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1.皐月


 上司が昇進することになった。
  栄転だ。祝い事だ。しかし事実上、それは消滅に等しい。なにせ班長以上の役職に居る死人がどんな形で存在しているのか、誰も知らないのだ。「大きな流れの一部になる」という言葉が上司一流のジョークであるのか否か、皐月には判断がつかなかった。おめでとうございますと応じたのが一拍遅れたのは、その逡巡のせいなのかもしれない。
 椅子に深く腰掛けると、両脚が宙に浮いた。
 書類の束をぱらぱらとめくり、一人一人名前を確認する。死者に名があることを知っているかいないかで、仕事への姿勢は大きく変わる。少なくとも、それが皐月の持論だった。死者は集団の一部ではなく、特定の個人であることを認識しなければならない。そうでなければ「葬儀屋」など務まらない。こちらにとっては日々何人も捌く魂でも、彼らにとっては一度きりの人生だった。その一度に、消えない後悔を残してしまった。だから、生死の境を侵してまで現世に留まろうとする。
 生死の番人を名乗るなら、その思いを忘れてはならない。
 一束は全部で十人。若者から老人までがまんべんなく含まれた束だった。単純に死者の年齢層だけを考えるなら老人が大多数であることを思うと、未練を残す者は圧倒的に若者のほうが多い――ということになるのだろうか。
 声をかけようと隣を見ると、前髪越しの相棒と眼が合った。ずっとこちらを見ていたらしい。話しかけ損ねていたのだろうか。
花譜[かふ]
「どうしたの」
 名を呼ぶと、返事ではなく疑問が返ってきた。
 書類を手にしたままで、皐月は改めて花譜を見る。肩下までの長い髪。前髪の向こうの顔立ちは柔らかだが、彼本人はそれを嫌っていた。その顔を、花譜がすっと伏せる。最初は腹が立ったがもう慣れた。それほど子供ではない。
 手にした書類に眼を落とす。とんとん、とデスクで叩いて端を揃えた。そして相棒から眼を離したままで問いかける。
「どうしたってなんだ」
「……難しい顔してるなって思ったから」
 手を、止めた。
 顔は動かさず視線だけで隣を見る。長い髪のせいで表情は見えなかった。
「そう見えるか」
「ちょっと、ね」
 聞き取りにくい小声。いつもであれば、もう少しはっきりと喋ったらどうだと小言を言うところだったが、今日はそんな気分になれなかった。
 書類の束をデスクの端に寄せ、頬杖をつく。そして先刻の会話を思い返した。これは迂闊に他人に話して良い内容だっただろうか。だが相棒であれば、話さないわけにはいくまい。
「さっき班長に呼ばれた」
 返事はない。たぶん、無言で頷いたのだろう。
「昇進するらしい」
「……昇進?」
 勝手に続けると、訝しげな返答があった。頬杖のままで隣を見ると、花譜もこちらを向いている。今度は視線を逸らされなかった。
谷中[やなか]さんが?」
「お偉方の一員、というか、一部になるらしいな――曰く『大きな流れの一部』」
 上司の言葉をそのまま繰り返したが、花譜はほんの少し、首を傾げただけだった。困ったような頼りなげな表情は元からだ。意味が解らない、と言いたげに、皐月の言葉を待っている。
 ――くす、と、皐月は笑った。
 花譜が意外そうに、傾げた頭をまっすぐに戻す。
「班長が上に上がると、ポストが空くだろう」
 頷き。
「入れと言われた」
 沈黙。
 皐月は花譜の表情を眺めている。口許が緩む。可笑[おか]しくてたまらない。
「え?」
「次期班長に指名されたよ」
 冗談のような、それは本当の話。
 花譜がゆっくりと瞬きをした。そうしてたぶん、彼は考えている。皐月は他人事のように笑っている。笑うしかないだろう。こんな、まさか、自分が。
「馬鹿みたいな話だ」
「班長って、皐月が?」
「皐月が、だよ。私だ」
 ようやく花譜が眼を丸くした。
 皐月は視線を落とした。高めの椅子に腰かけて、両脚が宙に浮いている。子供の身体に大人のデスクは少々勝手が悪かった。
 十歳になるかならないか――そんな外見年齢で班長に推挙された「葬儀屋」がかつて居ただろうか、と、子供の姿で皐月は考える。


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