星間距離

二、


 外見と内面は必ずしも連動しない。生者でもそうだろうが、死者ならなおのことだ。
 子供のときに死ねば、そこから成長することはない。魂の姿のまま年を重ねれば、精神年齢だけがアンバランスに数字を増やしていくことになる。死ねばそのまま輪廻に還っていく魂なら有り得ないが、その一方で、例外という大義名分の許、魂という姿のままで存在しつづけている死者も居る。
 不慮の死を迎えた者が、持ちえたはずの寿命を使って奉職する――現世を彷徨う魂を、輪廻に還す、生死の番人。
 それが「葬儀屋」だった。
 番人とはまた大仰に名乗っている、と、夏野は常々考えていた。要するに、まだ死にたくないとごねる死者を宥めすかすのが仕事なのだ。厳めしい顔をして、重い扉の前を護る警備員ではない。せいぜいがカウンセラーだ。
 自分が「葬儀屋」になってどれくらい経つのだろう、と考える。時間感覚などとうの昔になくなっていたから、正確なところはわからない。ただ一年や二年という長さではないことは確かだった。そうでなければ、せいぜいが高校生程度の外見をしていながら、班長からもベテラン扱いされるような状況にはならないはずだ。外見と中身が噛みあわないことが傍目にもはっきりと判る程度には、喪服を着つづけてしまったのだろう。
 だが――。
 空の隣席を見る。相棒は、書類の束を持って上司への報告に出かけているところだった。いってきまーす、と軽い挨拶をして、にこりと笑顔を付け加える。それが星見の挨拶だった。おっとりとした、ある意味ではお嬢様然とした若い娘。夏野の知る星見は、そういう死人だった。
 星見の中にもう一人の死人が棲んでいるということを、この組織の中で何人が知っているのだろうか。
 最初に覚えた違和感は、書類の確認作業中だった。夏野が書いた書類に、星見が眼を通して客観的な矛盾がないか確認する。それを任せて夏野が別の仕事に手をつけようとしたとき、星見が確かに一言呟いた。
 ――なにこれ、信じられない馬鹿ね。
 普段の星見の口調とかけ離れているだとか、そんな眉の顰めかたは見たことがないだとか、そんなことを思うより先に、お前もさっきその死人に会ってきたじゃないか――という違和感が掠める。まるで初めてかの死者を眼にしたような言葉。
 確認を終えた彼女が書類を手渡してきたときの表情も、なにか見たことのない形をしていた。共犯者じみた微笑で投げてきたウインクにも気づかないふりをした。けれど決定的だったのは、受け取った書類に印を捺す夏野を見て、数分後に星見が眼を丸くしたことだった。
 ――あれ、夏野、その書類もう見たっけ?
 はっきりとした違和感はそれが最初だったが、もしかしたらそれ以前にも、なにか微妙な齟齬を感じとっていたのかもしれない。不審に思うことは何度もあったが、どうしても本人には問いただせなかった。そこから起こるであろう混乱を予測して、慎重に避けていた。ただどうしようもない座りの悪さだけが堆積していく。
 星見に似た別の顔をしている彼女が、自ら夏野に話しかけてきたのは、その違和感からしばらく経ったある日のことだった。
 月見、と、彼女は名乗った。
 そこで初めて、星見と彼女が別人であることを理解した。正確には、受け入れた。
 多重人格という言葉があることを、夏野は知っている。けれど月見本人は、あまりその言いかたを好まなかった。
 ――だって、あたしたちって死人でしょ。一度死んでから、まかり間違ってもう一度生きる羽目になっちゃった不幸な死人。だからさ、なんかの事故で、一つの身体に間違って二つの魂が入っちゃっても不思議じゃないと思うのよね。
 双子か姉妹か母娘か、悪くても親友だったと思うのよ。自分の存在について彼女が考察したのは、驚くほど冷めた口調で語ってみせたその一度きりだった。一つの身体もなにも、死人に身体なんかないじゃないか――そう反論することはできたが、それは敢えてしなかった。月見が言うことが、もしかしたら真実を射ているのかもしれないと思ったのだ。星見から月見が生まれたわけではなく、星見と月見という二人分の魂が、たまたま星見の器に同居しているだけなのだと。もっとも、前世の記憶が綺麗に抹消されている以上、自らの起源について考えることは無意味に等しいのだけれど。
 二度目の生を受けた「葬儀屋」は、名前も含めて生前の記憶を失くしている。
 星見の中に棲み、誰からも認識されていないはずの月見が「月見」という名を得ているということは、班長たる飛鳥は月見の存在を知っているのだろうか、と推測する。だがそんなことを、夏野が詮索する必要はない。
 夏野には星見という相棒がいる。星見の中には月見が棲んでいる。月見は星見のことを知っているが、星見は月見のことを知らない。月見も、少なくとも今のところは知らせる気がない。――夏野にとっては、これだけの情報があればもう十二分だった。月見が自分の存在を星見に知らせる気がないというその一点が、ほんの少し気になるだけで。
 手先に意識を集中させながら、そんなことを考える。初めて月見という存在を認識したときから、幾度となく辿ってきた思考経路だった。ここまで辿ると、大抵の場合鉛筆を一本削り終わる。だからなのか、そこから先に考えが進んだことはほとんどなかった。稀に削る時間が長引いてその先へ行ったとしても、内容はすぐに忘れてしまう。何度も繰り返さないと記憶が定着しないというのは、生者も死者も同じらしい。
「あ、また鉛筆削ってる」
 相棒の声が降ってきて顔を上げた。弟に向けるような呆れ声。ああこれは確かに星見だ、と安心する。
 デスクの上を見る。左手には深緑色の鉛筆が一本、右手に銀色のナイフが一本。もう一本同じナイフが、デスクの隅に横たわっている。そちらは重石代わりだ。鉛筆の削りかすを受けとめる紙が、ずれてしまわないように。
「癖なんだよ」
 弁解じみた言葉を呟いて、夏野はわざと乱暴に紙を丸めた。木屑が乾いた音を立てて潰れる。そのまま手許も見ずにごみ箱へ投げた。ナイフの刃先を慎重に拭い、二本揃えて鞘に収める。いずれにせよ、本来の用途からかけ離れた使いかたばかりしていることには変わりない。
「癖なのは知ってるよ」
 書類の束をデスクに置いて、星見は笑った。
「最初の頃は、とにかく『上手に鉛筆削る子だなぁ』って見惚れてた」
「大袈裟だな」
「だって、今時ナイフで鉛筆なんか削らないじゃない」
 それは確かに否定しない。少なくとも現代において、鉛筆とは一般的に鉛筆削りによって削られるものである。そもそも鉛筆自体が懐古趣味的な道具になりつつあるのだ。夏野にとってさえ、鉛筆は、単にナイフを遣うための口実にすぎなかった。考え事をするには鉛筆を削るのがいちばんだ。そしてその作業をしたいがために、夏野はシャープペンシルを使わない。刺さりそうなほど鋭い鉛筆を一日中使いつづけて、限界まで芯が丸くなった頃を見計らって丹念に削っていくのが、ささやかなこだわりといえばこだわりだった。
「精神統一になって落ち着くんだ」
「前も言ってたよね、そんなこと。……わたしも削ってみようかなあ、鉛筆」
「やめとけって。俺の鉛筆一本駄目にしたくせに」
 からかうと苦笑が返ってくる。一本駄目にした、というのは誇張ではなかった。自分も削ってみたい、と言いだした星見が「わたしには向いてないかも」と結論づけたのは、渡した鉛筆を四分の一程の長さまで短くしてしまった後だった。まだ一度も削っていないまっさらの鉛筆を渡してしまった夏野の悪戯が効きすぎたせいかもしれないが、それ以降、彼女は鉛筆削りに挑もうとしたことはない。
 鉛筆削りは夏野にとって精神統一の手段であると同時に、現実逃避という目眩ましでもあった。曰く、これは単なる平和利用の道具にすぎない――。
 これが本当はなんの道具なのか、星見にはまだ伝えていないはずだった。察しているのかもしれないが、夏野の口から伝えていないのだから同じことだ。鞘入りのナイフを抽斗に収めながら、そんなことを思う。
「ねえ」
 抽斗を閉めるタイミングを見計らっていたかのように、星見が声をかけてくる。日常の調子で振り向くと、非日常的な憂いの眼とぶつかった。
「わたし、昨日夏野になんかした?」
「なんかって」
 瞬間、ブラックスーツ越しに腕をとられた感触が蘇る。思わずその部分を掌で覆うと、星見の眼が戸惑い気味に追ってきた。
「……なんかって、なんだよ」
「腕組むなんてやるじゃん、って笑われちゃった」
「誰に」
糸竹[いとたけ]
 同僚の名を聞いたとき、そりゃ駄目だ、と天井を仰ぎたくなった。彼に言われてしまえば信憑性しかない。ひたむきな就職活動学生の見本のような青年だから。けれど嘆きを呑みこんで、真正面から相棒の顔を見つめつづけた。そうして彼女の出かたを待った。
「……ねえ、わたし、ときどき記憶がない気がするの」
 星見には珍しい、消え入りそうな声だった。
 眼は逸らさない。逸らしたその瞬間、彼女の言葉を是と認めることになる。
 ――なぜ認めてはいけないのだ? 事実じゃないか。
「見間違いだろ。あいつだって、たまにびっくりするほどテキトーなこと言うし」
 言ってしまってから後悔した。ここは、「腕組むなんてやるじゃん」の台詞の意味を質すべきだっただろうか。星見の姿をした月見が夏野と腕を組んでこの班室に帰ってきたことを――今の夏野は、知らないふりをしている。
「そうかな」
 不自然さに気付いているのかいないのか、星見は困ったような表情を浮かべたままだ。自分の気のせいかもしれない。でも、そうではないかもしれない。
 途方に暮れる相棒の眼を、夏野は塞ぐほうを選んだ。
「大体お前、こんなガキと腕組むほど悪趣味じゃねえだろ」
 言って苦笑する。表情の繕いかたは、この仕事をするうちにすっかり身についてしまった。星見相手なら、まだそれができる。
 なぜ誤魔化すほうを選んだのだろう。
 面倒事が嫌だからか。それとも、自分が口出しすべき問題ではないと身を引いたからか。まさか。大義名分を掲げたつもりでいても、結局は逃げているだけだ。問題の所在を見つけかけた相棒の手を引いて、明後日の方向に導いただけだ。そのくらいの自覚はある。
 結局は怖いだけじゃないか、と自嘲した。今のこの状況、不安定ながら安定した状況を崩すのが怖いのだ。
「まあ、それはそうだけどね」
 星見が苦笑する。ぎこちない繕いかただと思ったが、口には出さない。わざと芝居めかして、夏野はぱんぱんと手を叩いた。
「仕事しようぜ、星見」
 明るく笑うと、その反動かくらりと眩暈がした。最近疲れやすくなった気がする。


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