思い出す。月影。名前を持った死者だ。死者で、個人だ。数字ではなく。――
 そこまでしか憶えていなかった。

「情報局の人がココに来るのは珍しいんですよー」
 ぼんやりと横になる珊瑚の横で、医務係が気軽な口調で言った。
「大抵怪我するのは管理局員のほうですからね。死者のほうに逆襲されたり、影に襲われたり、負傷するのは大抵現世で、だからほとんど管理局の人。情報局の人はあんまり怪我しないじゃないですか。そうなると体調不良ってことになりますけど、死人が体調崩すのも滅多にありませんからねー」
 いったいなにをどうやって悟ったというのか、珊瑚がここで目を覚ますその瞬間を事前に知ってでもいたかのようなタイミングで、彼女はカーテンを開けベッド脇のスツールに腰掛けてきたのだった。白いカーテンで仕切られた、白いベッドだけの空間。少し顔を傾けると、黒いジャケットとネクタイがハンガーに掛けられていた。医務室だ、と認識した。
 情報局、賢木班の珊瑚さん? ごく簡潔な本人確認に頷いてからずっと、彼女は一人で喋りつづけている。
 にこり、とこちらを見て笑う。
「だから貴重なお客様ってわけです。仕事中に突然倒れて運びこまれる情報局員さんなんてね」
 別に嫌味を言っているわけではないらしい。
「あ、珊瑚さん、どこまで憶えてます?」
「……どこまで、って」
 最後に聞いたのは海棠の声だった気がする。思い返してみて、彼女もあんな声を出せるのかと妙に感心した。動揺の類とは無縁な、精密機械のような人だと思っていたのだけれど。
「突然様子がおかしくなってそのまま倒れた、って、海棠さんが連れてきてくれたんですよ。半分担がれてたとはいえ一応歩いてましたけど、……ふうん、憶えてはいないんですね」
 記憶にはなかった。けれど、本当に昏睡していたのなら海棠一人で珊瑚を抱えられるはずもないのだから、移動できる程度の意識はあったのだろう。
「まあ、過労ですね。ゆっくり休めば落ち着きますよ。逆に言えば落ち着くまで仕事しちゃダメです」
 身体を起こすのも億劫だった。だから横になったままで、医務係を眺めた。黒い髪を肩まで伸ばした、中性的な雰囲気の女性だった。「葬儀屋」としては珍しいことに黒いジャケットを着ていなかったが、その代わり無造作に白衣を羽織っている。医務係なら当然だろう。ただ白衣の中はやはり白いブラウスと黒いネクタイで、その取りあわせには違和感を覚えた。
 仰向けの姿勢から、身体を横向きに変えた。そして思いつきのままに、乞う。
「……名前を教えてください」
 医務係がきょとんとしてこちらを見る。
「私?」
 頷くと、彼女は軽やかに答えた。
「浜風です」
「浜風さんは、……死を見ることはあるの?」
 間髪入れずに呼びかけて問いを重ねた。
 浜風と名乗った医務係は、訳が解らないとでも言いたげに黙りこんだ。けれど珊瑚がそのまま彼女を見つめつづけていると、やがてくしゃり、と困ったように微笑んだ。
「私が見るのは傷ですよ。死じゃない」
「傷?」
「死人が死ぬときは一瞬じゃないですか」
 独り言のような口調で言って、浜風は白衣の胸ポケットからペンを取りだした。くるくると器用に回しながら、続ける。
「死人は死ぬんじゃなくて還るんです。消えるんですよ。だから一瞬。どんな重傷でも、無意識が意識を保っているなら死なないんです。ココに来られるくらいの体力があるならそのうち治ります。……治るんじゃないな、元に戻るんですよ。巻き戻しみたいにね」
 綺麗な指先でペンが回る。反時計回りだった。
「だから私が見るのは傷だけ。傷と、苦しみだけです」
 噛んで含めるようにそこまで言って、ペンを止めた。息を詰めて見つめていた珊瑚の顔を見て、――にかり、大袈裟に笑ってみせる。
「なーんちゃって」
 呆気にとられる珊瑚にまた悪戯めかした笑みを向け、ペンをポケットに戻しておもむろに立ちあがる。掛ける言葉も思い浮かばないうちに、白いカーテンの隙間からひらひらと手を振って、去っていった。
 閉じたカーテンは白い壁になった。
 ぽかんとして、布の壁を見つめた。
 ――傷と、苦しみだけです。
 傷を見て、苦しむ姿を見て、手当てをして、そして巻き戻しを見守る。それが医務係の役割だ。生者の医師とは違う。生者に巻き戻しはないのだ。傷を負ったら、傷の無い状態に進まなければいけない。けれど死者は。死んだ時点で時間が止まる以上、そこからどれだけ傷を負っても、姿かたちを保ってさえいれば、元の状態に戻るだけだ。傷は残らない。
 けれど傷の記憶は確実に、刻みこまれていく。
 見届けるだけでなにもできないというのはどんな気分だろう、と思った。思ってから、きっとあの笑顔で飄然と受け流してしまうのだろう、とも思った。
 情報局員は。どうだろう。
 管理局員のように、死者の生の声に触れることはない。医務係のように、傷を見届けることもない。ただ、死者の残した客観的事実を拾いあげるだけの傍観者だ。
 ――傍観者だと思って甘く見ていた結果が、これではないのか。
 自分でも知らないうちに、事実は自分の中に積み重なっていく。数えきれないほどの死が、自分の中に刻みこまれていく。
 他者と苦しみを共有することがないというのなら、その分自分のメンテナンスに回すのが筋というものだろう。なにしろ情報は基礎だ――情報局員の扱う情報は、「葬儀屋」が扱う全ての仕事の基礎になる。
 不意に、壁の向こうで浜風の声がした。それに応じた低い声にも覚えがあった。――まったく、いったいどんな勘の良さをしていれば、こうもぴたりとタイミングを合わせられるのだろう。
 息を詰めて待っていると、入るぞ、と控えめな呼びかけがあった。どうぞ、という返事を待ってから、カーテンを割って銀縁眼鏡が現れた。――月影だった。
 長身のせいだろうか。それとも無表情のせいだろうか。いつにない威圧感を纏っているように思えて、――怖い、と、確かに一瞬そう思った。
「大丈夫か?」
「うん、……ごめんね」
「いや、……座って良いか」
 けれど律儀に許可を求めた彼は確かにいつもの彼だった。そういえば、珊瑚が応えるまでカーテンに触れる気配すら見せなかった。
 だから努めていつも通りを装って、短く答える。
「どうぞ」
 答えながら、シーツの端を握った手の力を緩めた。
 視線の遣り場に困ったのかしばらく眼を動かしていたが、結局月影は、ひたりと珊瑚の眼を見つめてきた。
「あの男、起こしといたよ」
 視線と同じ、簡潔な物言いだった。――シーツの端を、また握る。
 それに感づいたのか、彼はそっと眼を逸らした。枕の辺りに視線を落として、淡々と言葉を連ねていく。
「書きあげて、賢木にも出しといた」
「ありがと」
「……とんでもねえ奴だとは思ったし、思うところはないではないけど」
 なんの前触れもなく、語る。
「別になんともならなかったのは……たぶん、俺が珊瑚ほど生者も死者も見てない新人だから、なんだろうな」
 情報局員にとって、個人は数字だ。何人の死者を書類に起こしたか、何人が死んだのか、――書類に起こした死者とて、プリントアウトが済めば綺麗さっぱりと忘れてしまう。死を数字としてしか語れない。
 だから、生身の死が怖いのだ。いつも向きあっているはずのものを、その重みに反して軽く扱いすぎていると、どこかで自覚しているから。数を重ねれば重ねるだけ、一人が軽くなるものだから。それに気づかないふりをして、数字を数えているから。
「俺はお前ほど生者も死者も見てない」
 月影は繰り返した。珊瑚は彼を見た。見た目も若ければキャリアも若い、けれどきちんと着こんだブラックスーツは妙に似合う、一人の青年にすぎなかった。けれど彼の表情も声も性格も、知っていた。
 パソコンの中を流れていく死者を、もしも彼に対するのと同じように扱ったら――きっと辛いだろう、と、思った。だから数字として扱う。それはきっと、自己防衛の一種なのだ。
 重みを理解した上で、軽く扱う――そうやって自分を誤魔化して、そうやって自分を守っていることを自覚していなかったから、歪んで破裂したのだ。きっと。或いは、それが必要なことなのだと知らなかったから。
「だから見てきた死なんて高が知れてるけど」
 抱えこめる個人の数には限りがある。だから個人を抱えこむのは、管理局の仕事だ。死者の流れが暴走しないようにコントロールする治水者。その役割を、情報局は、珊瑚は、振り分けられた。
 嗚呼、なんて面倒な、職場、なのだろう。
「……だから、殺してなんてやらねえよ」
 はっきりと言いきって、顔を上げた。
 珊瑚はまじまじと――後輩を見た。しいてそうしているような無表情だった。
「ベテランならベテランらしく自分で決着つけろ」
 殺してほしいと口走ったことを、思い出した。
 けれど羞恥を覚えるより、月影が続けるほうが早かった。
「ただ俺は、少なくとも声知ってる奴が壊れるのは見たくない、……個人的に」
 珊瑚は、
 月影を見た。
 凝視しすぎたのか、彼は思い出したように視線を逸らした。怒ったような横顔だった。顔の輪郭が、レンズの内外でずれている。
 彼にはいずれちゃんと話をしなければならないのだろう、と、直感的に思った。人を数字として扱うことを覚えないと、破裂してしまうかもしれないと。けれど同時に、彼はそれを一人で見出すだろうという気もした。そのくらいのドライさは持ちあわせているだろう、と。
 だからシンプルに、
「月影」
「なんだよ」
「ありがと」
「……海棠に言っとけ、馬鹿」
 こちらを一瞥しただけでそのままむすりと出ていく後姿を、苦笑交じりで見送った。
 カーテンの白い壁が揺れている。その向こうで浜風がなぜか声を弾ませていて、月影が応えている。仏頂面が目に浮かぶ声だった。
 あーいうのって、もしかしてモテるのかな。
 なぜだかそんなことを思いながら、布団を引っ被り束の間の眠りに落ちた。
 戻らなければならないのだ。あの仕事場へ。あの、居場所へ。

――了


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