冷蔵庫を漁って戻ってくると、姉がソファで本を読んでいた。 「なに読んでるの?」 なにげなく問うた瞬間、しまった、と思う。読書中の姉に話しかけるのは自殺行為だ。 ゆっくりと顔を上げた姉が、不自然に硬直している私と、私の右手とを見る。幸いにして、不機嫌そうな顔はしていなかった。ただ気になるといえば、ちらと垣間見えた企み顔。 恐ろしく長く感じた一瞬のあとで、姉はにこりと笑った。 「プロパビリティの殺人って知ってる?」 いかがわしい響きしかない言葉を、彼女はすらりと口にした。――意味を理解する以前の問題として、正しく復唱できる自信がない。 「知らない。誰の本?」 適当にあしらってみると、彼女は一瞬きょとんとしたあとで、突然ころころと笑いだした。――むっとした。だが、だいたい、彼女は好きな本が偏っているのだ。妙な知識ばかり山と蓄えている。その記憶力と情熱をもっと他のことに注げばいいのに、というのは、姉を知るほぼ全員に共通の思いだろう。 機嫌が良いらしいのを良いことに、姉の隣に腰かける。本を覗きこもうかとも思ったが、嫌がられそうなのでやめておいた。 「違う違う、タイトルじゃなくって。そうだなあ……概念?」 「概念?」 頷くと姉は、本に栞を挟みながら、私の右手に視線を落とした。ついさっき冷蔵庫からくすねてきたばかりの、真っ赤なトマト。 汁を飛ばさないように注意しながら、私はそれにかぶりつく。 それだけの動作を待っていたかのように、姉は本を閉じて言う。 「例えばさ、あんたが無類のトマト好きだってことを知ってる人間が居るとする」 「みんな知ってるよ」 「その上で、あんたを殺したいと思ってる人間が居るとする」 むせた。 縁起でもない。 「……無茶苦茶なこと言わないでよ」 「例えばの話じゃない」 姉はすまし顔で座っている。その表情からして、既に胡散臭いのだ。疑いの気持ちを眼差しに乗せて、私は姉を見つめる。 「あんたを殺したいっていっても、その人にしてみれば、自分が捕まるのはまっぴらごめんでしょう」 「私なんかのために捕まるなんてね」 卑屈な茶々は無視された。 「だから、自分は手を下さずに完全犯罪をしようとするわけ。凶器は、あんたが好きなトマト」 言われて私は手許を見た。かじり口がみずみずしく光っている。つられてまた一口、かじる。 「毒?」 「一発でバレるわよ」 姉は笑った。腹が立つほど綺麗に見えた。 「例えば……そう。あんたはトマトを生でかじる。だから、買ってきてから長期間放っておく。もし腐って、知らずにあんたが食べたら、あんたは酷い目に遭う。例えば、あえてトマトを洗剤で洗う。で、あんまりすすがない。巧くいけばあんたの身体には悪い。それか、あえて洗わないってのもアリね。農薬まみれかもだから。他にも」 「……そんなので死ぬ?」 「さあね」 妹の殺害計画を語っているとは思えないほど、その言葉は軽かった。 「とりあえず死ぬほうに賭けるのよ。成功すれば完全犯罪。失敗しても、何度でもやったら良いでしょう、証拠はないんだから。これが、プロパビリティの殺人ね」 プロパビリティ――蓋然性。 「講義終わり」 酷く楽しそうに、姉は笑顔を見せる。殺人の話をこんなに楽しそうにするなんて、この人は大丈夫なんだろうか。一人の私は一抹の不安を感じたが、今に始まったことでもないじゃないか、と、もう一人の私が必死で宥める。 姉はうきうきとした顔をして、また本を開いている。私もまた、右手の中のトマトを見つめた。真っ赤な果実。滲んだ果汁。 「トマトの赤って血の色と同じね」 姉はこちらを見もせずに、気軽な口調で付け加えた。 馬鹿馬鹿しい、と口の中で呟く。それと同時に、トマトの味が蘇った。 私は少し、顔をしかめた。 「最近トマトの売れ行きが悪いんだけど」 野菜室を覗いた母が、不思議そうに言った。彼女は本を読みながら、そう、と、わざと気のない返事をする。それから少し考えて、付け加えた。 「あの子があんまり食べなくなったからね」 「そうそう。まあ、もうトマトも安くないから有難いか」 でもなんか気味が悪いわ、と、母はセーターの上から大袈裟に腕をこすり笑ってみせた。彼女も笑う。だが、別に母につられたせいではなかった。 ――案外、効くものね。 |